1/15/2007

教育論(2) NPOと社会

私は5年以上もアメリカで暮らしているのだが、そうするとアメリカの良い面も悪い面も公平に見えるようになった。人並みな感想だが、アメリカという国がとてつもなく豊かだと感じる一方で、様々な矛盾を抱えているとも感じる。だからと言って、アメリカに対する批判をする必要は無く、日本人としてアメリカが持つ優れたシステムだけを戦略的に取り入れていけばよいのだ。

日本とアメリカを比較した際、私が思うに、一番の違いは「社会システム」である。日本の「社会システム」は、残念ながらアメリカのそれと比べて30年は遅れている。社会システムを態々「」で囲っているのは、その定義が非常に怪しいからだ。故に、マクロな視点からではなく、ミクロなケースで見ていく必要がある。例えば、NPOの話をしたい。

日本でNPOと言えば怪しげな団体を思い浮かべられるかもしれない。社会主義者や左翼の吹き溜まりが、NPOと称して活動をしている場合も確かにある。日本ボーイスカウトや交響楽団、町おこしを活動している団体など、長期間に渡って実績を持つ優良なNPOも多々ある。しかし問題は、政策に関わるような洗練されたNPOは皆無であるという事だ。

アメリカではNPOが社会に密接に関わっている。例えば環境系のNPOであれば、町の小さなNPOでさえもPhD(博士号)取得者がいるのには驚かされる。独自の調査やパブリケーションを行い、市や州政府に政策の進言をしている。同時に経営の専門家もいて、資金面での遣り繰りも巧く行っている。大学生や院生たちがインターンとして活動に参加する。NPO同士、或いは大学や政府と組んで、リサーチやプロジェクトを行っているのも興味深い。政府は、自分たちが出来ないプロジェクトは直ぐにNPOに外注する。GIS(地理情報システム:コンピュータによる地図作り)や魚のポピュレーション調査など、政府が限られた予算や人員で全て出来る訳がないからだ。NPOは、サーモン専門、鳥専門、湖沼専門、地図製作専門、政策専門、ロビー専門、調査専門、市民とのコミュニケーション専門など、活動が特化している場合もある。

さらに、人材の流動性が面白い。先ほども言ったが、大学生や院生で環境に興味がある学生がインターンとして働く。大学を退官した教授などが、NPOの活動に参加する。大学院で学位を取った人達が、初めてのキャリアとしてNPOを選ぶ。政府で働いていた人がNPOに来たり、逆にNPOで働いていた人が政府で働き始めたりする。リサーチャーや高学歴の人を流動させることで、より面白い問題を見つけ出し、それに対して解決策を講じるように社会全体が動く。

お金の面で言えば、市民からの寄付や、業界からの寄付、財団からのお金でNPOは回っている。アメリカでは、簡単に言うと、寄付を行えば税金を払う額が減るので、多くの人が直接自分の興味のあるNPOなどに寄付する。いくら魅力的な活動をやっていたとしても、お金が無ければ専門家を雇うことが出来ず、NPOの活動は成り立たない。さらに、NPO間の資金の遣り繰りもある。NPO間でもプロジェクトを外注するのだ。

アメリカのNPOは研究者の裾野を拡げた。そして、小さな政府作りに貢献した。さらに、多くの雇用を生んだ。特に、女性や高学歴者に対して、NPOがアメリカ社会に齎した影響は多大であると言える。アメリカでは産業の空洞化が言われて久しいが、このような知的産業が新たに興っているのである。

さて、このような良い制度を何故日本では採用しないのか?簡単に言うと、現状では出来ないのだ。NPO法が整備されて、NPOを起こすことは簡単になった。だが、誰がNPOのトップに立つのか?会社や政府で働くことを諦めて、日本でNPOで働く魅力があるのか?個人や会社からの寄付が望めない状態で、どうやってまともにNPOを運用するのか?研究や経営が出来るような人材をどのように確保するのか?第一、自分の力で独立して研究できる人材がどれほどいるのか?人材の流動性がない日本で、小さなNPOで働いてしまうことなど、自殺行為に等しい。

NPOが政策提言をしたとして、地方政府や政府は聞く耳を持つのか?国はプロジェクトを外注する気はあるのか?国は個人同士の寄付を認める気はあるのか?国は政府の規模を小さくする気はあるのか?

