4/20/2011

孫正義はわかっている!

今週末はアースデイ(Earth Day)だ。色々なイベントが企画され、毎年参加しているのだが、私は今年は参加を自粛する事にする。福島原発の問題で被災者も日本国民も被害者のフリをしているが、見方によれば私達は立派な加害者である。私は原発を止めろとか言っているのではないが(第一、今すぐに止められるわけがない。どうやって燃料棒を処理するの?)、色々な問題が露呈したのは明らかだ。今までのような不透明な原発推進を勧めていくのは到底不可能だ。事故によるコストを考えると、真剣に安全性を再考する必要がある。

政治をおろそかにし、結果的に利権団体などが中心になった原発行政を民主主義下で看過してきた国民の一員として、私は今回の事件を未だにどう捉えるべきなのか困り果てている。蔑視ではないが、こういう事件はロシアや中国や調子に乗った新興国で起こるべき類の事件であり、日本で起こるべきでは無かったと未だに思っている。或いは、日本は所詮は調子に乗っていた新興国だったのかも知れない。

経済的にはすでにコーナーを回りきった感じがある我が日本であるが、終に社会や技術問題までおかしな事態になろうとしている。国民全体が真摯に今回の事件を受け止めて、どういった日本を作っていくべきなのかを考えなければ冗談抜きで明日はないと思う。1945年(終戦)には競争相手がいなかった。1991年(バブル崩壊)には競争相手は極端に弱かった。2011年(東日本大震災)、成熟し始めた競争相手は日本の沈没に憐れみを感じてくれている。

孫正義が面白い事を始めようとしている。代替エネルギー財団を設立して、100人ほどの科学者を集めて政府に提言していくという事だ。これは将に正しい方向だと思うし、孫正義にしか出来ないことである。ただ金を出すのではなく、こういった活動を通して日本の未来を作っていくべきだ。募金をしたって、どうせ政府や組織やがめつい被災者に非効率にお金を使われるだけなので、こういった復興の仕方を望んでいる。私もこのような動きに参加していきたいと考える。

4/19/2011

NGOやシンクタンクが未来の社会を作る

ヒラリー・クリントン国務長官が来日して、松本外相(誰それ?)と会談した。そこに、非常に面白い事が書いてあった。

「両外相は、復旧・復興に向け、両国政府と企業・シンクタンク・非政府組織(NGO)などによる官民のパートナーシップを進めることで一致した。(毎日新聞4月18日)」

つまり米国は復旧復興案に積極的に関与する、という事だ。しかも、シンクタンクやNGOまで関与させたいと言っている。松本外相は二つ返事をしたらしいが、これがどれ程の重要な意味を持つかを理解しているのだろうか?

既に私は何回もこのブログ上で書いているのだが、日本では今まで自民党と霞が関を中心とする密室癒着政治が行われて来た為に、透明性も何も無く政策が決定されてきた。そして透明性が無い為に、その影で不明瞭な税金の使われ方が罷り通っていた訳である。税金を使う側は、競争が無いために革新を怠るだけではなく、新規参入者を力(権力・金・法律)で排除してきたため、社会全体が沈滞するという「日本病」が蔓延していたのである。

ヒラリーの今回の提案は、日本ムラの構造にメスを入れるものだ。本当に日本政府が意思決定に海外のシンクタンクや「まともな」NGOなどを受け入れれば、社会は劇的に変わっていくと思う。私はもろ手を挙げて賛成したい。

ただ公平な競争が導入されれば、NGOやシンクタンクは海外の物が中心となると思われる。何故なら日本ではNGOなどは社会の内側には入れてもらえず、優秀な人材が全く集まっていないからだ。翻って、アメリカやヨーロッパなどでは、NGOに優秀な頭脳や金が流れており、社会の一部として成熟したNGOも多々見受けられる。(という事は日本の震災復興が欧米人の雇用の受け皿になるという事だ。)

まともなNGOを意思決定機関として受け入れると、独立行政法人や官僚組織と対立する事になるだろう。地元の利権団体とも対立する可能性がある。まともなNGOが議論に加われれば、効率性や長期投資を優先する政策決定が国民の目の前に晒され始めると思う。そしてそれこそが我々が望む社会の形だと思う。責任者が隠れ続け、利権を一部のトモダチ達が分け合うような腐った社会はもう懲り懲りだ。「仕分け」とはそういういった社会を目指すことについての比喩ではなかったのか?

