3/29/2011

理系VS文系、保守VS革新、政官財癒着のゴキブリ達

*この文章は地震が起こった日(3月10日西海岸時間)に書いており、発表が遅れました。ただ、この文章で述べた問題点が地震の後に白日の下に晒されている現状で、記事をお蔵入りにせずに、発表することになりました。

断っておくが、先の記事(人文学の話)は人文学系の人を差別しているのではなく、科学的な見地の無いくせに教養を前面に出す人文学系の人を批判しているのである。全ての人が教養を学ぶべきだ。しかし実証可能な科学的見地を学ばずに、教養だけを振りかざすことは、それはまるで、銃を持ってる人が大勢いる中に日本刀を持って戦いに挑んでいるようなものだと思う。少しだけ本を齧れば、教養があるように感じて、インテリのふりが出来る。その辺に大勢いる、他人の批判だけをして理想論だけを言う人のことである。或いは、社会を何も変える事ができない解釈論のみに固執する人である。そしてそういう人を教養がある人と看做す風潮がある。そういう社会だからこそ、マイケル・サンデルの講義番組が社会的に過大に評価されたりするのであろう(少人数で行われるという前提で、リベラルアーツ系の大学授業としては卓越している)。人文学者になってサンスクリッド語を学んで歴史の研究をするのであれば、ジャヴァ言語を学んで面白いアプリでも作ったほうが間違いなく世の為となろう。

さて今回は続きと言えば続きになるのだが、右と左について考えたいと思う。自分の言動を見つめ直すと、私は単なるリバタリアンなのかも知れない。それはどうでも良い。私が分析したいのは、いかに「右」と「左」がぼやけているのかということだ。日本ではそれらを代表する政党が無い。左右のぼやけがどのような負の外部性を生み出し、そして、それに対してどのような解決策がありえるのか、という事だ。

日本の大衆の間では戦後一貫、「左」は社会主義や共産主義者、「右」は暴力団の隠れ蓑である右翼団体、そしてその他は「中道」として捉えられていたと思う。あまりにもいい加減な定義であるが、玉石混交の自由民主党が反共産主義という名目だけを繰り返して、政権を長々と担ってきたことからも、私が言っている事は理解してもらえると思う。自民政権の中でも、中道左派と右派が混在しているように報じられている。いわゆる「鳩」対「鷹」である。所謂「左」対「右」という考え方は、ソ連が崩壊して、中国が拝金主義化し始めた20年前に死んだ。昔話をしても仕方ないので、最近の動向だけを見てみよう。

正規な手続きを踏まないまま森が首相に任命された為に、日本の権力は田中派(鳩派)から岸派(鷹派)に移った。小泉純一郎が首相になり、田中派の残党を蹴散らせた為に、岸派の権力基盤は磐石かに見えた。経済的には、鳩派が大きな政府を目指す傾向があるのに対して、鷹派は小さな政府を目指す傾向が強い。小泉はその軸の上で戦ったから、国民から支持されたと思っている。しかし日本の鷹派は権威主義的な事を言う人も多い。要するに、日本と言う国が素晴らしいという事を過度に強調して人気を得ようとする訳である。小泉の後を継いだ安倍政権は、経済事象が解らない為か、イデオロギーに主軸を移し、「美しい国」などと言ったどうでもいい標語を掲げた。「日本の素晴らしさ」は強調するものではなく、自覚するものであると思う。そんな事を国の目標にして強調すれば、周囲といざこざが起こるのは目に見えている。何故なら、その主張を通すためには、やくざ相手に「日本が素晴らしい」と飲まさせなければならないからである。普通ならこの手の勘違いはすぐに窘められる筈であったのだが、思わぬ神風が吹く。それは本物のヤクザ国家、北朝鮮である。北朝鮮の脅威故に、多くの人々は権威主義を支持してしまった。それが所謂「日本の右傾化」であろう。ただ、安倍は経済を疎かにして自滅してしまった。そして空虚な何にもならないイデオロギーだけが残った上に、ゴキブリ(利権集団)が復活して大攻勢をかけた。

