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7/28/2018

オウム事件の死刑囚は個人として裁かれたという基本

オウム事件で死刑囚たちに死刑が執行された。何とも言えない嫌な気分になった。テレビに出てくるコメンテーターたちの軽い意見を聞くと、さらに解せない気分になった。

日本の刑法は個人の責任を裁くものである。法律に則り、犯した罪に基づき、13人に死刑という日本の法律上もっとも重い刑が科された訳である。

個人がオウムというカルトに属していたかどうかと言う事については、事情を判断することはあれ、日本の法律的な枠組みでは直接的に関係のない事である。オウム信者は個人として結果に対して裁かれたと言う事を見逃してはならない。

テレビを見渡すと、刑を執行された弟子たちがオウム真理教に入信した経緯や、洗脳された過程、あるいは未だにオウムを信じる人たちがいることが報道され問題視されている。問題視するまでは良いのだが、国が対処するべきだったというようなコメンテーターがいるのには驚かされる。個人がどのような考え方を抱こうが、どのような宗教を信じようが、それを国が規制することは出来ない。

相模原障碍者施設で殺傷事件を起こした植松が裁判で「障碍者は社会のゴミ」というような発言をしているらしいが、植松がそのような考え方を抱くことは自由である。何を考えようが裁判所は刑法を基に個人を裁いているのであり、植松がどのような考え方を抱いていようが裁判には関係がない。

個人がどのような思考をもって犯罪を犯したのか。その思考回路が世間一般から乖離していればしているほど面白い。それをマスメディアが視聴率を稼ぐために面白おかしく報道し、最後は規範的な話に持っていこうとする。こういった姿勢が一般の人たちの心情を歪めているのではないか?

邪悪な考え方を持つな。邪悪な教団から距離を置け。邪悪かどうかなどという規範的な判断を客観的にすることは不可能だ。個人の考え方を国がコントロールすることは不可能だ。個人ではない団体としての責任や、抜け出す事の出来な団体に身を預けたときの個人の責任論など、オウムの事件においては議論が終わっていないことが多々ある。このような議論をする際には、国には個人の思考は強制できないし制御できないという、基本的な原則を忘れないで議論してほしいと思う。

10/27/2015

興味のない人に勉強させるのは時間の無駄

私は長い間、人に物を教えている。学びたい人間に教える事は、とても楽しい。しかし、興味のない生徒に物を教えるほど馬鹿らしいことはない。要らないと言っているお客さんに押し売りをするようなものなのだ。学びたくない生徒にとっても時間の無駄だろうし、教壇に立つ先生側としても努力の無駄である。「親に行けといわれたから学校に行ってあげている」「給料を貰っているから教えなきゃ仕方がない」生徒と先生の本音の心境は、大学でさえこんなもんである。

アメリカの大学の授業でも、四分の一くらいは学位取得のためにいやいや学校に来て、効率よく単位を取りたいだけの生徒である。ただ半分くらいの生徒は積極的に学ぶ姿勢を見せてくれる。半分くらい反応の良い学ぶ気のある生徒が教室にいれば、授業は上手く成り立つし、教える側としても気分が良いものだ。

たまたまシアトルにやってきた日本の高校生を前に教える機会があった。日本語で話をしたので、語学の問題はなかった。20人ほどで、男女は半々だったのだが、びっくりするほどおとなしい子供たちだ。偏差値的に言って、馬鹿な生徒たちではない。態度は非常に良かった。が「お利口」さんというだけで、考える力がゼロなのだ。「何故こういう風になるのだろうか?」こういう「Why」クエスチョンを投げかけて指名してみる。すると、口をもごもごして答えられない。アメリカ人なら、ハッタリであったとしても、何かは答え、ほかの生徒がその意見に対してリスポンスする。

二時間の講義だったのだが、「暖簾に腕押し」といった感覚で、気分が沈んでしまった。私は、未来を背負う日本の生徒のために、「Out of Box Thinking」を少しでも誘発させてあげようと考え、色々なお話を用意した。結構時間をかけて用意した教材だったが、そもそも生徒側に興味がないので、食いついてくれなかったのだと思う。「You can lead a horse to water, but you can't make it drink」という諺がぴったり来ると思う。「馬を水場まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。」つまり、機会を与えてやることはできるがそれを活かすかどうかは本人次第だ、という意味である。

親がお金を払って、無理やり高校生をアメリカに二週間送っただけなのだろう。で、生徒は意味のないアメリカ旅行に連れて来られて、何故日本語で授業を受けなければいけないのか?とか考えながら、私の講義を聴いていたのだと思う。私はボランティア、つまり無償で授業を教えた。そして、むなしさだけが残ってしまった。

教育というものは、やる気のない人に物をやらさせるのは不可能である。「態度の悪い人間の素行を修正するプログラム」、「人々のやる気を誘発させるプログラム」、「反復練習によるスキルの獲得」、そして「考える力を身につける学び」。教育とは、大まかに考えてこの4パターンが存在する。この4パターンをごっちゃにすると、訳がわからなくなる。教育論を語るときには、そのあたりから考えなければならないだろう。

