10/11/2007

遠のく金利の正常化

10月11日の会合で、日銀は期待通りに利上げを見送った。投票した中で、水野温委員を除く8人が金利の据え置きに賛成した。理由は、「欧米の金融市場に改善の動きがあるが、米国経済が下ぶれする恐れなど不確実性がなお存在する」からであるという。

グローバリゼーションの進行した世界において、金利の上げ下げが日本国内だけの問題であると考えるのは余りにもお粗末である。マクロ経済学の一年生の授業では、金利を下げると、貯金の意欲がそられ、代わりに投資にお金が流れ、短期的に全体生産が上がる、という。しかし、それは鎖国状態の国を前提としたものだ。開放された国では、金利が下がると、外国投資の魅力が上がり、国内を対象としない投資にお金が流れやすい状態を作る。外国を対象に投資された金は国内総生産には含まれない。投資にお金が行き過ぎると、短期的に消費を押し殺すことも知られている。私達は、円キャリートレードの実体などを観察し、経験的に鎖国状態のマクロ経済が成り立っていないことを良く知っている。水野委員が主張する「円安バブル」はまさにこの点を指摘している。

それでは、金利を上げるとどうなるのか?多くの人が口を酸っぱくするように経済が悪化するのだろうか?企業の中には、自転車操業をし、金利が高くなると儲けを落とすところも多く存在するだろう。金利が上がると、消費が減って、貯金が増えすぎるという懸念もあるが、消費が十分低い日本では殆ど心配する必要がない。金利を上げると、日経指数が短期的に落ち込むのは確実だ。円が高くぶれるのも間違いない。しかし、直接的な影響は限定されている。

一番の問題は、円キャリートレードの旨みが薄れて、中国を含む新興市場から大量のジャパンマネーが返って来ることだ。すると、キャッシュフローを無視して、投資が投資を呼んでいた状況を大勢の人が危惧し始める。ポートフォリオの見直しが進み、ある程度のお金が新興市場から引き上げると、パニックを引き起こし、株価が暴落し始めることすら考えうる。そのシナリオを世界が危惧する。多くの日本人にとっては、中国の明るい未来というシナリオが狂い、将来の利益を逼迫しかねない事態になる。それは、どんなことをしてでも反対しよう、という圧力が国内からかかるのである。しかし、その程度で弾けるようなシナリオであれば、要するにそれは妄想であろう。投資が投資を呼ぶという状況は持続的に維持できるものではない。例えば、中国政府は、投資で集めたお金を不良債権の清算に充てている。

金利が十分に上がっていれば、先のサブプライム問題の時も、円キャリートレード解消に伴った資金が国内債権などに吸収されていた可能性すらあった。さらに、金融の基本的な理論として、CAPM(資本資産価格モデル)が上げられる。この理論を曲解すると、リスクフリー金利(日銀が決定する金利)によって、企業の利益が変わると読み取ることすらできる。金利が上がれば、企業はもっと儲かり、日本株に投資している人も多くの配当を得られる可能性が高いのだ。

さて、話は変わるが、消費税増税の話だ。私は、全く馬鹿げていると思う。消費税を増税するのは構わない。しかし、それは金利を一般の水準に戻して、消費者物価が確実に上向いていると確認した後でのみ行うべきだ。勿論、逆算を行った結果、財源が足りないのは疑う余地も無い議論であるが、金利が0.5%の状態で増税をすれば、日本経済は瀕死のダメージを受ける可能性がある。

与謝野馨は「日本の経済成長に過剰な幻想を抱かないことです。インフレ率を高く見積もって日本の税収を予想することは決してやってはならない。インフレは弱者に厳しいもので、国民が最も嫌うものがインフレ。ミャンマーのデモも引き金はそれでしょう。物価が上がらず、100円ショップで何でも買えるのはいい話なんですよ。さっき私も買ってきたんですが、このハンドタオル、2枚で99円ですよ。いいでしょう」と発言した。だから、現実を直視して消費税増税しなければならないという。私はこの発言を聞いた後、恐ろしくなった。インフレ率は低くするべきだ、と言っているような発言である。二つの大きな問題がこの発言の中に内在している。①増税は消費を落とす。そして、②一物一価の法則(law of one price)は無視できない。つまり、世界中で差別化できないコモディティ商品の値段は一つだけという意味だ。世界中で原油や小麦などの商品の値段が上がり続けており、世界中にインフレプレッシャーを与えている。金利を上げる(人為的にインフレを作る)事で、商品価格の上昇から一般消費を救う必要があるのだ。現在日本では、商品価格の上昇を消費を切り詰め(量を減らす)、儲けを抑えることで敢えて、消費者物価を抑えている。これは経済にとって負の作用を及ぼす。もし、金利を正常な状態にする前に増税に踏み切れば、経済は失速し、金利を上げられないような状態になる。低い金利を続けると、円キャリートレードを歓迎し、商品のインフレプレッシャーは払拭されない。結果、日本はスタグフレーションに苦しむことになろう。低金利下での増税は何が何でも反対せねばならない。

