9/29/2008

海外で成功する日本人、失敗する日本人

米国の金融界がかなりきな臭くなってきた。ヘリコプターからお金をばら撒いて金融パニックを起こさないようにするはずのバーナンキ博士の目論見が、民主党を中心とする政治屋の思惑で潰れかけそうになっている。昨年の夏以降書き続けている事ではあるが、金融界の外にさえも悪材料が拡がり始めている。グローバルレベルでデフレプレッシャーがかかりだすと、かなり不味い事になって来る。ポールソンのベイルアウトプランを早急に通すべきだ。

懐の心配をしたいところだが、マーケットのスペキュレーションが私の理解を超えだし、モメンタムさえも掴めない。ボラティリティーが高すぎるこの状況は、現金保有の静観が正解だ。

さて前回のコラムで、城島氏がマリナーズの捕手としては使い物になっていない旨を示唆した。イチロー選手と城島氏は、共にマリナーズで活躍する日本人として一括りで語られているが、この二人を見ていて思う事がある。イチロー氏が海外で成功する典型的なタイプの日本人であるのに対して、城島氏は海外で失敗する典型的なタイプの日本人であるのではないのか、と思うのだ。

私も海外生活が長くなってきて、色々なタイプの日本人と付き合いをしてきた。しかし海外で成功している日本人には、たったひとつの共通性を見ることが出来る。それは「自然な適応力」である。ただそれだけなのだ。勿論、適応力にも色々な種類があるし、人によって生きている状況が全然違う物だ。だが、総じて適応力の高い日本人の多くが海外で成功を収めているし、楽しく時を過ごしている。逆に、自然な適応力が無い人は、適応しようと無理な努力をしたり、不満をぶちまけたり、傷のなめあいをしたり、病気になったり、荷物を纏めて日本に帰ったりする。

日本のメディアで触れる海外に住む日本人といえば、殆どがスポーツ選手であろう。鈴木一朗氏や中田英寿氏が成功した日本人として高い評価を得ている。その他にも、アカデミア、音楽、芸能、ビジネスなど、様々な場所で活躍する日本人も多い。逆に、芸能界にせよ、スポーツ界にせよ、成功しなかった日本人も山の数ほどいる。

成功しないタイプの人は、海外で妙な「サムライ魂」のようなものを掲げる。「日本人である」という事実を必要以上に意識し、日本人である自分が頑張ればどうにかなる、などと言った甘い考え方を口にする。それ故に、海外の人間や文化などを変に気にして、自分のやらなければならない以外の事に労力を注ぐ。スポーツにせよ、勉学にせよ、ビジネスにせよ、音楽にせよ、「成功」という形というのは決まっているものであり、その成功の形に持っていくために、その土俵内で頑張るのが当然だ。だが、妙な「サムライ魂」を持った人は、「日本人」としての足枷のようなものに縛られ、無理やり「日本人」を演じようとする。成功の形にまで、「日本人」としての独自性を反映させようとする。それは完全な間違いだ。第一、殆どの人は百姓か町人の子孫であるにも関わらず、海外に来たら「侍」になるのも非常に可笑しな話である。

独自性とは個人由来のものであり、個人の独自性は育った環境に由来することが多い。勿論、日本人の多くが日本で育ったわけであり、独自性に日本的な要素が見え隠れする事は当然である。しかし、個人の独自性の中に、他者が客観的に見出すものこそが、日本人のアイデンティティである。日本人のアイデンティティというものは、個人が無理やり作り出す類のものでは決して無い。アイデンティティはあくまでも発見するものであるのだ。

イチローや中田や中村俊介は個性的ではあるが、無理矢理「日本人」を演じているようには思えない。彼らは現地のやり方に適応し、その中で結果を残す事だけに、たゆまぬ努力をしている(していた)。イチローや中田は日本人であり、一流のプレーの中に、我々は彼らの日本的な物を見ることが出来る。それは至極客観的な物なのだ。蛇足であるが、もしかすると、IQが高い人達は意外と簡単に何にでも「適応」できるのかも知れない。

城島氏が繰り返す「日本の野球を遂行する」という考え方は完全なる愚か者の意見だ。イチローが良く言う。アメリカの野球が一番だと考えている馬鹿が多くいる、と。城島氏の言っていることは、イチローが馬鹿にしているアメリカ野球にどっぷりと浸かっている選手たちと、どう違いがあろうか?ナショナリティを間違って主張する人は、やがて疲れ、矛盾を感じ、祖国に戻る。どこの国の出身であろうと、そういったタイプにはなりたくない。一流は、そんな負け犬の理論に固執せず、自分の仕事を全うするものだ。

特に海外で生活をしたことが無い人に、「日本人として海外に住むと大変でしょ」などと同意を求められる事が多々ある。それは半分当たっているし、半分間違っている。真実は、日本人が海外で生活すると得をするのだ。多くの場合で優しくして貰える。しかし、その国の人達との本気の競争になると、見えない壁が出てきて、「調整」を余儀なくされる。城島氏やイチロー氏を報じる日本の報道を読んでいて、上記に述べた理由で、いらいらさせられる事がとても多い。

第一、国境が昔ほどに意味を持つのだろうか?国境など、好き嫌い以外の何物でもないような気がするのだが。

9/28/2008

城島が自発的にダイエーホークスに帰ってくれることを期待して

私はローマという街とそこに住む人々に嫌悪感を抱いて仕方ない。大都会パリにぶらっと遊びに行って帰って来ると、ますますその兆候が酷くなった。そして、そろそろ、どんなに天気が悪かろうと、シアトルが恋しくなってきた。

しかしながら、シアトルに2008年の秋にいなくて良かったと思える理由が二つある。一つ目は、スーパーソニックスをオクラホマシティーに奪われてしまった今季の開幕時期に街にいる必要が無かった事。そしてもう一つは、100敗以上と低迷する我がマリナーズを見ずに済んでいる事だ。本日は2009年のマリナーズに向けて、苦言を少々言わせてもらう。