5/13/2014

科学者を目指したり、PhDを取得してはいけない

あなたは科学者になって、世界がどのように機能するか、或いは世紀の大発見をしたいと思いませんか?博士になって、皆から尊敬を集めたくはありませんか?私が若い高校生や大学生に言えることは、「やめておきなさい」という事だ。 

科学というのは楽しい仕事であるし、新しい発見は胸躍る物である。もし、あなたが頭脳明晰で勤勉であれば、理系や経済系の大学に行くべきである。しかし、そこで終わらせなければいけない。卒業後は普通の社会に進む必要がある。つまり、科学系の大学院に進学してはならない。プロフェッショナル系の大学院、つまりMBAやロースクール、メディカルスクールやコンピューター関係の大学院なら、進学しても問題は無いだろう。 

昔は「末は博士か大臣か?」などと言われる事もあるほど、博士という地位は名誉や権威を表すものであった。しかし時代は変わった。日本であれ、アメリカであれ、欧州であれ、アジア諸国であれ、博士など掃いて捨てるほどいるのである。そして、供給が完全に需要を上回っている。大学教職員の席はそれほど増えていないにもかかわらず、博士号取得者は指数関数的(大袈裟です)に増えているのだ。 

それは日本の事で、アメリカでは博士号というものに未だに価値があるのではないか?私の周りには、そう信じたい人も大勢いる。残念ながら、アメリカでも博士号取得者はあぶれており、仕事探しに四苦八苦している。今から書くことはアメリカの話しである。日本はアメリカの後追いをしているので、アメリカの話は日本の読者にも十分に参考になるだろう。 

アメリカでも、大学の教員の募集人数は博士号取得者数の数と比べて圧倒的に少ないので、仕事を手に入れるプロセスが年々厳しくなっている。二流大学のテニュアーがついていない助教授レベルの仕事ですら、最低20本の論文、大きなグラントの一つや二つは要求されるだろう。つまり、博士号を取得してから最低5-6年はポスドクとして過ごさない事には、大学教職員のインタビューにたどり着く事すらままならないというのが実情だ。

仕事を手に入れる事が難しくなっていくに従い、要求される専門分野や統計手法の知識や技術が高くなってくる。すると、博士号取得までの年数が伸びてしまう。博士号取得までに8-10年ほどかかる人たちも大勢いる。 とすると、大学を卒業した後、修士号で2年、博士号取得まで8年とポスドクを5年したとして15年の年月を要する。その間、貧乏生活を余儀なくされ、不安定な環境に身を置く必要がある。それだけ時間をかけても仕事を手に入れられない人も大勢いる。大学院のリサーチアシスタントだと、バイト無しで休暇なども平均すると毎月1000ドルほどの給料が貰える。恵まれているポスドクなら一年に$40,000程度であろうか?すると、保険代と税引き後の手取りは2000ドル強となる。これで家族を養う事は不可能である。

2014年の時点で退官間近の教授たちに聞いてみて欲しい。ポスドク期間を何年過ごしたか、と。「限りなくゼロに近いブルー」だと思う。それでは、最近採用された若手の大学教職員に同じ質問をして欲しい。とても気分が滅入る答えが返って来る。私は今まで何度か大学職員の採用過程に参加させてもらった事がある。応募者の履歴書の凄い事、凄い事。トップの候補者たちは、その学部にいるほとんどの教職員よりも優れていると思われる。ただ、それらの中から、一人ないしはゼロ人が本職として採用される。しかもテニュアー無しである。 

世の中には、研究に向く性格の人もいる。一つの事に打ち込める人で、社会の事などにあまり関心を持たずコミュニケーション能力が不足している類の人達だ。世間ではアスペルガーと呼ばれている人達だ。しかも、家がある程度裕福であれば鬼に金棒だ。科学者と言うのは、そういう人達には向いている仕事だと思う。ただ、このブログを読むような人達はある程度社会の事にも関心があると思う。そういう普通の人達は、どんなに頭が良くとも、科学者を目指したりPhDを取得しようとしたりしてはいけない。或いは、中国やインドなどの発展途上国出身で、$2000の給料が素晴らしいと思える人達にとっても、アメリカで科学者を目指すことは悪くないかも知れない。実際にアメリカのアカデミアは、中国人とインド人だらけである。ただ、普通の野心がある日本人には無理である。 

大学の科学者ほど惨めな物は無い。科学の世界は自分のお金がないので、他の人達にお金を乞わなければならない。学術の世界から世の中を変えるイノベーションは殆ど開発されていない。科学者の仕事は、内輪の科学者の為である。 