まあ、多くの識者が、早めに金利を正常化する方法を知恵を絞って考えて欲しい。

8/13/2007

宴の後に-アメリカ住宅バブルの崩壊

アメリカの住宅ブームは、2006年5月、バーナンキが利上げの演説を行った直後に終焉したと見られている。それまで天井知らずで上がり続けていた住宅価格の伸びが鈍化し、市場に住宅在庫が溢れるようになって来た。南フロリダ(マイアミ近郊)、カリフォルニア、ワシントンDCなど、ホットだった市場が崩れ始めた。2007年にはアメリカの平均住宅価格が1929年に始まった大恐慌以来始めてマイナスを記録することになるようだが、現在の住宅バブル崩壊は局地的に限定されており、まだ全米中の住宅価格が下がっている状況では無い。                       

アメリカの住宅市場がバブルの様相を呈していることは、日本では常識だった。しかし、残念ながらアメリカ人はそうは思っていなかったようである。シアトルの人達は、未だに住宅価格が下がるとは思っていない。シアトルに関しては価格の伸びは鈍化しているとはいえ、住宅価格が下がっている事実は全く無い。

ただ、市場には在庫が溢れている。現在がピークだと解っている人達が家を売り出している。しかし、皆強気で値引きしないので中々売れない。買い手は待っていれば住宅価格が下がるだろうと、のんびりと構えている。だから、在庫は余り、価格はまだ下がっていないのだ。今後は、首が回らずに持ち家を早く売る必要がある連中が、価格を下げてでも売り抜こうとするだろう。その時こそ、シアトルでも住宅価格が下がり始める瞬間だ。

アメリカではリスクフリーの金利が5%強つくので、年間で5%以上住宅の値段が上がらなければ、それは実質的には価格がマイナスに転じているのと等しい。つまり、実質価格はすでにシアトルでも下がり始めている。だが、名目価格が下げに転じると人々の心理状態は変ってしまうだろう。現在、投機目的で家を何軒も持つ人がいる。そのような人達が家を売り払い始め、住宅デフレのプレッシャーは日に日に増すことだと思われる。

シアトル近郊では、アパートの値段が近頃急激に上がっている。これは、家を買わずにアパートを借りる人が多くなっていることの証拠で、住宅市場の流動性が低下しているからだろう。街中のいたるところで、家やアパートの代わりに、タウンハウスが林立している。これは低所得者層をターゲットにすれば、税金を取得でき、空き家になるリスクが軽減されるからだ。今まで見なかったような場所に、コンドミニアムの広告がやたら増えた。ディスカウントの字すら良く目にするようになった。シアトルの住宅市場が下を向いていることは明らかだ。

だが、私がこのような意見を言うと、アメリカに住む多くの人達が敵意をむき出しにし、私に突っかかってくる。そんな事はありえない、と。日本でもバブルが崩壊する前夜はこのような状況であった。ある人達は、私の意見に対して、「それでは何年で住宅価格の調整が終わるのか?」と聞いてくる。そんなこと知る訳が無い。ただ目安としては、住宅ローンで支払わなければならない金額と、家を借りた場合に支払うレントが同じくらいになれば、住宅価格がフェアヴァリューに戻ったということではないだろうか?現在、大雑把に、モルゲージの支払いはレントの二倍以上である。調整が進んでしかりの状況であろう。

ここに書いた事は、これから起こりうるだろうストーリーだが、勿論、アメリカ政府や邦銀が黙ってみていない可能性もあろう。バーナンキは学者時代よりデフレーションこそが諸悪の根源だと言っている。デフレに落とさないために、アメリカがスタグフレーションの道に進む、などというシナリオも考えられなくはない。そこまでのハードランディングをせずに、インフレで低空飛行を続けるということも考えられよう。さらには、アメリカのバブルの損失を前話でも書いたように、日本に押し付けるという裏技は十分にある。実際に、日銀は日本があまりサブプライムの問題と関係ないはずなのに何故かオペを出した。つまり、日銀は、円キャリートレードで支払能力の無い人にお金を貸す行為を救済しようとしているのだ。まあ、政府が何をやるかは解らないが、私たちは個人で身を守るしかない。個人レベルでも、アメリカ不動産価格の調整というような素晴らしいチャンスを見逃さない手は無いだろう。

8/11/2007

サブプライム、クレジットクランチ、リキデーションクランチそして円高

アメリカでサブプライム・モルゲージ(低所得者層相手に高利で貸す住宅ローン)が焦げ付き始め、多くの貸し手が損を算上し始めた。モルガンスタンレーや英国系のHSBCがサブプライムで大損したという。さらにはサブプライムが原因で、飛ぶ鳥落とす勢いだったベアーズスタンの子会社が倒産したという情報まで入ってきた。7月の終わりにニューヨーク市場は暴落を始める。2007年前半は世界の株価が好調だった事も手伝い、利益確定売りが発生。マーケットは混乱し、売りが売りを呼んだ。株価のボラティリティーが異常に高くなり、ギャンブル相場に突入した。やがてサブプライム問題はクレジットクランチと呼ばれるようになった。つまり、誰にでも金を貸せないほど信用度が逼迫して来たのだ。ダウジョーンズ工業指数は一日の取引内で3桁のマイナスから3桁のプラスに転じるというような極端な動きをするようになった。

金融とは、資産の現在価値を見極める事であると言ってしまっても過言では無いだろう。現在価値を判断するためには、未来のキャッシュフロー(収入)と利率を予想しなければならない。企業にとっての利率とは資金調達コストであり、非常に厄介な指標だ。何故なら、中央銀行が都合によって金利を変えるし、リスクが高ければ高い利率を用いることになる。