シアトルタイムズに、イチローが多くのチームメイトに嫌われており、暴行計画まで画されていた、というショッキングな記事が載った。イチローの態度の悪さ、というよりも、社交性のなさは今に始まった事ではない。多くのチームメイトやメディア関係者に嫌われているのは当然といえば当然だろう。スポーツをしたことが無い私なら、どんなにイチローが良い選手であれ、できればイチローとは一緒の職場では仕事したくない。しかし、プロの世界で社交性の無さ故に暴力を加えるなどというような考え方は、リグルマン監督が言う所の中学一年生のメンタリティーだ。まあ、Goeff Bakerも地方紙のスポーツ記者からの出世を画策して、色々と面白おかしい記事を供給する必要があるのだろう。

しかしながら、ベーカー記者はマリナーズ番として色々興味深い指摘をしており、日本のメディアでは取り上げられないマリナーズが直面する大きな問題についても深く追求している。

以前このブログでも書いたが、マリナーズの一番の問題はフロントとGMバベシの戦略無きチーム作りであった。そもそも、オーナーである任天堂の山内がスポーツとしての野球に興味がないので、このチームに明確な指針は無い。GMバベシは2008年のシーズン中盤にクビを飛ばされたが、フロントは任天堂出身のハワード・リンカーン及びチャック・アームストロングと変わる事はない。

だが、戦略や経営指針の無さの話は、一昼夜にして解決できない。ただ、直ぐにでも解決できる処方箋もある。つまり、チームメンバーの一新だ。フロントの責任ではあるが、明らかに力が劣る選手に対して長期契約の多額の賃金を支払っていたのは問題だった。セクソン、バティスタ、シルバ。枚挙に暇が無い。

しかし、根本的な問題としてベーカー記者が指摘しているように、キャッチャー城島健司の問題はマリナーズのネックとなっているようだ。城島にマリナーズの捕手をさせる限り、チームに将来は無い。私は個人としての城島という男が好きだ。シアトルの日本人コミュニティの中でもすこぶる評判は良いし、城島と付き合いがある人達も城島の男らしさを買っている。だが、チームに城島が必要かどうかは全くの別問題である。

城島の適応力の無さにはがっかりした。当初は日本的なやり方を大リーグに浸透させる、と日本のメディアで紹介されていたので、私は非常に期待を持って観ていた。しかし城島は自分の「独創的な」やり方を固執する余りに、先発投手を中心に総スカンを喰らっている。現に城島がミットを構えるときの投手のスタッツを見て貰えば良い。いかに城島がキャッチャーとして問題があるかが解る。守備率や盗塁の阻止率で城島の守備力スタッツは光っている様に見えるが、キャッチャーとして味方投手を助ける能力こそがキャッチャーの守備能力であり、残念ながら城島のキャッチャーとしての能力は著しく欠如していると言わざるを得ない

日本メディアでは言葉の差などで苦悩している城島の姿を美化しているようである。あたかも、マリナーズの投手陣のERAが低い原因が、投手が城島の指示に対してわがままを言っているから、のような偏った報道さえ目にする。酷い物では、日本人であるが故に差別的な対応を取られている、とさえ書かれている。しかし、私に言わせてもらうと、城島は日本人であるからという理由だけで逆に優遇されている。しかも、日本での経験を積んでおり、給料や契約面でも破格であるが故に、コーチやチームメイトからも一目置かれている。しかし実態は、城島はキャッチャーとして失格の烙印を押されてた融通の利かない選手である。

確かに、マリナーズの投手陣には能力的に劣る人間も多数混じっている。が、マリナーズを解雇された後、他チームで格好をつける投手が多いのも事実だ。城島相手に投げる多くの投手が、自己の本来のERAを下回っている。モイヤー、ワッシュバーン、ベダード、シルバ。城島に駄目押しをする投手は多い。勿論、若手を中心に城島との相性が良い選手がいる事も事実だ。城島の不必要に散らす指示は、若手ピッチャーの教育目的には意外と良い可能性もある。だが、城島のリードは球数を減らさなければいけない先発ピッチャーにとっては納得がいかない。それは日米文化の違い云々の問題ではない。郷に入れば郷に従って、結果を残してこそプロなのだ。日本のオールスターとしてMLBにやって来て、マスメディアにもかわいがられ、大きく勘違いしているだけだと考えられる。「 チームメイトが本来の働きをしていない」、などと他人に責任を擦り付けるような発言も目立つが、先発投手陣に本来の働きをさせていない諸悪の根源は城島である可能性が極めて高い。

城島はシーズン途中に山内の方針で3年契約をした。だが、マリナーズファンの私としては、城島にはキャッチャーとしてチームに残って欲しくない。クレメントを正捕手にするのは勿論、控えとしてでさえもベテランのジャーミー・バークと再契約して欲しい。百歩譲って、日本のメディアが指摘するように日米の違いに慣れていないが故に結果を残せていないとするならば、城島がタコマに行くのが筋だし、ウインターリーグに参加して、一軍のキャッチャーとして活躍できるレベルになってから帰って来るべきだ。恐らくそれは、プライドが許さないであろうから、あり得無いだろう。

キャッチャー以外のポジションであの打撃内容(四球が少なく、ダブルプレーが多い)では年棒に全く見合わないが、オルタナティブがいない状態であれば、一軍でDHや一塁を守らせてもいいかも知れない。ただ、それも、打撃コーチとしっかり相談してオフシーズン中の調整が必要になる。だが理想は、潔く自らダイエーホークスに帰って欲しい。

城島さえいなければ、来期はローランド-スミス、モロー、フェルナンデス、そして怪我から復帰できるであろうベダードで先発陣がしっかりする筈だ。打撃の上手いリーダーシップのあるベテランを一人入れて、どうにかイバニエスを保留させ、不動の一番バッターイチローを中心に、徹底的に繋げる野球を目指せばマリナーズが浮上する可能性も出てくるだろう。しかし、何よりも守備の要であるキャッチャーをどうにかしなければマリナーズの再建は難しい。