私の感覚でいうと、薬物で身を滅ぼした人よりも、PhDを取得して身を滅ぼした人の方が多いのではないか?という気にすらなるのだ。 

悪い事は言わない。象牙の塔には足を踏み込まない事だ。科学者になろうとすれば、無駄にレベルの高い競争に晒され、長期間貧困に耐えなければならない。普通の人なら、途中で何回も折れてしまう。世の中には一杯やりがいのある楽しい仕事がある。あなたが頭脳明晰で、野心が強く、コミュニケーション能力にも長けた人間であれば、尚更のことである。成功したければ、大学に入る前にある程度未来を決めておく必要がある。勉強がある程度出来るからと言う理由だけで惰性で大学院に進んで涙した人達を、私は星の数ほど見て来た。それらの多くの人達は、とても優秀で、さらに人格的にも尊敬できる人達だった。

何度でも書こう。あなたが科学者向きの人間でなければ、PhDを取ってはいけない。あなたは確実に不幸になる。PhDを取得でき、英語もそこそこ出来る人であれば、他の仕事で絶対に活躍できるし、その方が社会の為になるだろう。野心を持って博士号の取得を目指す人で、私がここに書いたことに同意できない人もいるかも知れない。そういう人は、博士号を取って1-2年してから、もう一度この文章を読んでもらいたい。

11/09/2013

大学受験改革「そもそも論」:すべては官僚制という問題から起こっている

就職活動や大学入試と言ったものに不満を抱く人は大勢いる。何故なら、人間は誰でも一円でも得をしたい、一つでも上に行きたい動物である。しかし上に行けばいくほど、椅子の数は狭くなる。そこで「公平を期す」ために、何らかの選抜方法が考え出される。選抜方法が洗練され、システム化されてくると、競争は熾烈なラットレースの様相を呈してくるわけだ。そういったラットレースは、本来であれば「人材の選択」というゴールの為の手段として作り出されたわけだが、力や金が過剰に絡みだすとラットレースそのものが目的化してしまう。官僚の出世競争、半沢直樹のような出世競争、大学教員の論文投稿数競争なども、まさにこれである。競争が激しくなると、少ない椅子を手に入れた人たちは、クラブ制度を敷き、権力を維持しようとする。そして次世代の競争はますます激しくなり、本来の業務とは関係のない場所においての無駄な競争が激化していく。つまり、就職活動も大学受験も大企業や公務員の出世競争も大学教員の論文競争も、紐解けばすべては同じ問題に根源を見つける事が出来るのだ。

日本で就職活動がここまでマニュアル化した功績は、リクルート社などを籏本とし、大企業が紳士協定的に就職活動を規格化したことが原因だと思われる。大学生の本分は勉学であるはずだが、人生設計を考えた場合、就職活動に力を入れた方が長期的な視点で得をするに決まっているのだ。企業の側も、若者に集団就職をさせた方が効率的であるし、自分たちのリスクを減らす事ができるので、採用方針をマニュアル化してしまう。そして、そこにリクルート社などが金儲けをする機会が生まれている訳だ。大学側は生徒の需要をはっきりと理解しており、学生に勉強しろなどとは言わない。学生に勉強をしろ等と言うのは、研究者として学生を搾取しようとしている学者か、若い熱血教師だけである。学生や社会の事情が分かっていれば、学生に勉学に打ち込ませるような罰ゲームを強いる事はできない。

大学受験に関しては、予備校や私学などの教育産業が競争をする中で無意識のうちに結託したことと、「受験技術」という物が商品となった事が問題である。それが、母親たちの競争意識を駆り立て、我が子を一つでも上の学校に入れるという事が目的と化してしまったのだ。受験技術の取得が自身の子息にとって根本的には無意味であったとしても、である。数日前に関連する事項を当ブログに書いているので、そちらも参照して欲しい。

出世競争に関しては、組織の中で公平性を期し、組織の円滑な運営を行うため、歴史の長い大きい企業や団体では、何らかの社内紳士協定がある場合がある。出世街道などと呼ばれるクラブ制度が敷かれている場合が多いが、古今東西、整備されきった出世街道を進むための努力は、必ずしも組織としての生産性とは関係ないものだ。そういった無駄な努力を強いる企業体制が「官僚制(ビュロークラシー)」なのである。ただ、大きくなれば組織はピラミッド形にならざるを得ず、入って来る人の数に比べて上の席が少ないという現実を、何らかの形で円満に解決するには、こういった方法をとるしかないのかも知れない。勿論、非生産的である。

大学は歴史が長い団体であり、学会のクラブ制度は反吐が出るほどの結束力である。若者の高学歴化により、生徒が大学に残る割合が極端に増えてしまった。そこで、ポスドクなどという中途半端な奴隷制度を設けているのだが、本職を手に入れるためには論文数を中心に査定される事になる。となれば研究の質はそっちのけで、研究本数を増やす方が得といった、戦略的な判断が生まれる。イノベーティブな研究などしようものなら、論文数が減るので就職には致命的だ。特にアメリカにいるアジア人の若い研究者の間で顕著なのだが、出世するために論文ミルのような姑息な手段をとる学者もいる。勿論、教育など他の事が疎かになり、大学の質は落ちる。学会誌もレベルの低いものが溢れかえるような状態になっている。こういった無駄な事に力を入れれば入れるほど、高等教育の存在意義は薄くなってしまうのだから皮肉である。まあ、どうせ「質」など解る人は少ない。