まさに、ここ数年、問題があったのはリスクの評価であろう。大手の投資家は、リスクをほとんど無視していた。顕著な例は、発展途上国の国債の取引だ。普通、発展途上国の国債の金利は先進国に対して高いものだ。だが、フリーマーケット下では、その分為替が動く上、発展途上国には異常なインフレが付きまとうもので、金利が多少高くともそんなに儲からないのが常識である。しかし、近年では、リスクがあまり顧みられず、利率が額面どおり儲かってしまう異常事態になっていた。極端な場合には、北朝鮮の国債などにまで投資銀行が手を出していた。

債権から株に話を移すと、外国株のETF(Exchange Trade Fund)やミューチュアルファンドがアメリカの株に比べて高い配当を持続的に叩き出した。個人レベルでも、法人レベルでも、外国株が飛ぶように売れている。 日本でも同じような傾向があった。為替が動かないので、日本株に比べて、外国株の配当が異常に高くついた。

そして、リスクに関する問題で、かなり深刻なのが上記で述べた住宅ローンだ。アメリカでは猫も杓子も住宅ローンを借りることが出来る。私は銀行に行くたびに銀行から住宅ローンを奨められるし、毎日のように住宅ローン会社から電話が掛かって来る。アメリカ国内で違法労働をしているような連中さえ住宅ローンを組むし、初め数年は利率だけを払えばよいなどというようなタイプの住宅ローンまで売り出されていた。私の知り合いには、利率だけを支払う変動相場の住宅ローンと既に買った住宅を抵当に入れるという荒業を駆使して、リバレッジを効かせ、住宅を5件も6件も持っている者もいる。そういう人達と会話すると、アメリカの不動産は決して下がらないと言い張るものだ。何故なら移民はどんどんアメリカにやって来るし、アメリカの住宅の値段は大恐慌以来下がったことが無いかららしい。実際に現在カリフォルニアで住宅価格が下がっていることを指摘すると、シアトルは失業がないので住宅価格は安定的に伸びるという。現時点ではタイムラグのせいで指標上のシアトルの不動産価格に陰りは見えていない。しかし、サンフランシスコやサンディエゴの地価が下がっているのに、シアトルは大丈夫という理論には無理があろう。日本でバブル崩壊後の空虚な時代に多感な青年時代を過ごした私としては、全く聞いていて呆れるような話である。

このように、異常な事態が発生していた。大体において、リスクとリターンは比例する。高いリターンを求めるならば、高いリスクをとらなければならない。投資家はそのリスクをきっちりと審査する必要がある。しかし、近年、リスクの高いはずのものに誰かが大量にお金を入れており、投入されたお金が七難を隠しているのだ。不動産の値段が崩れないというような事はあり得ないし、為替が崩れないというような事もおかしい。しかし、実際に投機目的のお金が市場に溢れ返り、七難は隠され、リスクは存在しないかのように錯覚する。

何故そうなったのか?原因はいくつかあるだろうが、平たく言ってしまえば市場にお金が余っているということだ。その一因は日本のゼロ金利だろう。日本銀行が80年代の後半に政治目的でバブルを制御せず、バブルが急激に崩壊した後は政治的に住宅着工と株価を上げる目的のために金利を下げた。さらには不良債権問題が露出し、政府の赤字が表面化すると、政治目的で決して陥れてはいけない筈のゼロ金利を敢行した。それが金融不安を呼び、仕方なくマネーサプライに上限をつけず、市場を金でジャブジャブにさせた。グローバル化が進む世界の中で、どこの阿呆がこんなチャンスを見逃すのだろうか?結果、日本国民の貯蓄は、世界中に流れて行き、例えば、上海やドバイの高層ビルに化けてしまった。 日本銀行はまさに世界にとってはサンタクロースのような存在なのだ。

私は、日本国民の貯蓄が世界に流動し、グローバル経済に寄与することには大賛成だ。ただ、政治的な失敗によって生まれたゼロ金利政策を将来どのような形で国民の富に転嫁していくのかを日銀に問いたい。世界的な規模でおこっているお金の流動性の増加は、スペキュレーションを呼び込み、不安定な形での金融資産の増徴とインフレ圧力を齎している。ある日、人々が何らかの形でリスクに気づいたとき、スペキュレーションで膨れすぎた世界の資産の値段が崩れ、資金を回収できずに、投資家が万歳する時が来るかもしれない。その時、お金を貸している日本国が巨額の損失を計上するという事態にはならないのだろうか?

当たり前だが、ゼロ金利解除を大手企業は嫌う。資金を調達するリスクが上がるし、円が高くなって輸出が滞るからだ。輸出企業が力を持つ経団連は頭の悪い政治家を囲い込み、政治から独立しているはずの日銀に必死に圧力をかけ利上げを牽制する。さらに、日銀が利上げすることによって、コスト増によって世界的な流動性が低下すると、アメリカ経済が大幅に後退したり、中国のバブルがはじけ飛ぶリスクすらある。経団連はマスコミや政治家を操り、低金利継続の重要性を訴えている。利率が上がると、国の借金が増えるなどという戯言を真剣に信じる人さえいる。名目金利ではなく、実質成長率が国の借金に大きく影響するという基本すら認識できていない。国連や外国は、世界経済の不安定さを指摘しながらも、世界経済のハードランディングを嫌い、日本国民の利益に関係なくゼロ金利を継続させる方針を支持する。