日本の政治家は自分達は「立法」をする仕事を受け持っているという事を自覚するべきだ。そして立法権を持った人間がするべき事に集中し、訓練を受けていない事に関してクビを突っ込まないようにするべきだと思う。日本の政治家は自分達の能力を弁えずに出しゃばり過ぎだし、受身に回って政治にパラダイムチェンジのアイディアを期待している日本国民もどうにかしていると思う。アイディアは社会が出すものだ。政治家は法を作る仕事。官僚は行政を行う機関。内閣は官僚を監視する機関。そういったプロフェッショナリズムに基づいたタスクの分担を国民が共有するべきだ。

民主党有力議員の秘書をしている友人がいるのだが、そいつの認識などを聞いていると日本に未来を感じられない。結局は古い枠組みの中でしか物事を見れず、未来をどうしたいのかといった発想がそもそも欠落している。日本の現状に疑問を感じ、やる気だけが満ちているのであれば、ボランティアでもすればいいのであって、政治にクビを突っ込んで欲しくない。良い友達であるが、もしそいつが政治家に立候補でもすれば、私は反対運動をする。話が逸れて申し訳ない。

行政のあり方、立法のあり方、そして国民の社会に対するコミットメント。それらをきちんと理解し、誰が何を受け持つべきかをしっかりと定めなければ日本に明日は来ないと思う。逆の言い方をすれば、今こそが方向転換のチャンスであると思う。

4/18/2011

責任を取らないでいい社会。事なかれ主義の東電

東電の会見も回数が少なくなり、解決に向けてのロードマップを発表して一段落着いてきた感じがする。ロードマップは、会見中にフリーの記者に出せと言われたから作って出したはいいが、二号機をはじめ近づくことも出来ないくせに9ヶ月で解決といった、超がつく楽観論を出してきた。このロードマップを作るのに1ヶ月必要なわけは無い。

東電の会見をインターネットで見るたびに時間を浪費したと感じるのだが、あの暖簾に腕押しの会見が東電なりの情報公開の仕方なのだろう。東電自身は、ああいった会見を開くことで説明責任を果たしていると本気で思っているのだろう。東電は事故の実態を少しでも小さく見せようと努力していた。そして事実から推し量れる予測を全て隠蔽していた。データを出せと言われれば適当な数字は出てくる。工程表を出せと言われれば、とってつけたようなものを出す。副社長を連れて来いと言われれば、連れて来る。社長を出せと言われれば、最後の最後で出る。辞めろと言われれば、会長は辞任を言い出す。

東電は役所よりも役所的だと言われているが、まさにその通りである。マックス・ヴェーバーではないが、官僚的とは労働者をロボットとして効率化することにあり、東電の社員はすべてがロボットに見える。誰かに批判されるのを恐れる余り、自らを厳しく規制をする。愛社精神も無ければ、国民に説明しなければならないという意思も無い。結局、会長、社長、副社長から社員まで、全てが言われたことだけをするという体質なのだ。会社から社員まで、事なかれ主義が浸透しきっているのだろう。隠蔽体質と揶揄されているが、それは事なかれ主義に起因しているのだと思う。

東電を国有化するべきだ、などと言った意見を良く見るが、私は意味が解らない。国有化したらどうなるのか?東電は政府に独占を認められている企業である。手厚く独占を許されて競争をする必要の無い会社が、株式を発行しているだけなのだ。東電が国有であれ、民間であれ、実際問題として何も変わらないし、それ程どうでも良い話も無い。国有化しないと被災者にお金を払えないというのも嘘で、どうせ税金を使うのだ。株価がゼロになって資産が底をついた時点で、東電を国有化すれば良いだけの話では無いか?それまでは市場に任せればいいのだと思う。