ここまで読まれれば解るかもしれないが、何らかの理由で、洗練されたラットレースが織り込まれた業界やイベントでは、参加者に無駄な努力を強いることになる。これは、希望者よりも椅子の数が少ないから起こり得る問題である。人間は等しく24時間しかなく、こういったラットレースに時間を割けば、本業を犠牲にするしかない訳だ。つまり、人材の選抜方法が洗練され、しかも産業化しているようなところの生産性は恐ろしく低くなる。

一方で、フリーの人や、ベンチャー、一部の中小企業ではこのような無駄なラットレースに巻き込まれる可能性が少なく、そういった人達はゴールに向かった本質問題に時間を割くことが出来る。新しいベンチャーの生産性が高いのは官僚制に時間を割かれない事が原因だ。

受験改革、大学改革、就職活動改革、公務員改革などが叫ばれて久しいが、こういった官僚制度に真剣に対峙する事を無くしては、何も改革する事は適わないだろう。まあ、スポーツなどでもそうなのだが、制度が整備され過ぎると、大穴が出なくなり、面白みに欠けてしまう事になる。規格化とは便利であるが、つまらなくなるのだ。注意して頂きたいが、ここに書いた問題は、決して日本固有の問題ではなく、官僚制にどう立ち向かうかという「そもそも論」である。ここには挙げられなかった無数の例があるのだが、読者の方も思いつく事が多々あるだろう。そして、その問題の本質は、文部省が叫んでいる大学受験改革の問題と同じなのだ。

10/14/2013

大学入試を面接に。何のための改革なのか?

政府の教育再生実行会議が国公立大入試の二次試験からペーパー試験を廃止して、面接などに移行することを検討しているという。下村文科大臣は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調したという。

個人的に色々なトラウマがあり、大学の入学試験の事など思い出したくもなく、このような問題は見て見ぬふりをしたいところだ。だが、どうしても思う所があるので、意見する。

日本社会では、制度の疲弊があれば、何でも改革しようとする。改革といっても、欧米のやり方を取り入れるだけであり、模倣を改革だと勘違いしている節がある。日本には日本の土壌で育った日本的な良さがある。一方で、欧米のそれぞれの国では、その文化的な背景や社会の発展を元に、それぞれが培ってきた良いシステムがある。こういう事を無視して欧米システムの輸入をする事はあってはならない。そもそも、ミッションなき改革など、絶対にあってはならない。

まず私が受験したころの入試制度に問題がなかったどうかを検討する。結論から言うと、塾や予備校や一部の私立高校が利するだけで、私は青春の貴重な時間を奪われた。私は本命の大学の前期試験には失敗したものの、後期試験で滑り止めの大学に拾ってもらった為に「浪人」と呼ばれる時間の浪費を避ける事ができた。しかし多くの友人達は、浪人生として無駄な一年、あるいはそれ以上の期間を過ごす羽目になった。浪人期間中は、受験でどうすれば点数を稼げるかというテクニックを必死に磨く。実質的な知識や考える力が修練されているとは考えられないのだ。浪人という糞の役にも立たない時間を許容するシステムは非生産的である。

アメリカでは入学試験は原則的に無い。何度でも受験可能なSATと呼ばれる全国統一試験の点数が足キリとして使われ、後はエッセイ(小論文)、内申書、経験、面接などが総合的に判断されるのだ。

エリート校では特に面接が重要視される。本人だけでなく、親の面接もある。西洋的な階級社会が色濃く残っていた影響であり、家系で大学への適性を判断するのである。日本でも小学校や中学受験くらいまでは、親の面接をする学校が一杯あるのだから、取り立てて異色がる必要はないだろう。

アメリカの大学で話を聞いていると、やたらと「多様性」という言葉が繰り返される。これがアメリカの大学のあり方のキーポイントだと思う。社会的な役割として、エリート大学には創造性や革新性などが求められる。イノベーションは日本でも流行りの言葉だが、イノベーションにより社会に風穴を開けてくれるような人材を育てたい、という社会的な要望に大学は応えようとしているのだ。イノベーションを持った人材を育てる事は難しい。一般的に言って、イノベーションは、人材の優秀さに加え「コロンブスの卵」的な考え方を生徒に強いなければならない。大学側が出来る事といえば、生徒に「異文化」を味あわせる事が手っ取り早い。寮などにバックグラウンドが異なる生徒を大量に押し込み、色々な交流を経験させるわけだ。人種、性別、親の職業、生まれた地域。それらが異なる人間が混じる事で、常識破りの発想が出来るようになるという訳だ。そういう発想の元、多様性を高めるために面接が行われている。そして、教員や生徒も、そういった大学の使命や文化を皆が共有し、尊重している。