現状では、日本において、アメリカのようなシステムを求めることは不可能に近い。だが、それこそが社会の進むべき方向性であるのだから、やがて、30年くらい経てば、日本も現時のアメリカのようなまともなNPOが国づくりに協力する社会になっているのかも知れない。現在の公務員削減や独立採算制が、将来のNPO社会到来への布石であると考えられなくもない。

現在の日本のNPO。例えば、環境のNPOであれば、科学的知見に基づいていない事柄に力を入れている。撒き水をして、本当に地球の温暖化が解決するのか?馬鹿らしくて言葉も出ない。大学の仲良しサークルのように、「行動すること」こそが良き社会を作ると勘違いしている人が大勢いるようだ。まともなNPOが一杯あった上で、そのようなNPOもあるのなら納得は行く。しかし、それが一番まともなのだから、どうしようもない。それと、日本のまともなNPOは直ぐに外国の研究をする。東南アジアやロシアの生態系など。わが国の環境は、蔑ろに出来るほどそんなに素晴らしいのか?何もしないで良いほどの住み良い日本なのか?誰もチャレンジすらしないし、問題を凝視しようともしない。残念ながら問題を凝視できる人などいないのだ。

つまり、一番の問題になるのは、人材作りだ。現状ではNPOなどで働けば一生冷飯を食わなければいけないので、まともな人は決してNPOで働かないが、仮に社会基盤が整ったからといって、NPOを率いていけるほどのまともな人材がいるのだろうか?次号で解説する。

1/13/2007

初等教育改正の意義

昨今推し進められている改革の一つに教育も含められていることは皆さんご存知だろう。教育基本法の改革が進められているし、国立大学は独立行政法人に変えられた。マクロ経済の理論では、短期や中期の成長は利率や政府の支出などのテクニックである程度操作できるものの、長期的な経済成長は技術革新と人材の能力を上げることでしか成し得ないとされる。技術革新も人材の能力も、根本的には教育が齎すものである。つまり、将来の日本が成長を続けるためには、王道など無く、地道に人々に適切な教育をするしかないのである。故に、教育は国家の長期的な政策として最も大切なものであり、逆に、教育問題を語る際には長期的な経済成長がゴールとなることを認識するべきだ。

昨今の国レベルでの教育改革の討論の内容を聞いていると、ゆとり教育の弊害、学級崩壊、いじめ・自殺など、初等教育において現場で実際に起こっている問題ばかりが取り上げられている。勿論、多くの人にとって、これらの問題は生々しいものであり、関心が高いことは頷けるが、このような問題を国が解決するべきかどうかという点で納得がいかない。第一に、教育基本法を改正した程度でこれらの問題が全て解決するわけがない。時代遅れの法を改正することは当たり前だが、それに高望みはできない。さらに、改正に何らかのイデオロジーを持って反対し、この問題を遅延させるのは理解に苦しむ行動だ。第二に、いじめなどは、どんなに金を掛けて、どんなに素晴らしい法律を作ろうが、絶対になくならない。いじめや自殺を無くすために教育改革を訴えている人がいるとしたら、全く馬鹿げている。いじめや自殺を防ぐのは社会全体のシステムを変えなければどうしようもなく、教育が口出しできる範囲は狭い。また、国家が現場のいじめを防ぐことなど出来ないので、これは現場の問題なのだ。第三に、無理な話だが、仮に国が大量のお金や時間を割いて、公立小学校の学級崩壊を完全に防いだとしよう。一体それでどれだけの成果が得られるのか?学級崩壊が無くなれば不景気は消え、雇用は増えるのか?ニートが本当に減るのか?


教育問題を話し合っている人達におかしな人達が混じっているのは看過できない。教育の専門家は、教育理論のみを研究しているのか、宗教がかった事ばかりを喋っている。個々の価値を尊ぶ、云々、哲学やイデオロギーを流布する必要などない。大学で研究する人間であれば、何をすればどのような影響があるのかという事実だけを科学的に述べればよい。日本の大学で研究する教育専門家の多くが科学的手法を理解していないので、評論家紛いの仕事しか出来ないのが現状なのだろう。ノーベル賞を受賞した人なども教育改革基本法改正の委員会に入っていたが、研究だけに没頭して失敗からたまたま大発見をしたような、宝くじに当たっただけの、教育に関しては全くの素人の意見を尊重するのもどうかと思う。塾がいらない?そんなことは国の法律に記載されることではない。

いずれにしても、初等教育改革がごく簡単であると思うのは私だけか?国や県の権限を抑え、現場に教育の権限を与えて、自由な学校づくりをさせればいいのではないか。NPOや地域コミュニティー、或いは企業が積極的に初等教育に関われるようなシステム作りをすれば良い。そして、校長などに教師の雇用の権限すら与え、県や自治体に校長の雇用の権限を与えればよい。そして、一部の偏った勢力や人間に教育現場を乗っ取られないようにするためのセーフティーネットを法律で制定すれば良いのである。それが現時点の公教育の範囲を逸脱していると言うのであれば、公教育の定義を変えればいい。

問題がとても簡単なので、初等教育ついては誰でも強い意見を持っているものだ。そして、どうすれば教育が良くなるのか、皆意見が違う。一番大事なのは、それらの意見に基づいて、慎重な実験を行い、どのオプションは機能するのか、どのオプションは機能しないのかということを誰かが調べるべきなのだ。意見だけで法律や指針を変えようとしているからおかしな事になっているのだ。意見はあくまでも意見で、政策は事実に基づかなければいけない。教育に柔軟性を持たせれば、国が出来る初等教育の問題は完結する。そして、後は現場レベルの問題となるのだ。