日本には様々な問題が横たわっている。貧困すら問題になってきた。規制緩和や構造改革を私は支持しているが、根本的な問題は日本経済の成長だ。規制緩和や構造改革は「公正」という観点から必要である。しかし、それらが経済成長を根本的に助けると考えるのは余りにも楽観的である。日本経済が成長しない限り、規制緩和や構造改革をしても、あまり意味はないだろう。最近良く耳にする「格差」など実は問題ではなく、貧困が日本の諸悪の根源なのである。日本にお金が集まり、お金が上手く回り、日本経済がある程度成長すれば、日本の諸問題は簡単に解決する。第一、政治家は政策を練ることで所得の分配には寄与できるだろうが、経済サイクルを決定するのは日銀の仕事だ。日銀こそが日本人の財布の紐を握っているのだ。

今回、世界中でクレジットクランチが起き、リスクが再認識されるようになった。すると、びっくりするくらいの速いペースで、円キャリートレードをしていた投資家が恐れおののき、ポートフォリオを組みなおし始め、円が高くなる圧力がかかっている。グローバリゼーション下での薔薇色の世界経済は一気に萎えて、流動性が低下した。世界中の中央銀行がオペを出し、パニックに陥ることを必死に食い止めている。

そこで私の提言だが、日本円がある程度日本に戻ってきた時点で利上げを敢行し、2年ほどで3.5%まで持っていくとターゲットを明言してみてはどうだろうか?フィリップカーブではないが、資産価値を決定するのは利率そのものではなく、利率の期待値である。金利目標を設定することにより、日銀は今まで失っていた期待金利の上げ下げという武器すら取り戻すことになる。日本に戻ったお金は日本国内に吸収され、やがて資金が国内に溢れてくる。消費者は貯金に利子がつき、資産価格が上昇することで、購買力が上がり、貧困や格差の問題を一気に解決できるかもしれない。大手企業の中には苦しくなる会社も出てくるので、政治家は一気に本当の意味での改革を断行できよう。勿論、そのような事を行えば、アメリカが不景気に陥るだろうし、北京五輪が開けないというような事態すら起こるかもしれない。だが、日銀は世界のためではなく、日本国民のために政策を打って出るべきだ。民主党は消費者のための政治などと嘯くのならば、このくらいのシナリオを前面に打ち出して欲しい。

デフレは既に問題ではない。コモディティーの価格上昇はインフレプレッシャーを齎している。日本の消費が伸びないのは、貧乏な人が大勢いるからだ。価格の上昇を、需要の低下で必死に抑えるけなげな我が日本。日銀が日本の一般の消費者のために、自分たちが過去に犯した愚策を清算する時がやって来ているのではないだろうか?

7/19/2007

回顧主義と昭和の味

6月の初め、ある一軒の日本食レストランが静かに暖簾を下ろした。そのレストランの名は「たこ八」。セーフコフィールドや宇和島屋に近いインターナショナルディストリクトにあった。私にとって、たこ八はシアトルで最も愛していたレストランの一つであったので、非常に悲しかった。悲しいにも増して、たこ八がなくなるという事実に、虚無感を痛烈に感じてしまった。確かに時間は移ろうものであるし、捉えることは出来ないものだ。大好きだった店は時間の波の中に消えてしまった。そして、僕たちは汗水垂らして未来へと走り続けている。しかし、その未来に「たこ八」は決して存在しない。

アメリカで、日本食レストランといえば寿司屋と同意語になっているのが実情だが、たこ八は日本で俗に言う「洋食」を中心としたメニューを組んでいる。ハンバーグや鳥の唐揚げ、コロッケ、エビフライなどが主な料理としてメニューに名を連ねる。しかし、さば塩、鍋物、いなり寿司といった純日本的な料理も多くある。平たく言ってしまえば、定食屋なのだ。

お店は30人強が座れる広さだ。ご主人と奥さん、娘さんが切り盛りしている。ご主人と奥さんは見た目は物凄く若いのだが、すでに70才代であったという。特に奥さんは、元モデルをしていたという事もあってか、本当の年齢よりは20歳くらい若く見える。本人たちはまだまだやりたい所だったのだろうが、周りが心配して、店を畳む事になったという。世の中はそういう物だ。実際に事を行っている人はただひたすら何かに向かって走り続ける。そして、何もやってない周りの外野はとやかく口を挟む。

私はいつも決まって「トリプル」と呼ばれるセットを注文する。鳥の唐揚げとコロッケ、さらにハンバーグがついている。揚げ物は程よく揚がっているし、素材のジューシーさをきっちりと残している。ドミグラスソースは非常に上品な味を出している。御飯は焼き飯かカレーのうちから選択できる。焼き飯はベーコンとキャベツ、人参を炒めたお袋の味だし、カレーも昔懐かしい味だ。さらに、サラダがついてるのだが、キャベツの千切りに大きなハムが乗ってボリュームたっぷりだ。日本ではありふれたメニューかもしれないが、アメリカでは中々探せないメニューである。しかも味も格別だ。ご主人の気合いの入れようがはっきりと舌に伝わってくる。