9/09/2008

汚い罵り言葉のボキャブラリーが乏しい日本の同世代

外国生活も長くなり、外国人との交流での新鮮さを長い間忘れていたのだが、ローマで外国人同士で酒を飲む機会が多く、英会話学校に通っていたときのような新鮮さを覚えたので、このコラムを書く。

酒を飲んで酔っ払ってきた時、外国出身者同士の話題として持ち上がるのが、自分の国の汚い言葉についてである。私は世界各国の汚い罵り言葉をずいぶん教えてもらった。性的な表現、神を冒涜する言葉、特定の外国人を罵る言葉。世界各国、直訳するとかなり汚らしい言葉を日常的に使っているものだと感心する。相手は私に教えた見返りとして、日本語の汚い言葉を私から教えてもらう事を期待するのだが、この時点で私は非常に困ってしまう。

殆どの外国人は、日本人との交流を既に持っており、私に自分たちの知る汚い言葉を疲労する。その殆どが、「あほ」や「ばか」、或いは「くそ」である。しかし、これらは汚い言葉でもなんでもない。英語にすると、StupidやShitでは、酒を飲んでいる時にお互いに交換するほど汚くもなんともない。私は、そのような何の変哲もない言葉を、何も知らない外国人に汚い罵り言葉であるとして教えたそれらの日本人のセンスや価値観を卑下してやまない。

「糞喰らえ」や「阿婆擦れ」などといった言葉も考えられよう。Eat shitそしてBitchに相当する言葉であり、第一弾の罵り言葉としては有効だろうが、文学作品や漫画では目にする事が多いものの日本人が侮蔑の言葉として日常茶飯事に使っているとは思えない。また、とてつもなくひどい言葉を教えてもらっているので、対等な程汚い言葉だとも思えない。女性器を指す言葉を教えてもいいのだろうが、それは方言バラエティーがあまりにも多く、性的な表現ではあるが卑下の表現としては一般化されているとも思えず、断念する。

私の友人の多くも、このような経験を持っている。友人たちの結論は、日本社会が紳士的であるため、そのような言葉が育まれなかったというものだ。しかし、私は全面的に肯定できない。何故なら、幼少の頃、近所の年寄りたちは私たちが使わなくなったような表現を悪ぶれる事もなく使っていたからだ。日本人が紳士的だというだけでなく、何らかの理由で言葉狩りが横行しており、近代世界から汚らしい罵りの表現が抹殺されていったものだと考える。いわゆる「差別用語」である。

そういった言葉狩りへの皮肉も込めて、私は汚い罵り言葉として「気違い」という表現を外国人に教える事にしている。これは短く、外国人にも覚えやすい。しかも、英語に直すと、ただのCrazyという非常に一般的な言葉である。昔は「気違い」などという表現は、差別用語でも何でもなく、ただのアホや馬鹿と同程度の言葉であった。しかし、精神病患者を「気違い」と俗称で呼ぶ事もあり、「気違い」はメディアから葬り去られる言葉となった。精神病患者を「神経病み」などという言葉で喩えて、侮蔑するのなら問題だろうが、「気違い」自体が特に精神病患者を指定したものではない。風変わりな人間や、常軌を逸脱した人を表現するのにもっとも的確な言葉だ。私が小学生だった90年代の前半には、国語の参考書では「気違いに刃物」という表現は健在であった。だが、この言葉は使ってはならない差別用語と化してしまったのだ。コンピュータの日本語入力IMEにおいても、ハクチやトサツ、シナなどと共に、キチガイは変換できない言葉として扱われている。修正主義としか思えない、これらの言葉狩りには断固として反対する。

私が「気違い」などと言う言葉を外国人に教えたとして、何度か他の日本人に糾弾された事がある。どんな場合であれ、差別的な表現を外国人に教えるのはどうか、という事である。しかし皮肉な事に、そのように差別用語にセンシティブな日本人ほど、権威主義や優越主義に支配されており、差別用語を用いない差別をする傾向がある。特定の外国人や低所得者、或いは自分より学歴の低いものを、差別表現を使うことなく意図的に貶めたりする。本当の差別主義者は、差別用語など使うことなく差別をするのだ。言葉狩りではそのような連中までをも修正することは出来ない。故に差別用語などといった言葉狩りをする必要性は全くない。差別的なコンテンツはあれども、一語一語はただの言葉であり、差別「用語」などというものが差別されてはならない。気違いじみた修正主義が一掃され、自由闊達に言葉が使える事を真に望む。叶わぬ事は承知しているが、差別用語を糾弾するような真の差別者がいなくなれば良いと切に望む。そして、ドイツでスイスでイタリアで韓国で、私の教えた「気違い」という言葉が日本の侮蔑の言葉として皆の記憶に残ってもらえれば、それは私のささやかな言葉狩りに対する反抗になろう。


しかし、Crazyという英語の文面をプロが日本語に翻訳する際、「気違い」という語を使わずに一体どのように翻訳しているのだろうか?「He is crazy!」は「彼は常軌を逸脱している」か「あいつはキチガイ!」のどちらが良い日本語か?「I am crazy about fishing!」は「私は狂おしいほど釣りに夢中です」か「俺は釣りキチ。」のどちらがより良い訳語であるか?読者に私の言わんとしていることがきっちりと伝わればよい。

9/08/2008

国の借金の話をするな!

