4/24/2015

GSスティーブン・カリーは本物

今年のMVPはスティーブン・カリーだと思うのだが、GSの攻撃力は素晴らしい。

ニューオーリンズ・ペリカンズとの第三戦、眉毛つながりのアンソニー・デービスとライアン・アンダーソンの活躍で、第三クオーターの終わりには20点差とした。一位とは言え、ゴールデンステート・ウォーリアーズも情けないなぁ、と思いながら、アイスホッケーのバンクーバーとカルガリーの試合を見ていた。

しかし、奇跡は起こった。GSがなんと同点に詰めたのだ。ショーンリビングストーンとバルボサが結構活躍して点数を詰めたのだが、最後はやっぱりカリーだった。3PTSを沈めて同点。GSがOTをモノにした。

ただ、グリズリーズはペリカンズほど簡単にいかないと思う。我がグリズリーズが、例えばトニー・アランをカリーに貼り付けてくれば、見ていて楽しいゲームになると思うのだ。ゴールデンステーツ対メンフィスのゲームに期待。

安倍首相の戦後70年談話について

こんなものを気にしている人は、右の人と、左の人と、戦争を体験した老人だけで、普通の日本人の感覚としては、どうでも良い事です。私が安倍首相を気に入らない理由は、このようなどうでも良い昔の事で、意見が右と左に分裂して、どうでもよい議論が起こるという事です。

現在の日本には、歴史認識問題以上に大事な事が五万とあります。そういう事を優先するほうがよほど建設的だと思うのです。

戦後歴史認識に関しては、個人的には色々といいたい事があります。しかし、事実に則って喋ろうと、戦勝国よりに彎曲して喋ろうと、やや自虐的に喋ろうと、自己肯定的に喋ろうと、何をしてもどこかから文句を言われます。何をしても文句を言われる事に時間を割くことは、阿呆がすることです。

聞く人の立場になって喋れとか言いますが、聞く人が普通の人だけではなく、政治かぶれしたモンスタークレーマーや、日本をスケープゴートに使わなければ政権運営も危うい国の政治家たちです。そんな連中に合わせて無駄な時間を割く必要はないと思うのです。

村山さんは、たぶん本当に善意であのような談話を出したのだと思うのです。で、優しさが転じて政局化されました。よって、私の意見としては、戦後談話など出すべきではない、そして本国の軍人・民間人及び外国人の戦争犠牲者に敬意をあらわすだけで良いと思うのです。どういう意見があろうとも、歴史認識などは学者に任せて、政治家は喋らない事こそが国益だと思うのです。

4/15/2015

政府はアホな事ばかりする物

私は、「政府など邪魔だ」と頑なに信じている。政府の判断力は、民間や個人の判断よりも良いとは言えないし、小回りが効かない。よって、政府が経済に介入するべきではない、と思っている。よって、補助金や規制などは全て撤廃するべきだと信じている。政府の役割は、必要最低限のルールブック作りと、警察・軍事だけでよいと思う。

で、いまさらになってアベノミクスが失敗だなんだと言っている人がいる。アベノミクスは失敗していない。言った通りの事をしているので、失敗も糞もない。黒田さんにも、言った通りの事をさせている。安倍首相を国民が選挙で選び、安倍首相が黒田さんと一緒に言ったとおりの事をしたのだから、文句を言うのは間違いである。

それでも「人々の暮らしが良くなっていないではないか!」などという人がいるが、そういう人はお寺や神社にでも行って神様相手に願掛けをしておけばよい。そもそも政府に景気を良くする処方箋などあるわけがないのだ。政府の役目が人々の暮らし向きを良くする事だと思っているようなメデタイ考え方をしている人が多いのだから、この世界は楽しい。

政府ができる事といえば、市場を乱す事だけである。アベノミクスは、金融緩和やそれに帰結する円安で、まさに世界市場を乱した。アベノミクスはまだまだ続く。もっともっと市場を乱してくれるのだ。その波にうまく乗り、その向こう側にあるキャタストロフィーから上手く身を守りさえすれば、一方向に動く市場というものは確実に儲かるのだ。