ゴキブリ処理能力に疑問を投げかけられた自民党は大敗する。そして民主党が政権を担う事になった。民主党が期待されていた事は徹底的にゴキブリを殺すことであったと思う。しかし誰も期待していないのに、「大きな政府」を協調するようになった。しかも、どうでもいいアジアと仲良くするとかいう幼稚園児並みのイデオロギーが幅を利かせる。それは個人がすればいいことであって、国が音頭をとるものではない。喜んだのは自民党だ。それを手に取り民主党が「左派」であると騒ぎ立てる。確かに民主党の中には所謂昔からの左派もいるだろうが、かなり的外れだ。何故なら、民主党に主義主張は無く、ただの能無し集団であるからだ。元々は、ばら撒き「左派」という事だったのだが、「左派=売国」といったレッテルを張るようになる。民主党はその無能力さと玉石混交の無理な枠組みの中で内部抗争が起きるのだが、右派の権威主義者がそれを利用して、社会の底辺で苦しんでいる連中を喚起して排他主義的で権威昂揚を目的としたような「右」が社会に認識されるようになる。戦前崇拝のようなおかしな風潮すら見え隠れする。

日本の政治も、ノーランが言うように、個人の自由が高い・低い、そして経済の自由が高い・低いで4分割にすれば解りやすくなり、無駄なイデオロギー論争をせずに済むようになると思う。1)個人の自由は高く、自由度の低い経済を目指す左翼(旧田中派)。2)個人の自由は高く、自由度の高い経済を目指すリバタリアン(みんなの党)。3)個人の自由は低く、自由度の高い経済を目指す右翼(自民党岸派)4)個人の自由は低く、自由度の低い経済を目指す全体主義(共産党)。政治を解りやすくする為に、4つの党だけを残して、その他のつまらない党(民主党を含む)は全部消滅させればいいと思う。「立ちあ枯れ日本」とか、「池田大作党」とか、「鳩山弟新党」とか、「ポピュリズム減税日本」とかいらない。

しかし、いまさら日本の政治に何を期待したところで無駄なので、サンデル教授の番組でも見ていたほうが有意義なのかもしれない。政治家が悪かったのではなくて、その程度の政治家しか育てれなかった民主主義社会日本が悪いのである。余りにもあからさまな政官財暴警の癒着に目を閉じていた去勢された国民が悪かったのである。

3/25/2011

神戸の地震と比較する愚かさ

今回の地震について、中長期的には日本経済にとって良いなどとする論調を良く見る。特に海外の経済番組でそのような発言を多く聞く。その人達は今回の地震を阪神大震災と比べているのである。今回の東北大地震と神戸の地震を比べるのには無理があると思っている。

まず地震そのものの規模であるが、阪神大震災と呼ばれる1996年に起きた地震の被害は至極限定的な物であった。武庫川を越えたあたりから須磨や垂水まで。加えて淡路島の北端。最も大きな被害は兵庫県の南、海沿いを中心に15~20kmの範囲内で起こっていた。豊中などの大阪府北部でも死者が出た為に(兵庫圏外の死者数は36名のみ)、神戸大震災ではなく阪神大震災と呼ばれたわけだ。大阪の町は殆どノーダメージであった訳だし、京都も何の問題もなかった。阪急電車も数日後には梅田から西宮北口駅まで運転が再開したし、JRや阪神も西宮界隈まで運転を再開した。西宮まで電車で行ってしまえば、深刻な被害にあった西宮市や神戸市灘区、中央区や兵庫区には徒歩で行こうと思えば行けるわけである。阪神高速、東海道新幹線、神戸市内の私鉄やJRの復旧には数ヶ月を要したとは言うものの、国道二号線は混んでいるとは言えども、使えたわけである。神戸港は機能不全となったが、大阪や京都から物品が消える事は無かった。阪神高速はだめでも、中国道は問題なく走れたのである。神戸の町がズタズタになったというものの、サプライチェーンはしっかりと維持されていたのだ。神戸の地震では、家屋倒壊や人的被害は大きかったというものの、工場施設や物流、農業やエネルギーといった我々の生活を直接支えるものに対する被害は今考えると限定的であった。それは、地震そのものが起こった場所は悪かったが、規模そのものは比較的小さかったためであろう。そして、どのような形で何を中心として復興させれば良いかの政治判断が比較的簡単に出来た。

神戸市中央区、灘区、芦屋や西宮などは日本有数の裕福な地域であり、住民の懐は深い。それらの地域で被災した多くの人達は、家が多少壊れても自分達でさっさと立て替えた。大阪などを中心に工務店などの業務は全くと言っていい程ダメージを受けていなかったので、再建は比較的早く進んだ。1997年には橋本内閣下で消費税増税が行われる事が解っていたので、3%のうちに家を建て替えようと考えた人も多く1996年の住宅着工数は異様に伸びていた。ただ神戸市長田区などの比較的貧しかった地域は復興も大幅に遅れていた。