一方で日本の大学の使命は何か?大学がホームページに書いている外向けの標語の事を言っているのではない。生徒や教員、或いは社会が特定の大学に対してどのような使命や価値観を共有しているのか、と問うているのだ。結論から言うと、就職するための若者の「篩(フィルター)」としてしか見ていないと思うのだ。企業の人事部を含む、ほぼすべての人が、積極的にも消極的にも大学受験以外に大学の価値を見出していないと思う。勿論、多くの人がそうあって欲しくない、と考えている。だが、現実はそうである。

もし改革をするのであれば、この点を改革できる案件を出す必要がある。小手先だけで何かを変えると、最も大切な物を傷つける事になる。改革すべき問題点は、大学の存在意義そのものである。受験技術を身に付けさせる為に若者の時間を奪う事が問題である。変革しゆく社会が理想とするものと、大学教育の間の乖離が問題である。しかし、問題が多い大学受験はフィルターとして一応の社会的意義を果たしている。この辺りを総合的に考え、日本人の高等教育に対する認識を根本的に変えられるような改革を望みたい。

大学への編入をしやすくして人材の流動性を保つ事から始めるべきだ、と私は思うのだ。何故なら、高校生にとって、本当に行きたい大学など「ない」と考えているからである。98%の高校生は、通える範囲でランクが上であれば上である方が良い大学である、として学校を選んでいるに過ぎない。そうすれば二次試験を大学別で行う必要性は全くない。全国共通の二次試験を実施すれば良いだけの話だし、成績の良いものから順に、東大、京大、阪大、名大などと、受験生が選べる大学の範囲を拡大していけば無駄な後期試験や浪人期間という社会的なロスを防ぐことが出来ると思う。

無理矢理面接をさせたいらしいが、面接を行ったところで、日本の国公立大学に多様性を導入することなど出来ない。コミュニケーション能力云々を測りたい、などと言っているが、それを教育することが本来の高等教育の目的ではないか?それよりは、大学の縦割りをなくして、文系や理系が同じクラスで交われるようにしたり、(東京大学の様に)学部間の移動をしやすくしたり、留学や他大学での単位取得を許可すれば良いだけの話しである。転校をしやすくする制度も整えるべきだ。

私自身は先ほども述べたように、後期試験で大学に入った。その後期試験では小論文や面接が行われたのだが、集団面接で周りにいた殆どの受験生にはコミュニケーション能力が欠落しており、受けた瞬間に自分が合格したと確信した。だが、高校時代の貴重な時間を割いて必死に練習した受験技術は結局無駄であったという焦燥感に苛まれもした。もし面接だけで事が足りたのであれば、私は多感な高校二年生から三年生にかけての時期に、受験問題の反復練習などという「苦行」はしていなかったと思うし、勉強の仕方も抜本的に変えていたと思う。つまらない参考書にお金を使う事もなかっただろうし、読書や英語の練習といった有意義な事に時間を割ける事ができたのではないかと思っている。数学などにしても、受験勉強に特化した、ミスを減らす目的の反復練習ではなく「頭を使って考える楽しみ」を実感できる勉強が出来たと思うのだ。まあ、過ぎてしまった事をとやかく言っても後の祭りだし、受験勉強をしなければファミコンで遊んでいただけかも知れない。面接を後期試験に取り入れているからと言って、その大学がどのような人材を求めていたのかは不明である。そういった理想の生徒像を共有できないまま、面接を行ったというのは異常である。理想の生徒像がないまま行う面接では、個人的な好き嫌いを元に人を採用する事になる。

私はアメリカの大学院で長い時間を過ごして、教育という物は如何なる物かという事をずっと考えてきた。振り返って考えれば、受験がどれほど馬鹿馬鹿しいラットレースであったかがよく解る。「人生は馬鹿馬鹿しいものである」と言い諭されると、それはそれで反論の余地はないのだが。

1/31/2012

大学改革(3)無駄に外国人に門戸を開くな!

大学の門戸を外国人に開くということに対して、長点と欠点がある。長点としては、外国から優秀な人材が集まってきて、日本の競争力向上に寄与してくれるかもしれないというものだ。ただ後述するが、日本の大学に優秀な人材が来るかどうかはかなり怪しい。第二に、色々な地域から学校に来る留学生と日本人学生が交流し、文化的な多様性を学ぶ場が出来る可能性がある。しかし日本の大学では留学生をお客さん扱いし、日本人学生との交流などが充分計られていない。学部の授業でのグループプロジェクトのようなものも少なく、留学生に限らず、研究室やサークルの外で学生同士の交流は限定されているのが大学生活の実情である。留学生が自分の国の言語を教える代わりに奨学金を受け取れるなどのWinWin政策も考えられようが、教官の仕事を駆逐するような政策は普通は上がって来ない。ミクロの問題については個々の大学の経営判断によるところが多く、筆を省く。

