私は長い間、人に物を教えている。学びたい人間に教える事は、とても楽しい。しかし、興味のない生徒に物を教えるほど馬鹿らしいことはない。要らないと言っているお客さんに押し売りをするようなものなのだ。学びたくない生徒にとっても時間の無駄だろうし、教壇に立つ先生側としても努力の無駄である。「親に行けといわれたから学校に行ってあげている」「給料を貰っているから教えなきゃ仕方がない」生徒と先生の本音の心境は、大学でさえこんなもんである。
アメリカの大学の授業でも、四分の一くらいは学位取得のためにいやいや学校に来て、効率よく単位を取りたいだけの生徒である。ただ半分くらいの生徒は積極的に学ぶ姿勢を見せてくれる。半分くらい反応の良い学ぶ気のある生徒が教室にいれば、授業は上手く成り立つし、教える側としても気分が良いものだ。
たまたまシアトルにやってきた日本の高校生を前に教える機会があった。日本語で話をしたので、語学の問題はなかった。20人ほどで、男女は半々だったのだが、びっくりするほどおとなしい子供たちだ。偏差値的に言って、馬鹿な生徒たちではない。態度は非常に良かった。が「お利口」さんというだけで、考える力がゼロなのだ。「何故こういう風になるのだろうか?」こういう「Why」クエスチョンを投げかけて指名してみる。すると、口をもごもごして答えられない。アメリカ人なら、ハッタリであったとしても、何かは答え、ほかの生徒がその意見に対してリスポンスする。
二時間の講義だったのだが、「暖簾に腕押し」といった感覚で、気分が沈んでしまった。私は、未来を背負う日本の生徒のために、「Out of Box Thinking」を少しでも誘発させてあげようと考え、色々なお話を用意した。結構時間をかけて用意した教材だったが、そもそも生徒側に興味がないので、食いついてくれなかったのだと思う。「You can lead a horse to water, but you can't make it drink」という諺がぴったり来ると思う。「馬を水場まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。」つまり、機会を与えてやることはできるがそれを活かすかどうかは本人次第だ、という意味である。
親がお金を払って、無理やり高校生をアメリカに二週間送っただけなのだろう。で、生徒は意味のないアメリカ旅行に連れて来られて、何故日本語で授業を受けなければいけないのか?とか考えながら、私の講義を聴いていたのだと思う。私はボランティア、つまり無償で授業を教えた。そして、むなしさだけが残ってしまった。
教育というものは、やる気のない人に物をやらさせるのは不可能である。「態度の悪い人間の素行を修正するプログラム」、「人々のやる気を誘発させるプログラム」、「反復練習によるスキルの獲得」、そして「考える力を身につける学び」。教育とは、大まかに考えてこの4パターンが存在する。この4パターンをごっちゃにすると、訳がわからなくなる。教育論を語るときには、そのあたりから考えなければならないだろう。
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10/27/2015
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