私はたこ八に行くと、子供の頃、阪急百貨店の大食堂にお祖父さんと良く行った事を思い出す。混雑する大食堂で運ばれてくるハンバーグステーキ。実際の所、美味しいと思ったことなど一度もなかった。だが、たこ八で食べる美味しい料理には、昭和の時代が終わろうとしていた僕の幼少の頃の記憶がソースとして乗っているのだ。無くなってしまった物特有の懐かしさとでも言おうか?そして、その味は既に日本で絶滅に瀕している。安っぽいフランチャイズの店や似非イタリアンが跋扈する21世紀初頭の我が日本では、町の洋食屋さんは生き伸びることが出来なかった。それは自然の摂理である、弱肉強食の原則にのっとった公平な競争の結果だ。海を隔てて遠く離れたシアトルの町の片隅に残っていた昭和の味。予想外の宝物だったのだが、やがてそれは失われてしまった。

昭和の時代は遠くに過ぎて行ってしまった。次に私が納得に足る鳥の唐揚げやハンバーグを食べることが出来るのはいつの日になるだろうか?昨年大阪に帰ったとき、梅田の阪急百貨店は改装を始めていた。時代は極端に早いペースで動いている。他の人達と同様、私の日常もその流れに対応するべく忙しいものである。たこ八はその忙しさを時折忘れさせてくれた。時代を懐古する物を失うという事が、虚無以外のなんだと言うのだろう?店は無くなってしまったが、たこ八の残像は古い阪急百貨店の大食堂と共に私の心の奥にきっちりとしまっておきたい。

5/19/2007

Preakness Stakes

ストリートセンス(父ストリートクライ)がケンタッキーダービーで見事な勝ち方を収めた。一体どこからやって来たのだとういう、見事なインを突いた立ち回り。お見事というしかない。結果は予想通りの上位三頭で決まったのだが、雨のせいで湿った馬場を考慮して、非力と思われるストリートセンスの評価を直前になって若干落としてしまったのが間違い。結局、エグザクタが多少当たった程度であった。予想と収益は全く繋がらないものである。

ケンタッキーダービーから二週間。ボルティモアのピムリコ競馬場では、続いてプリークネスステークスが行われる。1997年以降の10年で6頭のダービー馬がプリークネスを制して二冠を達成している。プリークネスステークスは少頭数になるし、競馬がしやすくなるためと思われる。

しかし、今回はダービー馬のストリートセンスがあっさり勝つのだろうか?プリークネスで負けてしまったケンタッキー馬を論じたい。競争中止した2006年のバーバロ(父ダイナフォーマー)は除外して、負けたのは2005年のジャコモ(父ホーリーブル)、2001年のモナーコス(父マリアズマン)、2000年のフサイチペガサス(父ミスタープロスペクター)である。共通項は何か?後ろから競馬をする差し馬だ。ピムリコはチャーチルダウンズと比べて直線は短い。しかも少頭数になってしまうプリークネス。末足を余したまま、インも突けずにストリートセンスがあらら、となる可能性は十分考えられる。

本命はカーリン(父スマートストライク)。ケンタッキーでの敗因はスタート直後に包まれて後方に下がったこととはっきりしている。それで三着まで上がって来たのは、非凡な力がある証拠だ。ポンと出たらそのまま押し切るだろう。

2着は差し届かずにストリートセンス。まあ、三冠を獲って欲しいとは思うのだが、ブルーグラスSの映像が脳裏によぎる。ピムリコは最大の難関だろう。

ダービーで頑張ったハードスパン(父ダンチヒ)だが、今回はそう簡単に前に行かせてもらえるのか?エクスチェンジャー(父エクスチェンジレート;祖父ダンチヒ)や、何よりもカーリンが前に行く。そうなると、前回のような一世一代の競馬は難しいだろうが、このメンバーなら3着は十分にありえる。サーキュラーキー(父サンダーガルチ)やキングオブザロキシー(父リトルエクスペクテーションズ;祖父ヴァリッドアピール)との3着争いか。

ピムリコスペシャルやディキシーステークスといった面白いプログラムもあるが、プリークネスは馬券的にはしてはいけないレース。カーリンの単勝買いが常套なのだろうが、本日は家でNBCでのテレビ観戦となりそうだ。

5/03/2007

Kentucky Derby 2007

最近忙しく、ブログを更新する暇がないし、気力も無い。だが、ケンタッキーダービーの予想は更新する。

第133回のケンタッキーダービー(チャーチルダウンズ)は、人気の抜けた馬が二頭出る。それは、デビューからの三戦をぶっちぎりで圧勝しているカーリン(父スマートストライク;祖父ミスタープロスペクター)と二歳チャンピオンのストリートセンス(父ストリートクライ;祖父マキャベリアン)である。

カーリンはデビュー4戦目でのダービー挑戦であり、鞍上はアルバラドだ。前走のアーカンソーダービー(オークロンパーク)は、弱い相手だったとしても、10馬身半の着差は、賞賛されはせよ、貶められることはない。前につけた競馬が出来るのがこの馬の強みである。

一方のストリートセンスは、昨年のBCジュべナイル(チャーチルダウンズ)で、低人気にもかかわらず、恐ろしい時計で圧勝した。ビデオを繰り返し見ると、立ち回りが上手かったのではないかと勘ぐってしまうが、これも賞賛されるべきである。ただ、後ろからの競馬をするのが欠点であるが、広いチャーチルズダウンであれば、展開が紛れる事もないだろうし、ダービーだから展開が妙に遅くなることもあるまい。二歳王者がいまだにケンタッキーダービーを勝ったことが無いので、期待したい。