一般の人達と国の経済対策について喋っていると、違和感を覚える事が多い。というのも、多くの人達が、日本は過度の借金漬けであり夕張市のごとく破産するのではないのか、という意見を持っている。輪転機を回せば紙幣などいくらでも発行できるので、理論上国が破綻する事はない。しかしながら、輪転機をフル回転させるような事態になると、円が相対的に安くなり、強烈なインフレのプレッシャーが生まれる事になる。だが、日銀や財務省が節度のある政策を執り続ける限り、ハイパーインフレに陥る事はまずないだろう。マクロ経済の観点からすると、デフレよりもインフレの方が健全なので、ある程度のインフレは歓迎するべきである。

プライマリーバランスが黒字化したほうがいいのか?と問われれば、そんな簡単な話ではない。もしロシアのように大きく黒字化すると、それはそれで問題になる。現時点では、日本が近い将来にそのような問題に直面する可能性が低いので、こんな事を討論しても意味がない。ただ、財政赤字が急激に大きく膨れ上がる事態は、「日本売り」の投機的なシグナルを発してしまい、日本の資産や円が投資家に売りたたかれる事態が起こりうる。多くの人は、このような事態を心配しているのではないか?

結論からいうと、プライマリーバランスの問題は、大きく動かさなければ問題ない。税収が減れば、それ相応の予算を組めばいいわけだ。ただ税収が減っている状態は、現在のような不景気と直結する場合が多く、その時に増税の話をする事は全くのナンセンスである。増税は景気が良い時にするもので、不景気下で実行して投資や消費を滞らせると大変な事になる。それこそ、対処のしようがない事態に陥る可能性すらある。金融危機を引き起こしたくなければ、景気浮揚を待ってから増税するしか方法はない。

不景気下では、通常お金をばら撒くものである。消費を増やすと、短期的にGDPが膨らみ、その後の政策次第で、経済が過度に停滞するリスクを防げる場合がある。ただ日本国では、個人消費が完全に滞っているので、どのように消費を増やすようにばら撒くかが問題だ。ばら撒かれたお金が貯蓄に回されると、ばら撒く意味は全くない。公明党が以前イニシアティブをとって実施したギフト券も殆ど意味がなかった。もう一つの問題が利権団体の存在だ。予算を組んで、利権団体に無駄に吸われることなく、消費者にどのようにすればお金を回せるのか?この答えを持っている人は今すぐにでも執政者になって欲しい。

そんなわけで、日本に横たわる問題は、予算配分の柔軟さが殆どないということだ。つまり、予算を削減したくても削減できない。何故か?それは、以前のコラムにも書いたように、利権団体や黒い団体の影響下で、税金を蜜源とするとんでもない構造が出来上がってしまっているからだ。だから税金の収入が減っている時点では、そのような団体を排除して、予算を削減せざるを得ない。政治家にとってもっとも重要な事項は、予算を削るのが先か、利権団体を蹴散らすのが先か、という問題だ。それは、リーダーシップの問題である。いずれにせよ、相当の気概がなければ日本の首相は務まらない。喧嘩できない人には経済対策は不可能なのだ。

麻生氏はばら撒くといっている。恐らくそれは正しいが、上記の問題をクリアーした上でどのようにばら撒くのかを明確にする必要がある。予算をじゃぶじゃぶ使っても、お金が消費に回らなければ、中長期の景気浮揚はあり得ない。ケインジアンがいう机上の空論は、日本の権力構造上が原因であろうか、実証的に通用していない。与謝野氏が唱える増税は、現時点では口にもするべきではない。或いは与謝野氏はあて馬なのか?上げ潮派の言っている事は全くもって正しいが、どうやって「上げ」るのか?今は明らかに下がっている段階だ。

何れにせよ、我々は直接自民党総裁を選べないので、高見の見物しか仕方ない。ただ、個人として不確定要素が多すぎる。我々が自分たちの資産を守る見地から、インフレ下とデフレ下では異なった活動をしなければならず、政策がぶれる事で不確実性が生まれ、我々個人の未来を不透明にしている。このような状況下では投資しにくいし、安心して消費も行えない。

実はタイムフレームを除外すると、経済政策上、誰の言っている事も決して間違っていない。リーダーシップさえ発揮できる人が首相になれば、政策の枝葉末節は恐らく関係ない。そして、新しい総理大臣が不公平性の元凶である黒い癌を排除できるかどうかが全てであろう。癌を取り除かない限り日本に未来はない。どうせ誰がやっても同じの経済政策を議論するよりも、癌の取り除き方をしっかりと議論してもらいたい。ただ、このような事は、戦略上伏せておいたほうが賢明なのだろうが。

しかし、このような匿名のブログでさえも、気兼ねして癌の実態を事細かく描写する事が出来ない。日本が患っている病みは非常に深刻である。

9/06/2008

清和会政権が終わりを向かえ、ゴキブリたちが微笑む

福田首相が辞任した。既に福田政権はレイムダックと化していたので、社会に与える影響は極めて少ないのだろうが、内閣が何かの操り人形に過ぎないことが明確となって、日本国内に諦めにも似た雰囲気が蔓延してしまう。

私は小泉内閣を大きく評価している。勿論、個々の政策に対しての批判はある。しかし批判が全くおこらないような完全な内閣などありえない。個々の不完全な政策については、それを順次是正すれば良いだけの事だ。私が評価している理由は、小泉内閣が目指した方向性は完全に正しいし、堤に開けた穴は余りにも大きい、という事だ。最近では小泉政権が格差を拡げたなどといった罵詈雑言が罷り通っているが、この評価は余りにも針小棒大に過ぎる。

何故小泉政権が評価されるべきか?それは小泉氏が多くの守旧派を蹴散らしたからに他ならない。日本の政治がいかに利権団体に蝕まれているかは、国民の皆が知るところである。しかし、マスメディアに露出していることなど、氷山の一角に過ぎない。詳しくは書けないが、気心の知れた官僚の友人たちと酒を飲みながら聞く話から察すると、黒い利権団体の圧力は「恐ろしい」の一言に尽きる。政治家や政権担当者が、傀儡のごとくそれらの団体を代表して、飴や鞭を利用して政策に影響を与えているのだ。