一方で、東北大震災の被害地域は尋常でないほど範囲が広い。津波の被害が特に酷かった海岸沿い地域だけでも300kmをゆうに越えている。勿論歩いて行ける距離ではない。東北地方は一言で言えば「田舎」であり、人口が密集している訳ではなく、被災地も散らばっている。そして、仙台以外の小さな漁村の被災地について、復興をするべきかするべきでないか、そしてどこを優先するべきかの判断がつき辛い。しかも、工場などが広く多岐に渡ってダメージを受けており、都心はもちろん、西日本などの関係がないと思われている地域の産業にさえ影響を与え始めている。それどころか、韓国や台湾、アメリカの企業まで製品が日本から輸入されないと困っている事態なのだ。そして、電気と食料の問題。これらが日本全体にボディーブローのように効いて来る。

勤務していた工場が津波で壊滅したり、漁をしていた人の船が壊れたり、或いは津波や放射能の影響で農業が出来なくなっているなどの理由で、現金収入がほぼ立たれたと考えられる人達が大勢いる。その人達が神戸の時のように自力で復興できるのだろうか?震災の後、政府は何かと大盤振る舞いを始めている。なんでも政府が保証すると言っている。津波で壊滅した街も、放射能で農業製品を出荷できない人達も、かなりの長期戦を覚悟しなければならない。政府は本当に保証できるのだろうか?

どさくさに紛れて消費税をあげようとする動きがある。私はある意味仕方ないと思うのだが、これは経済を殺すだろう。橋本政権下で3%から5%に消費税を上げると、日本経済が風邪をひいただけでなく、香港、タイ、マレーシアや韓国は死にそうになった。最後にはロシアにまで飛び火する事態となった。あの頃に比べれば、日本の地位そのものが低下しているので、今回の事態は日本経済をずぶずぶと下向かせるだけになるかも知れない。

嫌なことばかり書いているので、すこしばかりジョークも書く。東京の電力不足のおかげで一つだけ日本の社会的な問題が解決することになった。停電の中何もやる事が無くなった首都圏では2012年にベビーブームを迎えることになり、日本の人口減少に歯止めがかかったのである!

3/22/2011

地震、津波、原発、そして東京の落日

地震、津波、原発のニュースをNHKで見ているのだが、他のことが手につかない。さらにアメリカでは、ナショナルとローカルにかかわらず津波と原発のニュースがトップ扱いになっており、英語での放送なのだが、映像を見ていて日本にいるのではないかという錯覚を覚えてしまう。多くの人が悲劇が好きなだけと言う事は良く理解しているつもりだが、日本の惨状が報道されているというのは非常に有り難い事である。私は社会科学を本職としているので、メガネを曇らせる虞がある「お涙頂戴の話題」はなるべく避けているのだが、被災者の報道には心を砕かれる。若かりし頃、神戸で自分の目で見た事と比べても、明らかに規模が違う。地震とそれに伴う津波で不幸にも命を落とされた方達にはご冥福を心から申し上げる。

しかしながら、いつまでもヒューマニタリアンの話をしていても仕方がない。不謹慎と言われるかも知れないが、これは三陸沖で起きた地震であり、比較的人口が薄い地域が被災したものであり、その地震が日本を殺す必要はない。原発の問題など、信じられないような事態も起きている。しかし心臓が機能不全になると、私達は傷口に血液を送れなくなる。人命が第一。そのステージは恐らく終わった。被災者の秩序だった行動に助けられた事は否定のしようがないが、政府の人命救助の対応にはAプラスをあげられると思う。食料や水、燃料が被災地に行き届くか?日本には食料も水も十分にあるので、ロジスティックの問題が解決されれば心配する必要がないだろう。被災地があまりにも広大である為に、実際問題として解決には時間がかかると思う。自衛隊にイニシアティブを取らせてロジスティックを一元化している事も評価できる。

地震の直接の被害は16-25兆円ということであり、これはすぐに復興できる。今回は原発に端を発する三次災害の問題を語りたい。既に多くの専門家が指摘されているように、チェルノブイリのような事態になる事は恐らく無いだろう(この時点においても、今後絶対に安全であるとは保証できないが)。ただ原発問題から派生した災害は長期で日本経済を苦しめると思う。私の結論を言うと、原発に端を発する社会問題は金銭的にもかなり深刻であり、東京の国際競争力を大きく落とすことになろうと推測する。