政府に期待したり、文句を言ったりする暇はない。馬鹿な政府のインチキ政策を見越した上で、うまく波に乗る。こういうところにしか、濡れ手に粟の好機は存在しない。政府が馬鹿であればあるほど、賢い人がもうかる仕組みになっているのだ。

私は無駄な政府がしょうもない事をするのを、非常に腹立たしく思う。政府が邪魔をしなければ、多くの一般人が不必要な痛手を強いられずに済むからだ。しかし、逆に政府がアホであればアホであるほど、色々な美味しいケーキを落としてくれる。もちろん、それらが一般市民の痛手の上にあるという事は解っているのだが、自分がそのケーキを食べなければ、他の糞野郎がそれを食べるだけなのだから、私は積極的にケーキを食べに行きます。

4/07/2015

マスメディアが中立公平であるなど、不可能

マスコミについて意見をする人が大勢いる。いつも驚くのが、「マスメディアは中立であれ」という前提に立って議論している文化人の多いことだ。中立公正な立場など、建前であり、絶対に実現不可能である。

世の中には多くの人間が住んでおり、多くの意見が存在する。違う意見や価値観を持つ人の視線で物事を見ると、同じ現象であっても違いが出るのは当然の事である。

左右の話しをすると、いつも訳が解らなくなるが、左の人が見る風景と、右の人が見る風景は、同じものを見ようとも、違っていて当然なのだ。

公正であるべきであるからこそ、朝日は基本的にはリベラルな番組構成をするだとか、読売は保守的な番組構成をするとか、そういった情報の開示が必要になってくる。そういうレンズを通して物事を観察していますよ、という事を何らかの形でわからせる必要がある。で、ほとんどの日本人はそれを理解していると思う。

朝日の番組を見て左翼的だから気に入らんとか、産経のニュースを見て保守的すぎて気持ち悪いとか、面白いことを言う人がいるが、嫌なら見なければ良いだけの話しである。NHKは公共放送だから中立でなければならない、とか言う人がいるが、それならば中立を定義しろ、と言いたい。嫌なら見るな、と。

同質性に安心感を求める日本人には特に多いのだが、物事に絶対の真実があると考えている人が大勢いる。そして「中立公正」という幻想を見るのだろう。私にとって、マスメディアの報道は、「馬鹿」か「まとも」、そして「好き」と「嫌い」の二次元に別れている。馬鹿で自分が好きじゃない報道に出くわせば、チャンネルを変えれば良いだけの話しである。

放送法自体がいかれていて、放送は「政治的に公平でなければならない」とある。そんな事は無理なのだから、放送法を変えるべきだと思うのだ。民主党よりや、自民党よりのニュース番組がある方が世の中はまともに機能する。小泉自民党を支持していたと思ったら、急に安倍自民党を一斉にこき下ろし、民主党を持ち上げ、手のひらを返して一斉に民主党をけなし、安倍を礼賛しておいて、次はアベノミクスは機能していない。こういう風に、全マスコミが同じような意見をいう状況のほうが完全にイカレている。中立というものが存在し、中立に立った意見を言うのが義務であれば、コメンテーターは必要なくなる。

虚偽報道やプロパガンダはいけない。だが、どこかの政党寄りの放送をして、何が悪いのだ?局の視聴率に響くだけの事だろうと思うのだ。

報道ステーションの報道内容が偏っていることくらい誰でも知っている。古舘が薄っぺらい人間で、一般常識的な知識がなく、感情を煽る事くらいしかできない事など、皆が知るところだ。それが嫌なら、見なければ良いのだ。報道ステーションに嫌悪感を抱きながら、その報道を真面目に見続けている人間こそが異常だと私は感じる。(アンチ巨人のように、冷やかしで報道ステーションを見ている暇な人はアリです。)