逆に、官僚に対する批判はマスメディアで大きく紹介される。官僚は文句を言うこともほとんど無いので批判しやすい。法律を犯して大きくしくじらない限り損を被る事も無いので、官僚も黙っている。いくら恐ろしい圧力を受けていたとしても、それを黙って甘んじて受け入れている官僚の姿ほど情けないものは無い。しかしその後ろで糸を引いている連中の事を我々がメディア等を通して認識できるチャンは殆ど無い。

個人的に利権政治自体は問題としない。何故なら政治の目的は分配であり、政治家の仕事は誰にどれだけ分配するかを決めることに他ならないからだ。が、全体の国益を損なう利権団体は排除するべきだと思うし、政権が交代しないわが国において利権政治が行き着く果ては受け入れがたい現実だ。一部の暴力団まがいの利権組織が膨張する。膨張する過程で権力をつけ、政権工作に奔走する。膨張し権力をつけた利権団体は、民業を圧迫し、新規参入者を阻害し、競合の少なさにより消費者に負担を掛ける。利権は自民党が存続する限りある程度保障される事が前提なので、利権で貯めたお金が新たな価値を作り出すために使われることはほとんどない。お金は利権を守ることと、貯蓄することのみに使用される。権力のせいか、利権団体がマスメディアで大々的に扱われることも殆ど無い。

一般的な民主主義国家では、政権が変わる度に甘い汁を吸える利権団体も一掃されるため、ダイナミックな経済の流動が起こる事が多い。だが何故だかは解らないが、日本では政権交代自体が起きない。民主党と自民党の二大政党制になって、愈々政権交代が実施されるのではないのか?、という淡い期待がおきているとは言うものの、民主党自体が旧田中派の片割れのような状態で、もしや小沢は自民党のスパイではないのか?、などと懐疑的になる事すらある。二大政党だといっているが、イデオロギーや政策をわざと似せて、政策論争を有名無実化させ、民主党は政権交代を阻害しようとしているとしか思えない。いずれにしても、日本では政権交代が起こると不味いと考えている人達が巧みに政権交代を阻止しているのではないだろうか、と勘ぐらずにはいられない。自由民主党があるのに、自由党と民主党が存在したのがジョークで無いとすれば何だったのか?自民党と民主党との差は、津島派(経世会)と町村派(清和会)との差よりも短い。

小泉政権が満期終了し、待ってましたとばかりに、利権を追われた人達はマスメディアを利用して、利権構造を潰そうとした小泉政権に負のレッテルを張り、アンチテーゼとして利権構造を復権させようと東奔西走している。「小泉が作り出した格差社会」ほどの便利なレッテルはなかった。統計を見れば明らかなように、日本で格差は広がっていない。何故なら、例外を除いて、金持ちと呼ばれている人達の資産すらが目減りしているからだ。ただ、格差社会は、平均以下の生活を強いられる人達と、正規雇用で職をもつ中流階級に属する人達との間の格差があまりにも大きくクローズアップされている。しかし本質的な問題は、日本全体が相対的に貧しくなっている事にあり、日本の景気が良くなればいわゆる「格差問題」は解消する。格差社会のアンチテーゼは、民主党にも公明党にも共産党にも社民党にも、そして何よりも自民党内の利権の代弁者にとっても都合がいい言葉である。

長くだらだらと書いたが、新しい自民党総裁、そして日本の首相には、国の富を蝕む利権構造を支配する連中を一掃出来るような人にお願いしたい。

8/29/2008

グーグル・マップ・ストリートビュー

ついに日本でもグーグルマップのストリートビュー機能が加えられた。ただこの時点では、シアトルでストリートビューサービスは始められていない。アメリカ国内でストリートビューがカバーされていない都市はメンフィスとDCくらいなもので、シアトルが除外されているのはライバルのマイクロソフトに対抗する意図的なものを感じる。

さて、非常に面白いと思ったのは、日本国内ではプライバシーに関する議論が過剰に沸き起こっているからである。確かにストリートビューを一目見ると、新しい技術に対する恐怖感のような物が湧き上がるのは事実だ。実家を見た時は、妙に嬉しい気分となったと同時に、不慣れが齎す複雑な気分も交錯した。しかし、それがプライバシーと直結するかどうかは別の問題である。犯罪に利用されるかも知れない、などという議論は見当違いも甚だしい。

情報化社会が目指すものは、最終的には社会活動のコスト削減並びに新たな富の創造に他ならない。特に、効率化が齎す社会コストの削減は、私たちの生活を大変豊かにしている。例えば、私は海外にいながらにして、サンスポと夕刊フジの記事を毎日チェックできる。これは、15年前くらいにはあり得なかったことだ。その他にも、情報化が齎した恩恵はそこら中に溢れている。私は、図書館に行く必要が無く、オフィスのコンピュータで大抵のデータや論文を手に入れることが出来るし、自宅にいながら自分が株を買おうとしている会社の最新のデータを閲覧できる。商店に行く前に価格を調査できるし、実際に商品を自宅から購入することすら出来る。最新の音楽をレコード屋に行くことなくダウンロードする。さらにアメリカでは、役所の書類の申し込みや税金の申請などもほとんどインターネット上で完結する。

これらは、コンピュータやインターネットのおかげで急に降って沸いたような事柄ではない。今まではアナログで行われていて、時間や金銭を浪費していたタスクを、情報技術を使ってユーザーのために簡便化しただけに過ぎない事柄なのだ。つまり簡便化できるものは全て簡便化してしまおう、それこそが情報化の一つの目的であるのだ。つまり、お金と時間を書ければ手に入るものは、全てネット上で公開してしまおうという事こそ、情報化社会が目指す正しい方向性なのである。