銀行や証券市場が東電の株式や債券を大量に持っているので、潰すと大変な事になるという人がいる。それは原発のリスクを評価しないで投資した投資家が問題なのだ。リスク評価が出来なかった人達を救済するのは、明らかなモラルハザードを引き起こす。その人達は、リスクを無視して投資した責任を負うべきである。それが経済の悪化を招こうとも。

そもそも東電の存在自体が公平な資本主義社会に反するのである。何を根拠に独占を許されているのか?電気代はどのように決定されているのか?余りにも優遇されていると思う。もともと電力会社が嫌がっていた原子力を国が押し付けたというのは理解できるが、それでも、天災が起これば政府が原発事故を救済するという法律にしても、余りにもふざけ過ぎだ。東電は全くリスクを取る必要がないではないか?一民間企業にそんな事が許されていたのか?そしていざとなれば独占企業の株主や債権者まで救済されるような社会であれば、日本に資本主義を謳う資格はない。

民主党は、日本社会を変えるといっていた。永田町と霞ヶ関とインチキ独占会社が作ってきた非効率的な資本主義を、この際に仕分けしてはどうだろうか?民主党は、原発を許可した原子力安全委員会の面々や、津波を過小評価していた土木学会や、原発行政に関わってきて政治献金を受けていた自民党議員や地方政治家、歴代の経産省の責任者、天下りした連中、福島県知事、東電の歴代幹部達、勝俣会長の兄弟でウラン利権を持っている丸紅社長、さらには金を貸した銀行など。そう言った連中を全て国民の前に晒し、責任という意味をきちっと定義して欲しい。

事無かれ主義が蔓延り、誰も責任を取らなくて良い我が日本。この事件の責任者が菅でも清水でもない事は誰の目にも明らかである。が、この件で攻められているだけではなく、未来の日本のためにきちっと責任というものを示して欲しい。責任者出て来い、といって誰も出て来ない社会は病んでいるだろう。或いは、時間が経ってこのニュースに飽きてしまえば有耶無耶になるのだろうか?今はとりあえず耐えろ。事なかれ主義者たちはそういう合言葉の元、ほくそ笑んでいるのかも知れない。自分達の勝利である、と。

4/14/2011

日本病を治すため、被災地復興案は公募しなければならない

日本は誰のものか、という命題がある。人文系の日本人の知り合いができて、馬鹿らしい話に巻き込まれることがある。日の丸は悪いだの、国民全体が売国奴になっているだのと言った概念的な話だ。文学を齧っている暇な人の相手はしたくないので、話にすら乗らない事にしている。日の丸が悪い云々言っている頭のイカれている共産主義者(あくまでも比喩的な意味で)は、自分が歴史を含めて国全体を所有(共産)していると勝手に考えている。そういう意味で、この連中は共産的な全体主義者である。一方、愛国だ売国だといっている回顧的な権威主義者は(これも比喩的な意味)、国家が国民全体を所有していると勝手に考えている。これら二つのグループは、違う軸上にいるというだけで、結局は全体主義者である。このあたりの話は既に書いているので、今更繰り返したくない。何故この話と、復興の話が関係あるのかは本文に譲る。

地震から一ヶ月以上が経過して、いよいよ復興の話が上がってきた。菅総理は自分のトモダチ連中を中心に声をかけて、委員会を作ってそこで復興案を決めようという事だ。その復興委員会が、福島の原発の問題を入れるか入れないかで揉めているというニュースを読んだ。ちょっと待って欲しい。こんなのでいいのだろうか?微妙な面々も含まれているこの得体の知れない委員会が、何を思い上がって日本の未来を描くのか?菅さんにしても、素人の癖に街づくりの話にクビを突っ込むと痛い目にあうと思う。未来の街を、国が計画して国民に示すことをリーダーシップとは言わない。

一方で自民党や民主党の一部の政治家連中は、利権の香りが満ちている「復興」に関わりたくて仕方ない。こんなに美味しい話はそう滅多に無いからだ。菅総理主導では何をされるか解らないので、良く解っている気心の知れた連中に政権をとってもらいたいと思っている。そして、官僚が主導になって復興案をまとめれば、今までの手法で簡単に利権作りが出来るのだ。鬱陶しいが、これが日本の政治家達の真相だ。そのような官僚主導の復興となれば、それは旧田中派的な、「大きな政府」を中心とした復興となる。勿論これだけの災害から復興しようと思えば、効率性を鑑みた際に政府が多少大きくなる事は仕方ない。ただ官僚主導の復興は、日本の未来志向という意味で禍根を残すことになると思う。