米国の大学で最近取り沙汰されているのは、大学経営にとっての短期的なキャッシュフローの追求と、大学の質を保つという意味での長期的な経営戦略が矛盾してしまうという問題だ。私は現在大学の授業を担当しているのだが、数年前から学部の中国人留学生の質が極端に落ちたと感じる。海のものとも山のものとも解らない中国人留学生を金づるとして大量に入学させ、結果的に全体的な授業の質を落としてしまっている。

数年前まで、当地の大学の学部において、質が悪い留学生といえば、韓国人留学生と相場が決まっていた。確かに韓国人留学生の中には、英語も碌に理解できないような連中が紛れている事が多々あった。その癖、自己主張が強く、採点方法などに文句を言いに来るのだ。そういった面倒臭い生徒が多い為か、教授(特に白人の教授)の中には韓国人留学生を毛嫌いする人達もいた。性格に関しては国民性というものもあろうが、何故韓国人留学生の質が低かったかの理由は簡単だ。不正に入学している韓国人留学生が極めて多かった為である。韓国で高校まで卒業し、留学業者にお金を払う。そうすれば出願書類を揃えてくれたり、推薦書なども書いてくれる。酷い場合には、内申書を改竄したり、toeflの試験で不正行為をしてくれたりもするようである。そういう業者が存在し、学歴というものを過度に意識する親たちがお金を払うというみっともない構造が出来上がっているのだ。韓国人の名誉のために言っておくが、必死で勉強をする優秀な韓国人も沢山いる。しかし、インチキをして入学してくる出来の悪い韓国人学生が、英語も出来ずに自分の国から来た連中とだけつるみ、髪の毛を脱色し、休み時間のたびに建物の外でタバコを吸うので、どうしても目立ってしまうのだ。

ほんの少し前まで、アメリカにいる中国人留学生といえば、自国の大学を主席で卒業したような学生のみが国費で留学してきた。人口の多い中国のシステムの頂点に君臨するような生徒なのだから、中国人留学生はほぼ間違いなく優秀な学生であった。しかし、中国社会は豊かになりすぎた。小金持ちが子息を米国に留学させる事がステータスとなっているし、アメリカに移住することを目的とする中国人が星の数ほどいる。ここ数年、アメリカの大学には大陸系の中国人学部生が目立つようになってきた。巻き舌の発音を聞けばすぐに大陸系の中国人かどうかわかるのだが、ぱっと見でも台湾人や香港人とは明らかに雰囲気が違うので、直ぐに解ると思う。豊かになれば何が起こるのか?そう、韓国社会で起こっていたことがそのまま中国にも伝わったのだ。インチキ留学斡旋業者が、富裕層の子息の海外留学を斡旋する。英語もおぼつかない生徒たちが、推薦書やtoeflの結果を誤魔化して貰い、堂々とアメリカの大学に入学してくる。結果として、中国人留学生の質が雪崩れる様に落ちてきているのだ。私のクラスにも、授業にもろくに出ず、ハナからカンニングしようとしてテストだけを受けに来る中国人の留学生グループが毎クオーター混じっており、対処に困っている。

一部の韓国人や多くの中国人がインチキをしている事は周知の事実だ。とすれば、そういった生徒を受け入れるアメリカの大学はアホなのか?多分アホである。州立大学などの場合、州外の授業料を払ってくれる富裕層の留学生は、大学経営にとっては残念ながら無くてはならない存在なのだ(州内の生徒は授業料が安い)。州立大学の多くは、特にリーマン以降、こういったケースを、見て見ぬ振りをしている。というか、州の財政が悪化して以降、明らかに節操もなく生徒数を増やし、生徒の質が相関して落ちてきた。本当なら大学にいけないような連中までが大学生になっている。

大学の質を守りたいのであれば、門戸を開きすぎることは芳しくない。米国人であろうが、インド人であろうが、中国人であろうが、日本人であろうが、韓国人であろうが、優秀な人の割合はそう多くない。一握りの優秀な人達を掬ってしまうと、残りは平凡な人材になってしまう。残念ながら、教育で人材の優秀さは補いきれない。優秀な人材に教育を施すのがエリート高等教育である。門戸を広げる事は、平凡な人材にまで手を伸ばすということに他ならない。

大学教育を犠牲にして大学院のみを充実させる、という経営戦略もあり得る。米国の州立大学はそういった戦略の下、学部は金づるだと割り切り教育の質を無視し、大学院の充実のみを諮っているところが多々ある。

翻って日本の大学に話を戻すが、まともな大学はあまり無駄に門戸を開かない方が良いと思う。何をしたところで優秀な人材はアメリカやイギリスの大学に行くに決まっているのだから、どうせ碌な外国人は日本に来ない。優秀ではない留学生に助成金を渡すような行為は、税金の無駄以外の何物でもない。どうせ優秀な人材など確保できないのだから、逆に大学の学費は高く設定するべきだ。そうすれば、少なくとも金を持っている外国人が日本に来る。金がある家の子供は、コネなどを使い社会的に大切な職に就く可能性が高く、長い目で見て大学の評判作りにも有利である。