ただ、今回のダービーの鍵を握るのは展開である。毎年、ダービーは殺人的なハイペースになるのが常ではあるのだが、今年は、有力馬が前に行かない。控えて競馬をする馬が多いので、意外とスローペースになるのではないか?前章戦で一番いいメンバーが集まったのはトヨタ・ブルーグラス(キーンランド)だった。ポリトラックだという理由もあろうが、少頭数で極端なスローペースになった。最後の直線、一番人気のストリートセンスが追い始めたが、うちから差し返そうとするグレートハンター(父アプティチュード;祖父エーピーインディ)に寄りかかり、走行妨害すれすれ。鞍上のボレルはそれに気をとられたのか、外から来るドミニカン(父エルコレドー;祖父ミスターグリーリー)に鼻差で勝ちを譲った。私自身、ブルーグラスSの結果は重視していないし、メンバー中一番強い競馬をしたのはストリートセンスであったと信じている。だが、結果的に、ペースのせいで着順が紛れてしまった。恐らく、それは鞍上の問題だったと思う。本番で、無名のボレルがどのような競馬をするのか?

ストリートセンスからカーリンにエグザクタで勝負したい。勝つのはどちらか。紛れる事はまずないだろう。ティアゴ(父プレザントタップ;祖父プレザントコロニー)は強いメンバーとの戦いなら実力を発揮しそうなタイプ。二頭を固定して、三連単、四連単で遊ぶのがいい。 ハードスパン(父ダンジグ)が調教で猛時計を出している。この馬は底を見せていない上、ダービーはこういう馬が来ることが多いので、抑える必要あり。

◎ ストリートセンス
○  カーリン
△ ティアゴ
△ハードスパン
× スキャットダディー(父ヨハネスブルク;祖父ヘネシー)
× ノービズライクショービッズ(父アルバートザグレート;祖父ゴーフォージン)

1/15/2007

教育論(2) NPOと社会

私は5年以上もアメリカで暮らしているのだが、そうするとアメリカの良い面も悪い面も公平に見えるようになった。人並みな感想だが、アメリカという国がとてつもなく豊かだと感じる一方で、様々な矛盾を抱えているとも感じる。だからと言って、アメリカに対する批判をする必要は無く、日本人としてアメリカが持つ優れたシステムだけを戦略的に取り入れていけばよいのだ。

日本とアメリカを比較した際、私が思うに、一番の違いは「社会システム」である。日本の「社会システム」は、残念ながらアメリカのそれと比べて30年は遅れている。社会システムを態々「」で囲っているのは、その定義が非常に怪しいからだ。故に、マクロな視点からではなく、ミクロなケースで見ていく必要がある。例えば、NPOの話をしたい。

日本でNPOと言えば怪しげな団体を思い浮かべられるかもしれない。社会主義者や左翼の吹き溜まりが、NPOと称して活動をしている場合も確かにある。日本ボーイスカウトや交響楽団、町おこしを活動している団体など、長期間に渡って実績を持つ優良なNPOも多々ある。しかし問題は、政策に関わるような洗練されたNPOは皆無であるという事だ。

アメリカではNPOが社会に密接に関わっている。例えば環境系のNPOであれば、町の小さなNPOでさえもPhD(博士号)取得者がいるのには驚かされる。独自の調査やパブリケーションを行い、市や州政府に政策の進言をしている。同時に経営の専門家もいて、資金面での遣り繰りも巧く行っている。大学生や院生たちがインターンとして活動に参加する。NPO同士、或いは大学や政府と組んで、リサーチやプロジェクトを行っているのも興味深い。政府は、自分たちが出来ないプロジェクトは直ぐにNPOに外注する。GIS(地理情報システム:コンピュータによる地図作り)や魚のポピュレーション調査など、政府が限られた予算や人員で全て出来る訳がないからだ。NPOは、サーモン専門、鳥専門、湖沼専門、地図製作専門、政策専門、ロビー専門、調査専門、市民とのコミュニケーション専門など、活動が特化している場合もある。

さらに、人材の流動性が面白い。先ほども言ったが、大学生や院生で環境に興味がある学生がインターンとして働く。大学を退官した教授などが、NPOの活動に参加する。大学院で学位を取った人達が、初めてのキャリアとしてNPOを選ぶ。政府で働いていた人がNPOに来たり、逆にNPOで働いていた人が政府で働き始めたりする。リサーチャーや高学歴の人を流動させることで、より面白い問題を見つけ出し、それに対して解決策を講じるように社会全体が動く。

お金の面で言えば、市民からの寄付や、業界からの寄付、財団からのお金でNPOは回っている。アメリカでは、簡単に言うと、寄付を行えば税金を払う額が減るので、多くの人が直接自分の興味のあるNPOなどに寄付する。いくら魅力的な活動をやっていたとしても、お金が無ければ専門家を雇うことが出来ず、NPOの活動は成り立たない。さらに、NPO間の資金の遣り繰りもある。NPO間でもプロジェクトを外注するのだ。

アメリカのNPOは研究者の裾野を拡げた。そして、小さな政府作りに貢献した。さらに、多くの雇用を生んだ。特に、女性や高学歴者に対して、NPOがアメリカ社会に齎した影響は多大であると言える。アメリカでは産業の空洞化が言われて久しいが、このような知的産業が新たに興っているのである。

さて、このような良い制度を何故日本では採用しないのか?簡単に言うと、現状では出来ないのだ。NPO法が整備されて、NPOを起こすことは簡単になった。だが、誰がNPOのトップに立つのか?会社や政府で働くことを諦めて、日本でNPOで働く魅力があるのか?個人や会社からの寄付が望めない状態で、どうやってまともにNPOを運用するのか?研究や経営が出来るような人材をどのように確保するのか?第一、自分の力で独立して研究できる人材がどれほどいるのか?人材の流動性がない日本で、小さなNPOで働いてしまうことなど、自殺行為に等しい。

NPOが政策提言をしたとして、地方政府や政府は聞く耳を持つのか?国はプロジェクトを外注する気はあるのか?国は個人同士の寄付を認める気はあるのか?国は政府の規模を小さくする気はあるのか?