今回の地震や津波についての復興にあたっては、多くの国民が色々な意見を持っており、自分達の力を少しでも貸せたならば、と考えている筈だ。直接力を貸せた人達もいる。ある者は自衛隊員・消防員・警察・海保員として、ある者は実際にボランティアとして現地に赴き瓦礫除去の作業に当たり、ある者は避難所にて献身し、ある者は放射能の脅威に晒されながらも福島原発で未だに作業をしている。しかしその他大勢の被災していない国民は、テレビの前で繰り広げられる光景にヤキモキしながらも、僅かながらの募金をしたとはいうものの、歯軋りをしながら日常を送らなければいけない。しかし、それら多くの人は何か貢献したいという気持ちを持っている。そして自分達の無力さに絶望しながらも、日常に耐えているのだろう。

恐らく菅総理もそんな一員だと個人的に考えている。菅さんや民主党の連中は、当初自分達の力で色々な事を解決できると考えていた節があるが、結局人間や社会の出来ることには限界があるという事を思い知らされる結果となった。菅総理の大罪は、限界をきちんと把握していなかったことにあったと思う。そのことについては改めて書くことにする。

私の意見では、復興案は公募するべきだと思う。家、市場、学校、街、交通インフラ、技術、産業、農業、漁業、林業、環境。そういった項目ごとに分けて、被災した地域ごとに、全国から色々な案を公募するべきだと思う。全国どころか、全世界からでも良い。学や技術を究め、何かに貢献したいと考えている人達が日本中、そして世界中にいる。そういった多くの人達は日本の閉鎖的な社会の外にいる場合もある。そういった世界中の知恵を集める。そしてその人達に意見を発表する。公募案で一定の水準に達したものはすべて公開し、その地域に今後住む若い人達に復興案を選ばせる。優秀な案を提示した人達は、復興委員として復興に従事し、専門家同士のチームを作らせる。私達の社会には専門家同士のチームが必要なのだ。そして、各地域同士で、それらの専門家同士を競わせれば良い。官僚や政治家の仕事は、選ばれた案を国民の意思だと理解し、法律的に可能にするようなサポートに徹してもらう。

何故復興案を公募にする必要があるのか?何故官僚と委員会が適当に復興案を纏めてはいけないのか?日本は長い間、上から下へ上意下達の社会を作り上げてきた。だが、そういった社会と人々との位置関係が希薄になり、個人と社会がどのように結ばれているのかさえ解らない状態になっており、それこそが「日本病」の源泉だと考えている。待っていれば誰かがやってくれるのだ、と。そして一個人は何も出来ないのだ、と。

復興案の公募を通して、日本や世界中に散らばっている専門知識を有した「知」が日本の未来に貢献しているという実感を持つ事が出来ると思う。そしてそれらの専門家にチームプレイの大切さを憶えて貰おう。そして日本の未来は誰のためにあり、日本という国がどうあるべきなのか?それをサポートする統治機構がどのようになるべきなのか?そういった根本的な疑問に対して多くの人が考える機会を持つことが出来るかもしれない。国土、街、人、自然。それらと自分達の専門性を繋ぎ、「社会」とは「個人」にとって何なのかという、今まで避け続けていた問いかけへの答えに光が見えてくると考える。私達は国に所有されている訳でもない。かと言って国を所有しているものでもない。未来の日本と社会、そして私達個人。未来の明るい日本を皆で作りたいし、それに貢献していると感じたい。バブル後の日本が患ったしらけムードが蔓延する日本病を治すいい機会ではないか?

