100人近い人間を殺した男を死刑に出来ない社会。その原因が砂漠で生まれた旧約聖書的な考え方をキリスト教に翻訳する際に、誤訳してしまったという冗談に根付いている可能性がある事を述べた。ヨーロッパ社会は基本的にキリスト教の殻の外で社会システムを構築することができない。しかしそういった事実を見ないで、ヨーロッパの法律や社会システムが日本を含めてアジアのそれよりも優れていると信じ込み、無防備に日本に輸入するべきだと唱える日本人が私のまわりにたくさんいて鬱陶しい。特に欧米諸国に修士課程で留学してきたような日本人が、新しい物の障りにだけ触れて自分が偉くなったような錯覚に陥り、そういった欧州優位論的な考え方を抱く場合が多いように見受けられる。地面の上で咲いた花だけを見てはならない。根はどこで水を吸っているのかという事を理解しなければ話にならない。
以前からこのブログ上で書いているように、いわゆる「文学系」の人達を私は小馬鹿にしている。ここでは話を簡略化するために、論理思考能力に少々問題がある人達を「文学系」という比喩で括ってしまう。あくまで「文学系」はメタファーであるという事に注意して読み続けて欲しい。別に、文学部や哲学科や教育部などで勉強している人、或いは勉強してきた人達を差別する為にこういった表現を使っているのではないという事は予め断っておく。数学や科学を勉強しているのに「文学系」である人も多く見られるが、平たく観察するといわゆる文系の学部にそういった人達が多いので、「文学系」という表現を使う。
昔テレビに出ていた自称「教育家」の人が言っていた馬鹿な話を思い出す。「何故人を殺してはいけないのか」という質問に対して、答えられない子供が大勢いる、と言うことで嘆いてみせたのだ。逆に、その質問に論理的に答えられる子供がいるなら連れて来て欲しい。その教育家の答えは「当たり前のことだから、当たり前だ」と言うものであった。答えられる、答えられない以前に、その人の解答は答えにすらなっていない。やれやれ。これだから「文学系」は…と私が思ってしまう所以である。
この問いに対して「自分勝手に他人を殺すことを認めると、安全な社会が成り立たないため、人を殺すのは良くないといったルールを予め設定した社会の方が全体的に効率が良い」、というのが私の解答である。しかしながらこの文脈には多くの縛りを忍ばせている。社会全体の効率性を追及するためには、自分勝手ではない範疇で人を殺すことも止むを得ないという暗示も含まれているのだ。つまり、犯罪者を撃ち殺したり、死刑に処したり、止むを得ない中絶や、止むを得ない戦争により人を殺す事は必要悪だ、とも読み取れるのだ。
バナナが一つしかない。そしてオスのお腹が空いたサルを二匹檻に入れる。サルは殺し合いをするだろう、という事だ。動物が先天的に資源が不足した場合に殺し合いを始める事を殆どの人が知っている。ザリガニを二匹籠の中に入れて、餌をあげなければ共食いを始める。それが自然の摂理であり、殺さないことが当たり前な訳ではない。
この教育者は教育と言う場において、生徒から考える力を取り除き、自分の主義主張で生徒を「洗脳」しようとしているとしか思えない。恐らく、この教育者は他人に殺されたくないし、他人が殺されるような安全でない社会を忌み嫌っているようだ。その自己のユートピア実現のために「ダメな物はダメ」という洗脳を子供達に施し、子供の思考を停止させる。或いは、教育とはそもそもがそういった類のものなのかもしれない。
「ダメな物はダメ」とした場合、私達は何らかの「共通項」を意識せざるを得ない事になる。その共通項とは、一般的には文化や宗教に基づくものである場合が多い。そういった物事の考え方のシードとなるような部位を個人個人がミクロな単位で無条件で受け入れて、その集合がマクロなコミュニティーの形に出来上がっていくのかも知れない。それを為政者や権力集団が利用し、一部の人達に強力な力を与えていく。そしてコミュニティーが纏めあげられ社会ができあがる。
ミクロレベルでの共通のシードが、生物学的なダーウィニズムで生き残る為に選別された先天的な何かなのか、砂漠で生まれたジュディズム・キリスト教的なものなのか、神の存在を無視する儒学思想的な哲学なのか、多様な自然の元で育まれた神道や道教のような自然崇拝なのか。そういった事で社会の形は変わる。それぞれの国にはそれぞれのミクロな、或いはマクロな文化がある。そういったものを無視して政策を立てると、碌な事が無いので注意して欲しい。北欧の猿真似をするなと言いたかっただけが、スケールのおかしな話題になって申し訳ない。
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