留学生にバイトをさせるのは論外だ。図書館、食堂、或いは語学学校など、大学内に雇用を作り、基本はその中でのみ就労を許可するべきだ。バイトをしながら学問を追及できるほど、世の中は甘くない。寧ろ、外国人はバイトするために日本に遊学しに来ている。ただし優秀な学生は必ずいるので、そういった学生達にはきちんと奨学金を与えるべきであるが、文部科学省主導の書類だけの審査ではなく、大学内で成績を見ながら留学生に緊張感を与えたうえで奨学金を分配するべきだ。そうすれば普通の人なら学業に専念するし、それは同じ大学の日本人学生にも良い影響を与えるだろう。バイトをせずに、学費もきちんと払える外国人だけを大学に受け入れることが日本の国益に繋がると考えている。

質を問わずに外国人に門戸を開けることは、グローバル化ではない。

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1/29/2012

大学改革(2)MLBに人材が流出したプロ野球の轍を踏む東大の秋入学

東京大学の秋入学の話題が喧しくニュースを賑わせている。私はこのニュースに違和感を感じる。結論から先に言うと、入学時期を選ぶのは個々の大学の経営戦略の問題であり、政府が口出しするような話ではないからである。秋入学も春入学も、秋卒業も春卒業も全て認めれば良いだけの話なのではないだろうか?

ただ東京大学が提案した事象に対しての政府の対応は早い。「秋入学への移行に向け、政府は、大学当局をはじめ、学生や企業などを全面支援する方針だ。グローバル人材の育成という観点から大変評価できる制度であり、官民あげて議論をしていきたい、としている。」私は、議論が先にあり、それから支援するべきかどうかを決めるべきだと思う。「全面支援」などという言葉が官僚や政府から出てくるのも気持ち悪い。邪魔をしなければいいだけの話で、全面支援するような類の問題ではないと思うからだ。東大が官僚育成大学としての側面を有しているから、このような素早い対応になるのだろうというのが大勢の見方である。

そもそも、個人的見解として「日本の大学での四年間」と「浪人期間」は人生にとっての完全なる時間の無駄以外の何物でもないと考えている。何故なら、浪人は「大学入試」のための準備期間であり、それ以上の意味を持たない。大学はというと、学者畑を歩んだ「優秀」な研究者がクラスを教えるので、狭い領域に特化した研究者を養成する教育に傾倒してしまう。(特に理系においては)潰しが利かない教育のため、教室にいる99%の生徒のその後の人生には全く関係のないことに時間が浪費される。18歳から20代前半の貴重な青春時代に無駄な事に時間を使われるのだから、学生にとってはたまった物ではない。ただし長らくの間、良い大学を卒業することはその後の人生の「黄金切符」を手に入れることと同意義であったため、殆どの人は必死に我慢して、集中力を削がれないよう、大学入試と大学生活を人生の修行期間と位置づけているのであった。しかし、その前提が崩れかけている過渡期の現在において、旧来の大学の存在意義は完全に揺らいでいる。

私自身は、日本で大学を3月に終え、米国で語学学校に通いながら一年半の準備期間を経て米国の大学院に入学した。3月に卒業したことが、米国の大学院進学に不利になったとは思えない。もし準備期間の1年半を省略して米国の大学院に入っていれば、語学は勿論のこと、文化の違いに戸惑ったりして、恐らく大学院のクラスには十分ついていけなかったと思う。大学卒業の時期が近づいたある日、私は担当教官にアメリカに行きたい旨を告げた。担当教官は賛同してくれたものの「本来であれば日本で研究の実績を作ってからアメリカの教育機関に呼ばれるべきだ。そして、履歴書に穴を作ると損をする」と私に忠告してくれた。今から考えると、かなり的外れな忠告だったと思うが、そのような考えを大学の教官たちが共有していたという事である。

ただし、秋入学というような政策の変化が間接的に、人々の心理的なものに影響を与えることはあると思う。学生の進路の一つとして海外の大学院というものが選択肢の一つとして市民権を得ると思う。そういう意味でこの政策は、「MLBに人材を送り込む政策」として卓越したものになる可能性がある。

アメリカの博士課程に在籍する日本人は他のアジア各国に比べると意外と少ない。それが今後多くなるのはいい事だと個人的には思う。しかし日本のプロ野球と同じく、オールスター級の人材が大量にアメリカに流れる可能性はないだろうか?その結果、日本の大学院に残るのは三戦級の人材ばかりになりはしないだろうか(一線級と二線級は欧米の大学院か学部卒で就職)?そうなると、大学の競争力はますます落ちてしまう結果となる。

一方で海外の人材は日本に好んで来るのか?日本に来たいかどうかは入学時期の問題ではない。語学や生活環境など、もっと他の問題があるからだ。私はアメリカ人などで、日本の大学院に留学した経験がある友人が大勢いる。それらの人達の結論を総ずると「日本社会で生活した経験は良かったが、日本の大学院は糞以下」という物が大半だ。研究領域の狭さ、授業の質の低さ、研究室の体質、大学の資源の乏しさ、指導教官の世間知らずさなどに文句を持つようである。