まず原発自身の問題については、冷却をすれば良いと言う事である。という事は、今後も冷却する必要があるという事だ。燃料が暖かいうちは処理も出来ないので、今後もこの状態で冷やし続けることになる。言い換えると、燃料がある程度冷えて処理できる状態になるまで、このままの状態を続けざるを得ないと言うことだ。微妙に放射能が放出され続け、そこに被曝覚悟で誰かが冷却作業をする。放射能度が高いので、今後も建物を作るなどの作業は簡単には出来ない。どのくらいの期間で燃料は冷えるのか?恐らく今後3-5年はかかるだろう。その間、原発から20km以内は立ち入り禁止が続くであろうし、誰も帰ってこないだろう。2014年から2016年の頃まで、この問題はだらだらと続くのである。その間、土壌汚染、空気汚染、そして水の汚染など、放射能問題はだらだらと長引くことになりそうだ。

次に農業や漁業に及ぼす被害である。土壌や海水が汚染されているので、今後数年間は北関東から福島県、宮城県といった場所を産地とする農産物や漁獲物は買い手がつかない。それでなくても水田が津波による塩害で今年は無理という状態であるが、さらに輪をかけて状況は悪くなる。洗えば大丈夫だと科学者は言うだろう。しっかりと洗いさえすれば放射性物質は流れ落ちるので、農作物が放射性物質を吸収していなければ大丈夫という寸法である。しかし、私は安全だと解っていても食べたくない。科学者にはこう問いたい。何故有機野菜が売れ、そういったマーケットが存在するか、という事を。人間の消費行動などは、理性で行っているのではなく、所詮はパーセプションなのである。いずれにせよ、日本の食糧供給は危機的状態を迎える。食料のかなりの量を輸入に頼ることになる。今年の秋くらいには、再びタイ米とのブレンドライスを食べなければならないような事態すらあり得るのでは無いだろうか。東電は資金が底をついて公営化されるであろうから、福島を中心とした農家や漁師に保証を始めれば、それはつまり税金を使うという事になる。一体いくらかかるのだろうか?

一番深刻なのは電力供給であろう。何機もの原発が停まっているし、火力発電所の多くもやられている。3月は比較的電力需要が低い月ではあるが、東京を中心に、現時点でもかなり需給が逼迫している。7月から8月と電力需要は冷房の使用と共に上昇していくのだが、東京地域では恐ろしいほどの電力不足が発生するだろう。政府や閣僚も馬鹿では無いだろうと信じているので(頼みます!)、今後は色々な政策が出てくることと思う。東電主導で実施している不公平輪番停電は緊急策であり、すぐにマシな政策が出てくるに違いない(頼みます!)。サマータイムの実施、電気料金を上げて需要を抑制、土日の廃止による需要の平滑化、長期間の強制夏休みなど、考えられる事はあると思う。しかし、電力のうちの半分以上は産業用、特に製造業用であるのだ。つまり、関東に工場を持っている会社は終わり、という事になる。電力を食う、製鉄、金属、製紙パルプ、化学、材料。これらの製造業は関東では製造がおぼつかなくなる。夜間や土日に仕事をするなどしたとしても、電力が復活しない限り、かなりのダメージを受けるだろう。それらの産業がダメージを受ければ、サプライチェーンがダメージを受け、コーポレートジャパンはガタガタになる。どのくらいGDPが下がるのかは怖くて予想もしたくない。鉄道が混乱しているため、交通網全てが混乱し、首都圏のロジスティックにも影響が出ている。東京港や横浜港は機能不全に陥っている。そして、この状態は少なく見積もっても、秋口までは続くだろう。前々から言われていた東京一極集中リスクの脆弱性が露呈した格好となったのだ。私が企業の社長であれば、顕在化した東京リスクを認識して、会社機能の一部を大阪に移すと思う。製造拠点は、この際海外に移すことを真剣に考える(ただ、日本に残れば助成金がもらえる可能性があるので、それはしっかりと取りに行く)。もし、外資系の企業であれば、東京本社機能縮小、そしてSGかHKに機能をどんどん移す。電機の通っていない東京の世界競争力はいまや大阪以下なのである。政府がしなければいけないのは、東京圏の電力料金の値上げである。そして、西日本の電気代は据え置く。そうすれば、大阪、名古屋や福岡に出て行く企業の後押しも出来るし、首都圏の電気需要減にも貢献できる。