現状では、日本において、アメリカのようなシステムを求めることは不可能に近い。だが、それこそが社会の進むべき方向性であるのだから、やがて、30年くらい経てば、日本も現時のアメリカのようなまともなNPOが国づくりに協力する社会になっているのかも知れない。現在の公務員削減や独立採算制が、将来のNPO社会到来への布石であると考えられなくもない。

現在の日本のNPO。例えば、環境のNPOであれば、科学的知見に基づいていない事柄に力を入れている。撒き水をして、本当に地球の温暖化が解決するのか?馬鹿らしくて言葉も出ない。大学の仲良しサークルのように、「行動すること」こそが良き社会を作ると勘違いしている人が大勢いるようだ。まともなNPOが一杯あった上で、そのようなNPOもあるのなら納得は行く。しかし、それが一番まともなのだから、どうしようもない。それと、日本のまともなNPOは直ぐに外国の研究をする。東南アジアやロシアの生態系など。わが国の環境は、蔑ろに出来るほどそんなに素晴らしいのか?何もしないで良いほどの住み良い日本なのか?誰もチャレンジすらしないし、問題を凝視しようともしない。残念ながら問題を凝視できる人などいないのだ。

つまり、一番の問題になるのは、人材作りだ。現状ではNPOなどで働けば一生冷飯を食わなければいけないので、まともな人は決してNPOで働かないが、仮に社会基盤が整ったからといって、NPOを率いていけるほどのまともな人材がいるのだろうか?次号で解説する。

1/13/2007

初等教育改正の意義

昨今推し進められている改革の一つに教育も含められていることは皆さんご存知だろう。教育基本法の改革が進められているし、国立大学は独立行政法人に変えられた。マクロ経済の理論では、短期や中期の成長は利率や政府の支出などのテクニックである程度操作できるものの、長期的な経済成長は技術革新と人材の能力を上げることでしか成し得ないとされる。技術革新も人材の能力も、根本的には教育が齎すものである。つまり、将来の日本が成長を続けるためには、王道など無く、地道に人々に適切な教育をするしかないのである。故に、教育は国家の長期的な政策として最も大切なものであり、逆に、教育問題を語る際には長期的な経済成長がゴールとなることを認識するべきだ。

昨今の国レベルでの教育改革の討論の内容を聞いていると、ゆとり教育の弊害、学級崩壊、いじめ・自殺など、初等教育において現場で実際に起こっている問題ばかりが取り上げられている。勿論、多くの人にとって、これらの問題は生々しいものであり、関心が高いことは頷けるが、このような問題を国が解決するべきかどうかという点で納得がいかない。第一に、教育基本法を改正した程度でこれらの問題が全て解決するわけがない。時代遅れの法を改正することは当たり前だが、それに高望みはできない。さらに、改正に何らかのイデオロジーを持って反対し、この問題を遅延させるのは理解に苦しむ行動だ。第二に、いじめなどは、どんなに金を掛けて、どんなに素晴らしい法律を作ろうが、絶対になくならない。いじめや自殺を無くすために教育改革を訴えている人がいるとしたら、全く馬鹿げている。いじめや自殺を防ぐのは社会全体のシステムを変えなければどうしようもなく、教育が口出しできる範囲は狭い。また、国家が現場のいじめを防ぐことなど出来ないので、これは現場の問題なのだ。第三に、無理な話だが、仮に国が大量のお金や時間を割いて、公立小学校の学級崩壊を完全に防いだとしよう。一体それでどれだけの成果が得られるのか?学級崩壊が無くなれば不景気は消え、雇用は増えるのか?ニートが本当に減るのか?


教育問題を話し合っている人達におかしな人達が混じっているのは看過できない。教育の専門家は、教育理論のみを研究しているのか、宗教がかった事ばかりを喋っている。個々の価値を尊ぶ、云々、哲学やイデオロギーを流布する必要などない。大学で研究する人間であれば、何をすればどのような影響があるのかという事実だけを科学的に述べればよい。日本の大学で研究する教育専門家の多くが科学的手法を理解していないので、評論家紛いの仕事しか出来ないのが現状なのだろう。ノーベル賞を受賞した人なども教育改革基本法改正の委員会に入っていたが、研究だけに没頭して失敗からたまたま大発見をしたような、宝くじに当たっただけの、教育に関しては全くの素人の意見を尊重するのもどうかと思う。塾がいらない?そんなことは国の法律に記載されることではない。

いずれにしても、初等教育改革がごく簡単であると思うのは私だけか?国や県の権限を抑え、現場に教育の権限を与えて、自由な学校づくりをさせればいいのではないか。NPOや地域コミュニティー、或いは企業が積極的に初等教育に関われるようなシステム作りをすれば良い。そして、校長などに教師の雇用の権限すら与え、県や自治体に校長の雇用の権限を与えればよい。そして、一部の偏った勢力や人間に教育現場を乗っ取られないようにするためのセーフティーネットを法律で制定すれば良いのである。それが現時点の公教育の範囲を逸脱していると言うのであれば、公教育の定義を変えればいい。