そういう意味で、ストリートビューは完全に正しい。切符を買って電車に揺られるか、ガソリンを燃やして車を運転して、手間隙かけて現地に行けば見える風景を、ただインターネット上で公開したに過ぎないからだ。ぜんりん等の地図などにも、かなりの情報が公開されているが、それらは余り問題にならない。公のものであり、全ての人が閲覧できるものであるにも関わらず、である。ストリートビューの試みは完全な意味での簡便性で、実際に存在する物は全てネット上に組み立てるべきで、自宅からアクセスできるようにしてもらっただけなのだ。

防犯の点が気になる人もいるだろう。しかし計画周到な泥棒は、今までも実際に現地に行って視察していた訳で、ストリートビューが新たな犯罪を誘発するかどうかは疑問である。勿論ストリートビューによって、犯罪を働く者の利便性も増すかも知れない。しかし、逆に、警察などが努力して情報技術を駆使し、例えばなんらかの形でグーグルなどの企業からアクセスをされた記録を辿れるようなシステムを作れば、事後ではあるが犯罪検挙に役立つ可能性もある。被害にあった家の付近にアクセスを繰り返していた人間を特定すればいいからである。それは、現在の警察のアナログな聞き込み調査における検挙率を遥かに超える可能性もある。

グーグルマップの本当の強さは、余り日本のメディアでは触れられていないが、APIだ。Application Programming Interfaceを利用し、私たち個人や企業が、グーグルマップを自由に利用できる。この事で一気に実用性の可能性が広がるはずである。つまり、情報化社会が持つもうひとつの側面、価値の創造を齎す可能性があるのだ。価値の創造をグーグルは自ら行わず、他人に任せている。オープンソースであるが故に、皆がその可能性にチャレンジ出来るのだ。コストの削減は勿論のこと、価値の創造の可能性も見え隠れするグーグルマップストリートビューに、プライバシーなどの難癖をつけるのは、社会全体の成長に抗うという観点から、非常に不快な動きと言わざるを得ない。個人がどのような感想を持とうが、情報化社会が折れるわけはないし、下手な規制をかけて日本社会の競争力を削ぐ様な方向にだけは持っていって欲しくない。

ただストリートビューで関西地域を見ていると、一部の地域を意図的に避けたのか、あるいは後から削除を要請されたのか、大きなクラスター状の空白域が目立つ。理由も推して図るべく、あからさまである。大阪市内や京都近辺で特に顕著であるこのような不公平な措置は、理由がどうであれ今すぐに止めるべきだ。公平な全域のストリートビューの公開を切に希望する。

最後に、プライバシーなどとオブラートに包んだ表現で我々の知る権利を阻害し、規制を強化させ、効率性を落とす愚挙が罷り通っている。プライバシーの法律があろうと無かろうと、犯罪組織は跋扈しているし、現代社会に住む我々にプライバシーなど存在していない。金銭を払い、手間隙かければ誰もが情報にアクセスできる。規制強化の悪法は、犯罪組織の活動を助長し、政府や公組織のサボタージュを支援し、既存勢力の利権を確保するものに他ならない。守らなければいけないプライバシーが存在することは否定しない。ただ、必要の無い負担を民間にかけ、日本全体の競争力低下を招きかけないようなプライバシー重視の風潮は明らかに馬鹿げているし、プライバシー重視を唄う利権集団の主張になびく国民性をも危惧せざるを得ない。

8/23/2008

歪な街ローマに見え隠れする関西との共通点

関西地域が停滞して久しい事は何度もこのブログで書いている。関西地域には競争力が全く無い。というのも、関西全域が魅力が無い都市圏と化してしまったからだろう。大阪に本社機能を構えていた企業は挙って首都圏に移転してしまった。周りを見ていると優秀な人材から順に関西を離れていった。私もたまに大阪に里帰りするのだが、廃れ行く自分が育った土地を見ると、かなり鬱になってしまうのだ。私は関西の風土や文化が好きではあるが、正直言って関西に戻りたいとは到底思えない。

関西の地方自治体の政治を見ていると、様々な疑問が浮かび上がる。小学生が考えてもおかしな事に自治体は税金を注ぎ、努力をしている人間に対しては非常に冷たい政策を執っている。ごねた人間が得をする、正義のかけらもない社会を地方自治体は必死で作り出し、それを平等と呼ばせる。問題は確実に存在し、多くの人(少なくとも関西人)はそれを理解している。それらの問題に真摯に取り組み、企業活動や社会の効率化を図れば、関西はまだ捨てたものでは無いはずだ。しかしそれらの処々の問題は、「言ってはいけない」問題として取り扱われ、決して公に晒される事はない。タブーや禁断を21世紀の情報化社会でも必死に守ろうとし、そしてタブーがゆえに政治のサボタージュが起こる。はっきりと存在するものを「無い」と言い張り、その根本的な問題を無視し、表層のどうでも良い物だけをいじくる政治。勿論、何かを変えれば、そこにまた蟻は群がる。そして、努力した人たちはやる気をなくし、ますます地域全体がどす黒く染まる。存在しないはずのもを必死に残したい勢力が存在し、それら負の遺産とともに社会が真綿で首を締め付けるがごとく凋落していく様子。こんな街に誰が住みたいのだろうか?