4/13/2011

全ては選挙優先

狂牛病問題の際に農水省がアメリカの牛肉に対して行った措置。鳥インフルエンザの際に行った外国産鶏肉に対する処置。毒入り餃子事件の後の中国産冷凍食品に対する度を越えた反応。スワインフルー(新型インフルエンザ)やSARS問題が生じた後に人通りが途絶えた街並。そして、それらに対する報道姿勢。

今回の福島を中心におきている農作物や魚介類の放射能汚染問題を比べてみる。報道や政府の対応、そして消費者の反応に温度差を感じるのは私だけなのか?それとも、消費者の反応は同じだが、所謂「大本営」発表で、報道のみが真実を映していないだけなのか?

国産と外国産を比べた際の消費者の嗜好性と安全認識、政府の対応、そしてマスコミの報道姿勢。前者の外国産のものは確率は低くてもアウトの可能性がある事象、今回の福島の件は全体的に汚染されているが基本的には基準値以下。このような違いはあるというものの、これら二つの間で大きくバランスを欠いている事だけは間違いないだろう。アンバランスの原点が人々の心理であり、理性や科学が全く通用しない事なのだから面白い。

レベル7評価についても、飯館村の避難勧告指示にしても、選挙の後まで発表しなかった日本政府の対応。政府や官僚達がそこまでして守りたいものが何なのかが良く解らない今日この頃である。そこでも理性や科学が動かず、皆が感情と思いつきで行動して、「和を乱さない効能」を最大にしようとしているだけなのかも知れない。リーダーシップとは輿論に迎合して行動することの対極に存在するものであると信じているのだが。

民主主義を否定する気は毛頭ない。ただ、現状の「選挙ばかりしていて安定が望めない政治システム」は早急に変えなければいけないと思う。政府や政党は理性的とは言い難い国民の顔色を見て行動しているし、マスコミの報道もそれを意識している。従って、長期的な政策を打とうという動機が上がってこない。それが東電の急場しのぎの事故対策とどう違うのだろうか?

解決方法が見つからず、途方に暮れる中で、一部の政治家連中は地元の業者達を従えて、すでに瓦礫処理や産廃などの利権を漁り始めているという話も伝わっており、はっきり言って笑うしかない。復旧に向けた草の根ボランティアをするのもいいが、20年先を見越してシステムを改良し、ゴキブリ達を撃退するような社会活動をしなければ、日本に未来がなくなると思っているのは私だけではあるまい。

4/10/2011

石原都知事で良かった、と思いたい。

東京都知事選が知らないうちに行われていたが、予想通り石原慎太郎が圧勝した。しかし、そのまんま東に石原の65%ほどの票が入っているという事実に恐怖感を感じる。石原が嫌な人が多いのか、それとも民主主義を茶化しているのか、何も考えていない人が多いのか?どのように判断すればいいのかは不明である。

美濃部や青島などのジョークのような人達や、悪名高い金権鈴木などを擁した末に、東京都知事に座った石原氏が東京都に新しい風を捲き起こした事は異論が無いと思う。日本国内での東京都の地位を確固たるものにしたという意味で、過去三期の石原氏の功績は賞賛に値する。予算のつけ方などもメリハリがきいていた。勿論、失敗した政策もあるが、イチローでも4割は打てないのだから仕方ない。左翼系の人が言う「石原は右翼政治家であるから危険である」という話は、馬鹿らしすぎて議論をする気にもなれない。石原が原子力推進の本丸であった中曽根派の政治家であるという事実であるが、原発反対に加担したい気持ちも解るが、人口過密な日本で原発を辞めると言う選択肢は理想論に過ぎない。勿論、原発の安全面や利権問題など、我々が関わらなければいけない政治問題は多々あるものの、それは東京都知事の仕事ではない。

ただやはり、当初表明していた通り、勇退して後続に道を譲るべきだったと思う。石原氏の目指した東京は「そこ」にある。だが、石原氏にはこれ以上の未来の東京を作る発想が無いように感じられる。石原氏は、ほぼ全ての人が認めているように右翼政治家である。右翼思想家の多くが陥るように、石原氏も、個人の自由を制限するような言動が目立つ。それがイデオロギー的な文学論ならば問題ないが、政策に反映されるとなると話は別だ。文学(漫画)の話など色々あったが、未来の経済に関する政策についてのみ語りたい。

パチンコ屋に規制をかける話が出てきた。パチンコ業に問題がある事は論を待たない自明である。ただ、東京都主導のカジノ構想への布石のためのパチンコ屋規制であれば、それはカジノの利益を国が掠めるといった、個人から公への利益の移転に他ならない。つまり、大きな政府を作りたいと言うことである。

自動販売機も御気に召さないようで、規制したいと言うことである。つまり、コンビニエンスストアは良くても個人所有の自動販売機はいけないという事か?自動販売機を規制すれば当然コンビニが儲かる。個人はいけないものの、大企業は優遇するという政策なのだろうか?