野球は電力使用ピーク時を外して夜の九時半から始めればいいだけの話だし、電力を抑える為に夜間などに営業している店を閉じる必要は無い。西日本で電気を消す必要もない。問題の本質は、最大アウトプットが制限されていることなので、そんな無駄な節電をしても何の足しにもならない。寧ろ非理論的な萎縮モードはGDPを押し下げるのでさせるべきではないのだ。要はピーク時を避けて、時間や曜日あたりの電力使用量を平滑化させるように努めなくてはならないのだ。ただ、残念なニュースは、社会主義民主党のリーダーシップで思い切った政策は出ず、東京がじりじりと貧乏になり、大阪や福岡の景気は萎縮モードで伸びず、日本全体が沈滞してしまうといったシナリオが一番起こりうるのだろうが。

最後に水。日本は地表水を飲んでいる。空気中の放射能濃度が上がれば、勿論水も汚染される。何度も言うが、科学的には問題は無い。最悪フィルターを通せば多くの放射線が落ちるのだろうか。ただあなたならどう思うか?沸かせばいいのか?フィルターを通して飲むのか?歯は磨けるのか?シャワーは浴びても問題はないのか?私は放射線学の授業を取ったこともあり、科学的な見地からこの程度では問題は無いと解っている(ただ、放射能については実証実験がきちんと行われていないし、不明な点が多すぎるし、放射性物質によって解答は変わってくる)。しかし今思う事は、東京にいなくて良かった。そういう事である(福島の回りに住んでいる方たち、申し訳ない)。

日本国が今後2-3年に経験する事は見えてきた。東京が極端に衰え、ハブ機能すら失う。慢性的な食糧不足により、外国からの輸入が増える。鉄、紙、金属、燃料などの輸入も増える。翻って、製造業は不振を極め、輸出量が減る。日本は貿易赤字国に転落する。東北を中心とした土建屋などが儲かるだろうが(ただ津波で流された街は残念だろうが無駄なので復活させないで欲しい)、首都圏の金融や知的産業は外国に逃げる。復興という名の下に、支出が緩む可能性もある。地震の直後にゴキブリさん達の活躍により円高に振れたが、中期的に日本には何の希望も無い。マーケットは地震明けに記録したロスを取り戻して小康状態になっているが、今後は徐々に深刻さがばれてくると思う。明るいニュースは、大阪が少しばかり元気を取り戻すことくらいだろうか?

3/01/2011

討論と喧嘩の違い。時代遅れの「人文学」という名の教養

「少し左巻き」であると自称する人に経済の討論をふっかけられたのだが、全く無意味な話を二時間ほどして、気分が悪くなった。家のソファーで寝転がってビールでも飲みながらリアリティーショーでも見ている方が余程時間を有意義に過ごせたと思う。経済の話ゆえに、経済効果を最大化させる事が社会の役割であるという前提の下で喋っていたのだが、相手の人はその前提を共有していなかった。それどころか、経済活動や競争そのもを否定しておられたように思う。「愛すべきマリナーズ」ファンの私が、「憎きレッドソックス」ファンの親友と、サミュエルアダムスを飲みながら野球論議で喧嘩に近いコミュニケーションを楽しんでいる訳ではないのだ。

私は「規範的な話」には乗りたくない。つまり「~するべき」論である。何故ならモラルは人によって違うので、その手の話は絶対に結論が出ないからだ。二人の人間が規範的な討論を始めれば「喧嘩」になる。「討論」とは一定のゴールに至る解決方法を探すために行われる行為であると考える。「喧嘩」とは自分の方が相手よりも優れていることを解らせる目的でなされる行為であると考える。討論だと思って始めたものが、規範的な話で帰結する喧嘩になると、相手との審美眼の距離を思い知らされて嫌な気持ちになるだけである。全く建設的でない。