私はこの夏をローマで過ごしている。ローマの日常を見ていると、私は関西のどす黒い禁断の社会構造と比較せずにはいれなくなってしまう。ローマで生活すると、否が應にもヨーロッパ社会の負の遺産である階級社会を垣間見てしまう。貧しい人と、知的階級がはっきりと二分しており、その間を自由に行き来することは出来ない。貧民の子供は貧民であることを約束されており、EU統合以降にイタリアに入ってきた移民の連中が貧民たちに混じる。アメリカの格差社会はアメリカンドリームと呼ばれる一発逆転が可能だが、それとは全く違う生まれたときに既に豊かさ決まっている階級社会。これはまるで関西に存在する、あの存在しないはずの階級社会のようだ。古い町並みや、遺跡群。そして、観光産業で生業を建てる街、ローマ。階級社会が足枷になり古都を蝕む。もしや、この街は京都そのものではないか?ただ住んでいる人々は、京都人ではなく、泉州人のように見えるのだが。

生活のにおいがする筈の無い観光の街に、泥臭い生活臭がこみ上げる。人々の稼ぎは少ないものの、物価は観光地の値段である。朝の地下鉄、北部の優秀な人達がスーツに身を包んで役所に出勤する横で、アコーディオンを弾きおひねりを乞う人がいる。ローマの若者たちはマナーの欠片もなく大声で地下鉄ではしゃいでいる。その風景に違和感を覚える観光客たちが眉を顰める。競合力の全く無い街、ローマ。

ピラミデから西に行くと、テスタッチョと呼ばれる地区がある。元々、屠殺場があった場所と聞き、関西出身の私は少し緊張して街を歩いた。市場の近くのトラットリア(安物レストラン)の外の席に腰を掛ける。ペンネアル・アッラビアータをプリモに、そしてトリッパ・アラ・ロマーナと呼ばれる、臓物の煮込みをセコンドで注文する。そのような歴史のある街では、やはり臓物のようなものが出てくるのは古今東西一緒なのか?赤ワインをがぶがぶ一人で飲む。待てど暮らせど注文した物は出てこない。既に小一時間が経過している。ローマで効率を叫んでも仕方ない。通りを行きかう人々を目に、一人でレストランに来たことを後悔する。夏といえども、夜風は肌寒い。空腹と寂しさに嫌な感じにアルコールが回る。

やがて、アッラビアータが出てきた。ペンネは上手く湯掻かれていた。そして、それにしても辛い。非常に出来のいい仕上げだった。乾燥させた単純なペペロンチーノだけの辛さではない。恐らくは熟成させたペペロンチーノを使って深い味わいを出しているのだろう。非常に出来の良い一品だ。

プリモに続きセコンドのトリッパがやって来た。牛の胃袋は柔らか過ぎず、硬すぎる事もなく、歯ごたえを残した最高の出来だ。トマトソースの味に、妙にコクが残る。このコクはチーズか?かと言って、しつこくも無い。トマトソースの酸味と、たまねぎや香草の匂いが、臓物特有の匂いを完全に消している。これだけで十分に満足できる仕上げだった。

しかし、会計で30ユーロは高すぎる。だが、これがローマでは水準だ。隣席の人達は私よりも豪華な物を食べながら、私の半額も払っていないことも気になる。人々が歪な形で助け合い、価格を歪める。非効率と、一部市民のたかり体質が歪さに拍車をかける。この国が何故にG8に入れてもらっているのかは理解に苦しむ。私は思う。いくら美味しくとも、一人で食べるくらいなら、レストランに行かずに、アパートで自分で作ったほうがマシだった、と。そして考える。ローマに生まれるくらいなら、まだ大阪に生まれたほうが良かったのかも知れない、と。

5/04/2008

ダライ・ラマ14世法王の公演を聞く

もっと早く書くべきだったかも知れないが、先日シアトルを訪問されていたダライ・ラマ14世の公演を聴きに行った。冗談ではあるが、ダライラマ14世ことテンジン・ギャツォがテロリストであるか、生き神であるかを確認しに行ったわけだ。


結論から言うと、非常に良かった。ダライラマ14世と会えば、多くの人が尊敬の念を抱くであろう、という事が解った。ダライラマ法王は80歳の高齢でありながら、冗談を愛し、機知の富んだ話をされる。私は、常日頃、冗談の上手さで相手の知性を測っている。大抵において、冗談が上手い人は非常に頭が良いものだ。このようなレンズで判断した所によると、ダライ・ラマ14世は、非常に頭が切れる人物であった。だが宗教家にありがちな、全てを知っているという態度を全くとらず、自分の専門外の事は解らないとはっきりとおっしゃった。知らないという事をはっきりと言う事は非常に難しいことだ。ダライラマ14世は、頭の切れと、謙虚さを兼ね備えた人物であるのだ。多くのアメリカの文化の端切れを齧った人のせいで勘違いされがちではあるが、謙虚さは日本だけではなく西洋でもはっきりと尊敬を持って受け入れられる物であるという事はここではっきりと記しておきたい。

ただ一つだけ悲しかったことがある。会場の外に、中国人学生(明らかに年上の連中も混じっていた)のグループが反ダライラマのデモを行っていたことだ。情報が閉ざされている中国国内でダライラマの事を悪く思うのは仕方ないのかもしれない。しかし、情報が溢れるアメリカに在住し、両方の立場から公平な情報に触れる機会を持つ中国人留学生がダライ・ラマに対して、反対のデモを行うというのは、理解に苦しむ。もう一つ理解に苦しむことがあった。中国人学生がダライラマに対して反対している映像は、中国人コミュニティーや共産党政府にとって非常にネガティブなものになるということだ。中国人が徒党を組んで、共産党政府が流布している信条を繰り返している光景は、多くの民主主義国家で生きている人間の目からすれば異様である以外の何物でもない。
恐らく中国共産党政府は、対外イメージ政策のことなど何も考えていないのだろう。共産党の一党支配が齎す幾千もの矛盾や不公平感の中で、どのように国内の人々を支配するかだけに興味があるとしか思えない。聖火リレーで、その都市に住む中国人を導入して歓迎行事をさせた映像を国内で流し、共産党政権の人気取りをする。それ以外に何も興味は無いのだろう。私は、いつの日か近い将来、中国共産党の縛りが解けた中国人の生徒達と、対等な立場で、タブーなく色々な事について討論できる日がやってくるものと信じている。ヤンキースファンとレッドソックスファンの怒鳴りあいのような状況は、球場とそのまわりの酒場だけにとどめておいて欲しいものだ。