では、誰が実験するのか?それは、教育学者や社会学者がするべきだ。日本では、あまたの数の社会学者が余って燻っており、それらの人達を活用しない手は無い。法律を制定する立場の人達が、NPOや大学を使って、自由に科学的な知見を集積できれば素晴らしいと思う。それらの科学的知見に基づいて、変えるべき所は変えていけばよい。何も、素人のノーベル賞学者を連れてきて、意見を述べさせる必要などないのだ。法律改正では、党や個人や組織などが、まともな研究が出来るNPOや大学などに研究資金を直接払う事を可能にするような法律を制定する必要がある。

ただ、前述したが、そして今後も討論するが、科学的見識のない、一つの分野の知識だけが優れた似非科学者が日本に多いのも事実である。それこそが、日本の教育の本当の課題だと思う。大学がきっちりと教育しなければ、これらのNPOを率いていく人材が育たない。大学がまともな教育を受けた人材を世に送れば、まともなNPOなどが増え、社会が高度に知的な方向に動き、教育の意味が実感できるようになると考える。このあたりの事を、次の回では討論したい。

新年の挨拶に代えて

やり残した仕事が大量に残っていたため、年末に無理をしすぎたせいか、長い間ダウンしてしまった。コンピュータの前にずっと座って不規則な睡眠時間をとりながら仕事を続けると、気づかないうちに疲れが溜まってしまったようだ。胃腸の機能が低下したので、流行のノロウイルスかと思い病院に行ったのだが、疲れが溜まっていると窘められた。1週間以上もお粥とジュースという生活が続き、食事の話など書く気も起きなかった。

一部の熱心な読者には大変ご迷惑をおかけした。私が全く更新していないも関わらず、頻繁にアクセスして頂いている様だ。1週間に1回は最低でも更新するので、今後ともよろしくお願いしたい。

病気で寝込んでいる間に、我がシーホークスは、プレイオフのワイルドカードを勝ち進んで、日曜日にシカゴベアーズと対峙する。ダラスカウボーイを救ったシンデレラボーイ、トニー・ロモのラッキーなお手玉のお陰で転がり込んできた勝ち星ではあるが、運もスポーツには必要な要素だ。ベテランクオーターバックのマット・ハッセルバックと昨期MVPを獲ったランニングバックのショーン・アレクサンダーが怪我で数試合を不意にしたせいもあり、今シーズンのシーホークスは昨期ほどの勢いはない。しかし、シカゴベアーズのレックス・グロスマンが数週間ほど前に何度もグリーンベイパッカースにインターセプトされたのを見ていると、少しくらいはチャンスがないかな?と思っている。

他のプレイオフは、ペイトン・マニングのインディアナ・コルツが、どれだけボルティモア・レイブンスのディフェンスを崩すかが見ものだ。インディアナか?ニューオーリンズ・セインツの神がかり的な活躍を見ると、二年前のMVPドノヴァン・マクナブを怪我で欠くフィラデルフィア・イーグルスにはあまりチャンスはないだろう。トム・ブレイディーとニューイングランド・ペイトリオッツは、強いとはいえ、昔の威光は無くなった。今年のサンディエゴ・チャージャーズは優勝候補筆頭の最強軍団。打ち崩すのはほぼ不可能だろう。

スーパーソニックスは、レイ・アレンが復活したと思えば、次はラシャード・ルイスが手を骨折して戦列離脱。見るのも悲しい体たらくぶりだ。今年から入団したフランス人のミカエル・ジェラボールは予想以上の動きを見せている。ルーク・リドナーがスターターの地位を「自己中」アール・ワトソンに譲ったのは気に入らないが、燻っていたニック・コリソンが連日連夜の大活躍。カンザス時代に全米カレッジベストプレイヤーに選ばれた実力から言えば、期待通りの活躍だ。二年目のデロン・ウィリアムズと開眼したカルロス・ブーザーの活躍で猪突の勢いのユタ・ジャズを、延長で破ったのは評価できよう。自己ベストを更新したレイ・アレンは神様に見えた。

さてこれから暫くの間、思うところがあり、日米の教育の話についてのエッセイを書きたいと思っている。未だに書ききれていない食事の話題も溜まっているのだが、この話題はどうしても避けて通れないし、個人的に文章にすることでしか救われない物がある。アメリカで学業に励んでおられる型の中には、色々な疑問や背反的な思いを抱えながら板ばさみに陥っている方もおられると思う。今後数回に渡って書く文章が、そのような方たちの共感を得られることが出来れば素晴らしい。

今回は、今後の連載の紹介と、新年の挨拶、そして更新を怠けていた言い訳ということで。