ブッシュJrもそうであったが、イデオロギーを持つ右翼の人は、全体主義的な政策をぶちかましがちだ。個人を殺して大企業や国を優遇する政策だ。私はそれを、共産主義的、或いは社会主義的な政策と呼ぶ。このような政策は街の賑わいを殺すことになる。それとも我々が目指す社会というのは、ショッピングモールとフードコート、コンビニで溢れる、無味乾燥した人工的な1億3000万総サラリーマン・公務員社会なのだろうか?そして、実は我々はそれを望んでいるのだろうか?

アントレプレナーが育ち、大企業や政府が不当な優遇を受けて零細企業を飲み込まないような社会を私は待ち望みたい。正直、石原さんには綺麗な引き際を見せて欲しかった。が、この残りの面々を見ると、石原さんで良かった、とも思ってしまう。東京都には長い間追い風が吹いていた。しかし、地震と原発事故以降、向かい風が吹き出している。今までのモメンタムがなくなり、国際競争力に赤信号が点っている東京都を78歳の石原氏が処理できるのかどうかは見物である。

4/02/2011

「頑張ろう日本」ではなく、「冷静になれ東京」に標語を変えろ

東京電力、自民党政権、保安院そして福島知事というゴキブリの話をしたくて仕方がないのだが、今回は全体主義の話をしたい。世の中には個人の自由を束縛したい連中が沢山いるようだ。前の記事のフレームワークに従うなら、全体主義者(共産党・旧社会党・公明党)と右翼思想家(立ち上がれ日本・国民新党など)が個人自由を認めたくない連中となる。当たり前であるが、民主党や自民党の中にもそれらの思想に近い人が大勢いる。地震以降こういった勢力が躍動しており、余り深く考えていない人達が追随する風潮があり、警鐘を鳴らしておきたい。

震災以降「頑張ろう日本」なる標語を多くの人が使うようになり、被災していない人までもが「喪に服す」ような状態となっている。ハリウッドじみた映像がテレビに映し出されたのだから、理解はできる。しかし、被災地でもないのに無用な萎縮モードを実施してみたり、地震を言い訳に(電力や品不足に関係なく)仕事量が減っているような状態はどうも腑に落ちない。こんな事をしていると経済の炉心が溶融する事態になる。誤解を覚悟で言えば、愛国のつもりで「頑張ろう日本」などと唱えながら経済をメルトダウンさせているのだとすると、それこそが売国行為に他ならない。

買い溜めの象徴として、ボトルで売られている水の問題がある。官房長官を始め多くの政治家やマスコミが、首都圏に住む一般市民に罪を擦り付けている。一部のモラルの欠如した市民がボトル水を買い込むので品不足に陥っている、と。まさかこれを鵜呑みにしている首都圏の市民はいないだろうが、このような責任逃れの話を垂れ流しているマスメディアや政治家は糾弾されるべきだと思う。ボトル水は無くなるべくして無くなっている。まず、日本の流通業は在庫を極限に減らすビジネスモデルを構築してきた。例えばコンビニなら、在庫は一日から数日分しかないのである。近くの小学校で想定外の運動会でも開催されれば、ボトル水の在庫など瞬く間に無くなるものだ。つまり「モラルの欠如した人」が100本の水を買い込まなくても、多くの人がいつもの3倍ほどの商品を買うだけで在庫は尽き、サプライチェーンは許容量を超えてしまう。ブルウィップ(牛の鞭)効果があるので生産者は急な消費量の増加にはいちいち対処したくないし、工場の許容量を考えれば無茶な増産などそう簡単にはできない。だから慢性的に品が不足してしまう事態が生じる。