ケンタッキーダービー、撃沈。

ケンタッキーダービーは、ご承知の通り、大外20番のビッグブラウンが、妙にゆったりとしたペースに功を奏してかなり強い勝ち方でゴールした。一番人気を得ていたので、バウンダリー産駒でケント・デザーモが騎乗したこの馬が勝つのも、しょうがないと言えば、しょうがないのだが、どうも合点がいかない。過去に3戦しかせず、ダービーをあっさり勝つなど、ヨーロッパの貧弱な競馬のようだ。東海岸で西海岸で中2週くらいのペースで、三冠が終われば故障しても何でもいい、といった酷使する競馬こそがアメリカの売りだったはずだ。今回のビッグブラウンの勝ちは潮流変化さえも感じさせる。

もう一つニュースは、2着のエイトベルズがゴール後に両前足を骨折して、予後不良になったことだ。牝馬で唯一の参戦で、2着を得た同馬は賛美に値する。先行で我慢して、埒沿いをしっかりと追い込んできた。ただ、ビッグブラウンの勝ちよりも、エイトベルズの悲劇のみがニュースで繰り返されるのは競馬ファンとしては不愉快だ。悲しくはあるが、競馬ではある程度予後不良が発生することは、仕方ないといえば仕方ない。このニュースをもって、チャーチルダウンズを全天候型のポリトラックにするとか、PETAが騎手を制裁するべきだなどと言うのは、あまりにも見苦しい討論だ。政治的な主張のために、競馬の歴史を変えるのはどうかと思う。が、ポリトラック導入の動きは、恐らく止められないだろう。そういう意味でも、今回のダービーはアメリカ競馬の変化の曲がり角にいるような気がしてならないのだ。

今回のダービーを観戦して、私の脳裏を掠めたのは、サニーブライアンがあっさりと二冠を取った時の光景だ。ゆったりしたペースを作り出し、人気の追い込み馬が不発で、皐月賞を勝った。ダービーではサイレンススズカの上村が控えて、またしてもゆったりとした流れになり、二冠をとった。クリスザブレイブがいたなら、或いはサイレンススズカが飛ばしていれば、サニーブライアンの活躍はどうなっていただろうか?今回も、ウォーパスが元気で殺人ペースで飛ばしていればなあ、と思ったのは私だけだろうか?

何事も無ければ、プリークネスはあっさりビッグブラウンが勝つだろうし、使い込まれていない強みで、以外にあっさり三冠をとる可能性もかなり高い。そもそも、他の馬が弱すぎる。カジノドライブに、ベルモントSで嫌がらせのように、ぶっ飛ばしてくれることを期待する。ビッグブラウンは良い馬だろうが、三冠に値するようなレベルではないと思っている。

5/02/2008

Kentucky Derby 2008

まったくブログを更新することなく、またもや五月の一週目がやって来た。今年のシアトルの春は酷く寒く、春が来た感じなどしない。ケンタッキーダービーがあるので、仕方なくここに予想する。

実力は別として大本命と目されていた二歳王者のウォーパスが故障。よって、大混戦が予想されている。しかし、よく見ると、三頭抜けた馬が存在する。カーネルジョン、パイロ、そしてビッグブラウンだ。ただ、それぞれ問題を抱えており、簡単にこの馬が勝つ、と断言しにくい状態である。そこで、一頭ずつ見ていくことにする。

カーネルジョンは、終いで物凄い脚を使う。過去の映像を見る限り、私はこの馬を買いたいと思う。しかし、問題がある。一度もダート競争を経験していないのだ。出走した過去の六レースが全てポリトラック。ポリトラックで使える鬼脚がダートでも通用するのか?ただ、稽古で5F57秒をつけているし、楽観できないでもない。鞍上のナカタニも、距離が長ければ不安材料でしかない。父はティズナウで、マンノウォー系の貴重な担い手。

パイロも同様に鬼脚を使う。届いてはいけない場所からやって来る。パイロの場合はカーネルジョンと正反対の問題がある。前走のトヨタブルーグラスステークスで初めてポリトラックを経験し、10着と撃沈した。出遅れて、内埒沿いを中断で折り合った後、三コーナー過ぎから、まるでやる気を無くした様に沈んでいった様は、どう判断していいのか解らない。父プルピットに母父がワイルドアゲインという本格的な血統だけに大舞台では大いに期待できるし、直線の長いチャーチルダウンズならなんとかなりそうな気もする。昨年のストリートセンスと比べるのもなんなのだが、まあ、前走度外視といっておこう。

ビッグブラウンは一番人気になるだろう。フロリダダービーで逃げて好時計で勝った。直線ではどんどん後続を引き離した姿は見事の一言だ。CNBCなどでは、ビッグブラウンが共同馬主であり、新しいビジネスプランであることなどが紹介されていたが、それは日本では日常の事なのだが。ただ、前走の価値時計は優秀とは言え、ガルフストリームパークは圧倒的な先行優位の競馬場。これが、2001年のモナーコスのように追い込んで勝っていれば価値はあろうが、逃げでフロリダダービー制覇は、私としてはあまり評価に値しない。父はバウンダリー、祖父ダンジグ、そして母父ヌレイエフ。上手く逃げれば強そうな血統だが、二戦の経験でダービーが勝てるほど甘くはないだろう。あのバーバロでさえ、六戦の経験を要している。大外というのもあまりに危険な臭いがする。直線は長く、時計は早いチャーチルダウンズ。デザーモもここ一番で信用に足りないジョッキーだ。

まさか、簡単にビッグブラウンを逃がせるほどケンタッキーダービーは甘くない。勝負足りえない馬が玉砕覚悟で前に行くに決まっている。かかり気味のビッグブラウンが先行集団を率いて自滅というのが、私の予想だ。そうなると、勿論、パイロとカーネルジョンの一騎打ち。この二頭のエグザクタで勝負。三着争いなら、ガイアゴ(父ギルデッドタイム)、母父サンデーサイレンスのテールオブエカティ、アドリアーノ(父APインディ)あたりで。ビッグブラウンは完全に無視。