主義主張やモラル感(宗教を含む)の軸で物事を測れば、意見の違いは決して収斂しない。何らかの客観的な軸で物事を測らない限り、事態の収束はあり得ない。太平洋戦争をどのように評価するか、などという議題に良く直面する。暇な大学生や専門の学者同士がするのならまだしも、60を越えた老人が必死にやっていたりする。或いは政治家が国会内でそういった議論の真似事をしたり、多国間の政治問題になっていたりさえする。やがては史実の解釈問題にさえなる。「史実」自体は直接は観察できないものであるが、既に「起こった」のだ。そして、起こった史実は絶対に変えられない。あなた達が何を思おうとも、起こった事実が変わる事はあり得ない。つまり、討論すること事態が無意味である。そんなものは討論しなければいいと思う。ごちゃごちゃ言う人がいれば窘めるくらいの大人の余裕が必要ではないか、と私は思う。或いは、簡単な問題であるから誰もが意見を持ちやすいだけなのかもしれない。別の例を持ち出すと、エジプトが民主主義になるべきか。答えが出るわけが無いし、私は喧嘩に加わる気すらない。逆に、エジプトの今の状態が私のETFやオイルの値段や世界の成長率にどのような影響を与えるのか?イスラエルがエジプトの反応に対してどのように対応すると利益を最大に出来るのか?それらの目的を持って話し合う事は、討論するに値すると思う。

私のここまでの主張を自分で読み返すと、私は単にヒューマニティーズ(以下、人文学系と訳す)を否定していることになる。人文学系の科目(文学、神学、法、哲学、歴史、演劇、芸術など)が大学で他の社会科学、自然科学、形式科学や応用科学などと共に存在していること自体が意味不明であると個人的に考えている。人文学系の科目は科学的な実証が不可能で、解析を専門とする学閥である。過去の文献を読み漁って、それに自分の思い込みを付け加えて、「パラダイムシフトが起こった」、などと大それた事を言った人間が勝つ分野だ。曖昧な観点からしか判断できないがために、常に権威的なヒエラルキーが存在する。人文学に没頭する人は解析だけに終始するべきだと思うのだが、下手に自分の高尚な考えを披露するが故に、真に取った一部の一般人が惑わされることになる。新しい理論などをつまみ聞くと、歴史は何も変わっていない癖に、人間性の考え方が変化した、などと言った考えに至ってしまうのだ。そこまで来たらカルトである。

近世以前の欧州の大学はヒューマニティーズしか無かった訳である。その枠組みの中からルネサンスが興り「科学」という物の考え方が出来上がった訳だ。そして、科学こそが人類におけるパラダイムシフトであったわけである。その時点で科学を生み出した人文学は陳腐化されたわけだ。一方、ヨーロッパ的な科学的知見を取り入れたとは言うものの、アジア諸国の教育には儒学で培われていた徒弟制が採用されているため、科学的な実証性を大切にしにくい環境があり、未だに理系・文系共に人文学的な要素を孕む空気が充満している。

人文学系の教員が教養課程で人文学の講義を学生に教えるのは意味があると思う。学校とは色々な知見を学ぶところであるからだ。ただ、科学を学ばずに人文学だけを学んだ人間を世に放つと、社会は機能しない。何故なら実証を積む訓練が出来ていない人のコミュニケーションは危険であるからだ。人間は社会で生きている為に、人との調和を図りながら問題解決を行う。その問題解決の過程で、実証主義を無視して、人文学的な思い込みで物を騙りだすと、複数の人の嗜好が異なっている場合においては、行きつく先は喧嘩しかなくなるわけである。日本人同士の会話において、科学的な知見を学ぶ機会が少ない人が多い為に、議論が成り立たち憎いのだと思う。

虚栄心を満たすためか人文学の学者がメディアに露出して、自分たちの世界観や規範的な理論を騙っていることがある。ほとんどが聞いていて無意味であると感じるのだが、ああいうのを真に受けて真剣にイデオロギー論争に与する一般の人達が出てくるのだろう。世界観などは信じるか信じないかの二者択一の世界なので、誰が何を言ったところで仕方ない。それを教養などと言う言葉で片付けているのだから、社会には無駄な負の外部性が生まれ続ける。

希望を言うと、人文学系の人は出しゃばらないで欲しい。結論の無い討論は避けて欲しい。討論を始める前には、ゴールをきちんと確認してから始めて欲しい。喧嘩をしたいのなら、居酒屋で暇な人を見つけてやっていて欲しい。科学的知見がない人は法律の制定に関わらないで欲しい。寧ろ、科学的知見がない人(法学部出に多い)は政治をしないで欲しい。社会が科学的知見に基づいてもっと建設的になればいいと思う。

ビールを飲みながら、好みのチームのどちらが優れているのかを主張しあうのは喧嘩。共通の前提の下に、問題解決を図るのが討論である。菅総理が、「国会は議論の場に」という主張をしたが、「国会を討論の場」にして欲しいと願う。