問題がとても簡単なので、初等教育ついては誰でも強い意見を持っているものだ。そして、どうすれば教育が良くなるのか、皆意見が違う。一番大事なのは、それらの意見に基づいて、慎重な実験を行い、どのオプションは機能するのか、どのオプションは機能しないのかということを誰かが調べるべきなのだ。意見だけで法律や指針を変えようとしているからおかしな事になっているのだ。意見はあくまでも意見で、政策は事実に基づかなければいけない。教育に柔軟性を持たせれば、国が出来る初等教育の問題は完結する。そして、後は現場レベルの問題となるのだ。

では、誰が実験するのか?それは、教育学者や社会学者がするべきだ。日本では、あまたの数の社会学者が余って燻っており、それらの人達を活用しない手は無い。法律を制定する立場の人達が、NPOや大学を使って、自由に科学的な知見を集積できれば素晴らしいと思う。それらの科学的知見に基づいて、変えるべき所は変えていけばよい。何も、素人のノーベル賞学者を連れてきて、意見を述べさせる必要などないのだ。法律改正では、党や個人や組織などが、まともな研究が出来るNPOや大学などに研究資金を直接払う事を可能にするような法律を制定する必要がある。

ただ、前述したが、そして今後も討論するが、科学的見識のない、一つの分野の知識だけが優れた似非科学者が日本に多いのも事実である。それこそが、日本の教育の本当の課題だと思う。大学がきっちりと教育しなければ、これらのNPOを率いていく人材が育たない。大学がまともな教育を受けた人材を世に送れば、まともなNPOなどが増え、社会が高度に知的な方向に動き、教育の意味が実感できるようになると考える。このあたりの事を、次の回では討論したい。

新年の挨拶に代えて

やり残した仕事が大量に残っていたため、年末に無理をしすぎたせいか、長い間ダウンしてしまった。コンピュータの前にずっと座って不規則な睡眠時間をとりながら仕事を続けると、気づかないうちに疲れが溜まってしまったようだ。胃腸の機能が低下したので、流行のノロウイルスかと思い病院に行ったのだが、疲れが溜まっていると窘められた。1週間以上もお粥とジュースという生活が続き、食事の話など書く気も起きなかった。

一部の熱心な読者には大変ご迷惑をおかけした。私が全く更新していないも関わらず、頻繁にアクセスして頂いている様だ。1週間に1回は最低でも更新するので、今後ともよろしくお願いしたい。

病気で寝込んでいる間に、我がシーホークスは、プレイオフのワイルドカードを勝ち進んで、日曜日にシカゴベアーズと対峙する。ダラスカウボーイを救ったシンデレラボーイ、トニー・ロモのラッキーなお手玉のお陰で転がり込んできた勝ち星ではあるが、運もスポーツには必要な要素だ。ベテランクオーターバックのマット・ハッセルバックと昨期MVPを獲ったランニングバックのショーン・アレクサンダーが怪我で数試合を不意にしたせいもあり、今シーズンのシーホークスは昨期ほどの勢いはない。しかし、シカゴベアーズのレックス・グロスマンが数週間ほど前に何度もグリーンベイパッカースにインターセプトされたのを見ていると、少しくらいはチャンスがないかな?と思っている。

他のプレイオフは、ペイトン・マニングのインディアナ・コルツが、どれだけボルティモア・レイブンスのディフェンスを崩すかが見ものだ。インディアナか?ニューオーリンズ・セインツの神がかり的な活躍を見ると、二年前のMVPドノヴァン・マクナブを怪我で欠くフィラデルフィア・イーグルスにはあまりチャンスはないだろう。トム・ブレイディーとニューイングランド・ペイトリオッツは、強いとはいえ、昔の威光は無くなった。今年のサンディエゴ・チャージャーズは優勝候補筆頭の最強軍団。打ち崩すのはほぼ不可能だろう。

スーパーソニックスは、レイ・アレンが復活したと思えば、次はラシャード・ルイスが手を骨折して戦列離脱。見るのも悲しい体たらくぶりだ。今年から入団したフランス人のミカエル・ジェラボールは予想以上の動きを見せている。ルーク・リドナーがスターターの地位を「自己中」アール・ワトソンに譲ったのは気に入らないが、燻っていたニック・コリソンが連日連夜の大活躍。カンザス時代に全米カレッジベストプレイヤーに選ばれた実力から言えば、期待通りの活躍だ。二年目のデロン・ウィリアムズと開眼したカルロス・ブーザーの活躍で猪突の勢いのユタ・ジャズを、延長で破ったのは評価できよう。自己ベストを更新したレイ・アレンは神様に見えた。

さてこれから暫くの間、思うところがあり、日米の教育の話についてのエッセイを書きたいと思っている。未だに書ききれていない食事の話題も溜まっているのだが、この話題はどうしても避けて通れないし、個人的に文章にすることでしか救われない物がある。アメリカで学業に励んでおられる型の中には、色々な疑問や背反的な思いを抱えながら板ばさみに陥っている方もおられると思う。今後数回に渡って書く文章が、そのような方たちの共感を得られることが出来れば素晴らしい。

今回は、今後の連載の紹介と、新年の挨拶、そして更新を怠けていた言い訳ということで。