それでは消費者はなぜボトル水を買い込むのか?質問するまでもない当たり前のリスク回避行動だ。未曾有の地震が東北を襲い、停電や液状化などの被害が実際に都心で起こっている。都心は間違いなく被災地なのだ。気象庁は余震に警戒せよと言っているし、油断していて備えがなかった人も多くいたであろう。そういった人達を含めて、3000万人の人が理性的なリスク回避の行動を行えば、ボトル水が店頭から消えるのは当たり前なのだ。理性的に考えれば危ないと感じるし、将来のリスクを考慮して、量の差こそあれ、ボトル水を少しだけ大目に買っているのだ。それをこの期に及んで、大臣ポストまでわざわざ作って政治パフォーマンスをしている民主党は常軌を逸脱している。

放射性物質が水道水に検出された事が事態の悪化に追い討ちをかけた。実際に放射性ヨウ素が水道水から検出されていると発表されているのに、ボトル水を買いにいかない人の気が知れない。乳幼児がいる家庭に優先させるべきだと言う議論は「~するべき論」としては卓越している。科学者や医者がメディアに出てきて、放射性ヨウ素があの程度の濃度であれば大人の健康には全く被害がないと繰り返してみる。それも科学的には解らなくもない。だが政府発表を鵜呑みにできるのか?教科書に載っている放射線による健康被害の数字は本当に実証されてたものなのか?発癌リスクの数字をどのように捉えればいいのか(アサンプションをもって統計技術を使った係数ではないのか)?放射性ヨウ素以外は本当に検出されなかったのか?検出する機器の精度はどの程度であったのか?第一、結果的に原子炉の状態は小康を保っているとは言うものの、あの時点で事態が悪化する可能性はあったはずである。これらの事を真剣に考えた上で、理性的に水道水を使おうとするのは個人の自由だ。ただ、このような不確定要素が多い状態にありながら、水道水を飲めとばかりに主張している人は、個人の自由を認めたくない狂気じみた人であると思う。多くの首都圏の人々は、ボトル水が手に入らないが故に、恐々と水道水を飲んでいるのだと思う。

蛇足だが、塩素や黴臭さ、或いは水道水中の重金属も健康にはただちに被害を与えるものではない。なのに、多くの人が濾過機を買ったり、ミネラルウォーターを飲むのは馬鹿げた行為なのだろうか?そういった質問にきっちりと答えられる人がいれば、堂々と意見を言って欲しい。水道水を濾過する事は科学的に馬鹿げているからやめるべきだ、と。濾過器はインチキだから買うな、と。

野菜にしてもそうだ。福島や北関東で作られた野菜の一部から放射性ヨウ素が検出された。官房長官は「洗えば問題ないのだが、念のために出荷を停止した。食べたところで(ただちに)害はないのだが、念のために市場には出さない」と言った。その後、パフォーマー達が福島産の野菜をカメラの前で食べたり、農家が可哀想だと言うことで福島産の野菜を買うイベントを主催したりしている。勿論そういった行為は個人の自由だ。しかし買わないことがモラルに反すると言うような報道には疑問を感じる。農家の人達は本当にかわいそうだと思う。ただし責任ゼロとまではいかない。何故なら、自分達もあの原発をリスク査定を無視して誘致した福島県知事を選んだのだから、民主主義社会下に於ける責任の一端は免れないからだ。

個人的なわがままで申し訳ないが、現時点で私は東日本で生産された農作物が店頭に並んでいたとすれば絶対に買いたくない。汚い話だが、お皿を汚物の残る便所の水につけた後、洗剤で綺麗に洗うとする。そのお皿は生化学的には100%綺麗である。しかし私はそれでご飯は食べたくない。同様の理由で私は個人的にそれらの野菜は食べたくない。モラルを盾に、無理矢理それらの野菜や農作物を首都圏の人間に食べさせるつもりなのだろうか?「風評被害」などといった単純な型にはめて、モラルのみを昂揚させる政治やメディアのあり方に疑問を持つ。風評被害とは言われ無き被害であるが、今回は放射性物質が付着しているわけであり、風評では無い。選ぶのは消費者であり、消費者に情報を隠蔽する行為はあってはならない。

