7/19/2007

回顧主義と昭和の味

6月の初め、ある一軒の日本食レストランが静かに暖簾を下ろした。そのレストランの名は「たこ八」。セーフコフィールドや宇和島屋に近いインターナショナルディストリクトにあった。私にとって、たこ八はシアトルで最も愛していたレストランの一つであったので、非常に悲しかった。悲しいにも増して、たこ八がなくなるという事実に、虚無感を痛烈に感じてしまった。確かに時間は移ろうものであるし、捉えることは出来ないものだ。大好きだった店は時間の波の中に消えてしまった。そして、僕たちは汗水垂らして未来へと走り続けている。しかし、その未来に「たこ八」は決して存在しない。

アメリカで、日本食レストランといえば寿司屋と同意語になっているのが実情だが、たこ八は日本で俗に言う「洋食」を中心としたメニューを組んでいる。ハンバーグや鳥の唐揚げ、コロッケ、エビフライなどが主な料理としてメニューに名を連ねる。しかし、さば塩、鍋物、いなり寿司といった純日本的な料理も多くある。平たく言ってしまえば、定食屋なのだ。

お店は30人強が座れる広さだ。ご主人と奥さん、娘さんが切り盛りしている。ご主人と奥さんは見た目は物凄く若いのだが、すでに70才代であったという。特に奥さんは、元モデルをしていたという事もあってか、本当の年齢よりは20歳くらい若く見える。本人たちはまだまだやりたい所だったのだろうが、周りが心配して、店を畳む事になったという。世の中はそういう物だ。実際に事を行っている人はただひたすら何かに向かって走り続ける。そして、何もやってない周りの外野はとやかく口を挟む。

私はいつも決まって「トリプル」と呼ばれるセットを注文する。鳥の唐揚げとコロッケ、さらにハンバーグがついている。揚げ物は程よく揚がっているし、素材のジューシーさをきっちりと残している。ドミグラスソースは非常に上品な味を出している。御飯は焼き飯かカレーのうちから選択できる。焼き飯はベーコンとキャベツ、人参を炒めたお袋の味だし、カレーも昔懐かしい味だ。さらに、サラダがついてるのだが、キャベツの千切りに大きなハムが乗ってボリュームたっぷりだ。日本ではありふれたメニューかもしれないが、アメリカでは中々探せないメニューである。しかも味も格別だ。ご主人の気合いの入れようがはっきりと舌に伝わってくる。

私はたこ八に行くと、子供の頃、阪急百貨店の大食堂にお祖父さんと良く行った事を思い出す。混雑する大食堂で運ばれてくるハンバーグステーキ。実際の所、美味しいと思ったことなど一度もなかった。だが、たこ八で食べる美味しい料理には、昭和の時代が終わろうとしていた僕の幼少の頃の記憶がソースとして乗っているのだ。無くなってしまった物特有の懐かしさとでも言おうか?そして、その味は既に日本で絶滅に瀕している。安っぽいフランチャイズの店や似非イタリアンが跋扈する21世紀初頭の我が日本では、町の洋食屋さんは生き伸びることが出来なかった。それは自然の摂理である、弱肉強食の原則にのっとった公平な競争の結果だ。海を隔てて遠く離れたシアトルの町の片隅に残っていた昭和の味。予想外の宝物だったのだが、やがてそれは失われてしまった。

昭和の時代は遠くに過ぎて行ってしまった。次に私が納得に足る鳥の唐揚げやハンバーグを食べることが出来るのはいつの日になるだろうか?昨年大阪に帰ったとき、梅田の阪急百貨店は改装を始めていた。時代は極端に早いペースで動いている。他の人達と同様、私の日常もその流れに対応するべく忙しいものである。たこ八はその忙しさを時折忘れさせてくれた。時代を懐古する物を失うという事が、虚無以外のなんだと言うのだろう?店は無くなってしまったが、たこ八の残像は古い阪急百貨店の大食堂と共に私の心の奥にきっちりとしまっておきたい。