モラルといったものが前面に立つときは注意する必要がある。全体主義的な流れの中で、個人の自由は完全に蔑ろにされる。こういった流れが出てくること自体が社会的なパニックなのだと思うし、外国にいるが故に私はこのような無責任で傲慢な記事を書けるのだと思う。首都圏は被災地である。そしてそこに住む人達は完全な被災者である。政府は3000万人以上が被災しているという事実を矮小化するために頑張っているのかもしれない。そして被災者である首都圏の人々には選択権も無く、このような議論は解っていたとしても、ただ我慢するしか方法が無いのかもしれない。政府も報道機関も三次被災地の中心にあり、冷静な判断など出来ないのかも知れない。

批判だけしても仕方ないので解決策も提唱したい。私は「安全税」を導入するべきだと思う。要するにミネラルウォーターの値段などを政府主導で4倍くらいにする。そして東京以西で栽培された野菜は5割くらい値段を上げるのだ。値段を上げれば需要は減るし、相対的に安ければ需要は上がる。放射線はただちに影響がないので、老人などは先が短いので放射線に汚染された野菜を食べても問題がないはずだし、安いので家計も助かると思う。安けりゃ買いたいという人は一杯いる筈だ。私のように放射物質が付着している可能性があるものは絶対に口にしたくないと言う人間からは、きちんと税金を取ればいい。アイディア自体は簡単だが、実際に施行は難しいかもしれない。野菜や魚は卸市場やJAといった流通経路でコントロールすると言うのも手であろう。店頭でそれらの農林水産品が混じることがないのかどうかも疑問であるが、個人の自由を尊重するのであればこのくらいしか出来ないと思う。さもなくば、福島などで作った野菜は完全に破棄されるか(保証するとすれば莫大な税金が投入される)、内緒で市場に収められて有耶無耶になるか(日本の農産物自体の風評被害が発生)、或いは無理矢理モラルで押し切って食べさせられるか(日本のソビエト化)。現時点では、政府はこっそりと放射能安全基準を変えようとしている。

政府が無策のまま今の状態を続けていけば、最悪の結末が待っている。この問題は短期間で解決する問題では無い。10年どころかそれ以上続く可能性もある。本当に政府は農家を保証できるとでも考えているのだろうか?補償するのは農家だけにとどまるものではない(例えば漁師や観光など)ので、その前に日本経済も国債もメルトダウンするのは避けられそうにない。日本の先行きは赤信号が点っている。政府が全てを補償しようとするのは、すぐにでも止めさせるべきである。たとえそれが東北を切る事態になろうとも、日本の経済をメルトダウンさせる訳にはいかない。何が一番大切なのか、一歩高い位置から考えて頂きたい。それこそが政府(行政)の役目だと思う。

うどんの出汁に髪の毛が落ちていたら食べるのか?ゴキブリが出る中華料理屋は安全か?ただちに影響はないし、全く何の問題も無いと思う。ただ、それを食べるか食べないかは、個人が自分の意思で判断すればいい。今回の放射能の危険性は、主観抜きできっちりと不確実性まで考慮して説明できる人は、恐らく皆無だと思う(何度も言うが確率論的には安全とされている)。食べても大丈夫、食べると危険、食べるべき。外野がパニクって乏しい知識でごちゃごちゃ言わぬことだ。個人が与えられた情報と与えられた情況を考慮しつつ、個人的な美学も鑑みて適切に判断すればそれでいいのだと思うし、その判断に他人や社会がケチをつけるべきではない。科学を齧った人が、グーグルや教科書の知識で、消費者の行動も理解せずに数字だけを見て、やれ水道水を飲め、やれ汚染野菜を食べろ、やれ魚を食べろ、などという社会は異様だ。全体主義的な風潮が蔓延っているのは、都心の人間を中心に、パニクっているからだろう。少なくとも西日本に住んでいる人や海外にいる人は、少し冷静になるべきではないか?そして被災地の都心でパニクっている連中を叱咤する事は、外野が出来る数少ない貢献の一つだと思う。外野の人間が中心になって、被災地東京にいるパニクった連中の頬をしっかりと叩き、冷静になれと嗜めるべきだと思う。