もっと書きたいことがあるが、長すぎるので一旦この辺りで切ることにする。

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1/25/2012

大学改革(1)府大+市大=ランキングトップ10を狙える大阪公立大学

日本の大学システムの不備についてよく考えを巡らせる。結論から言うと、日本の大学はあまりにもお客様を馬鹿にした経営を行っていると結論付けざるを得ないのだ。学費を払っている生徒を無視する日本の大学問題を検証したい。

橋下徹が主張する大阪市立大学と大阪府立大学の合併の話だが、二重行政の煽りを受けているのは当の学生である。市大と府大の「偏差値」はドングリの背比べのような状態で、しかも大学ランキングにおいてもそんなに変わらない立ち位置になっている。府大には農学部・工学部・看護学部・経済学部と、その他の総合分野学部が存在する。一方、市大は商学部、法学部、理学部、医学部、文学部、経済学部と工学部が存在する。微妙にずらしているのが解るだろうか?両方にあるのは経済学部と工学部だが、専門分野や得意領域はずれている。(学校の成り立ちと歴史問題を主張する人がいるが、結局競争を避けた結果、今の形になっているのだ。)

キャンパスも、市大は御堂筋線の「我孫子」、府大は御堂筋線の「中百舌鳥」と3駅しか離れていない。(しかも、両駅とも「あびこ」「なかもず」と何故か平仮名表記されています)

この二つの大学を統合させて、大阪公立大学とした場合(私は府と市を統合するべきだと思うが、大阪都という名称に違和感を憶える)、教育部以外の考えうる学科を全て網羅した総合大学が出来上がり、シナジー効果が非常に高く、大学のランキングが大幅に上がることが予想される。そうなれば、注目度もあがり、学生の就職活動が有利になるだけでなく、有名教授の招聘、留学生招聘や研究資金調達など、どれをとってもプラスになる。

では、何故今までそうしていないのか?答えは、役所があほだから、という他ない。市と府で縄張り争いをし、結局学生を蔑ろにしていた訳だ。というよりも、そもそも学費を払って学校に通う学生の利便性や将来など全く考えず、今までどおりの縦割りをしていたに過ぎない。対抗させないために、態々学部を微妙にずらしているところなど、悪意すら感じる。橋下が現れるまで、百利あって一害無しの合併を誰も公に口にすらしなかったことに、違和感を憶える。それこそが、大阪市と大阪府、そして中央集権の日本国が抱える病巣だといっても差し支えないと考えている。


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1/15/2007

教育論(2) NPOと社会

私は5年以上もアメリカで暮らしているのだが、そうするとアメリカの良い面も悪い面も公平に見えるようになった。人並みな感想だが、アメリカという国がとてつもなく豊かだと感じる一方で、様々な矛盾を抱えているとも感じる。だからと言って、アメリカに対する批判をする必要は無く、日本人としてアメリカが持つ優れたシステムだけを戦略的に取り入れていけばよいのだ。

日本とアメリカを比較した際、私が思うに、一番の違いは「社会システム」である。日本の「社会システム」は、残念ながらアメリカのそれと比べて30年は遅れている。社会システムを態々「」で囲っているのは、その定義が非常に怪しいからだ。故に、マクロな視点からではなく、ミクロなケースで見ていく必要がある。例えば、NPOの話をしたい。

日本でNPOと言えば怪しげな団体を思い浮かべられるかもしれない。社会主義者や左翼の吹き溜まりが、NPOと称して活動をしている場合も確かにある。日本ボーイスカウトや交響楽団、町おこしを活動している団体など、長期間に渡って実績を持つ優良なNPOも多々ある。しかし問題は、政策に関わるような洗練されたNPOは皆無であるという事だ。

アメリカではNPOが社会に密接に関わっている。例えば環境系のNPOであれば、町の小さなNPOでさえもPhD(博士号)取得者がいるのには驚かされる。独自の調査やパブリケーションを行い、市や州政府に政策の進言をしている。同時に経営の専門家もいて、資金面での遣り繰りも巧く行っている。大学生や院生たちがインターンとして活動に参加する。NPO同士、或いは大学や政府と組んで、リサーチやプロジェクトを行っているのも興味深い。政府は、自分たちが出来ないプロジェクトは直ぐにNPOに外注する。GIS(地理情報システム:コンピュータによる地図作り)や魚のポピュレーション調査など、政府が限られた予算や人員で全て出来る訳がないからだ。NPOは、サーモン専門、鳥専門、湖沼専門、地図製作専門、政策専門、ロビー専門、調査専門、市民とのコミュニケーション専門など、活動が特化している場合もある。

さらに、人材の流動性が面白い。先ほども言ったが、大学生や院生で環境に興味がある学生がインターンとして働く。大学を退官した教授などが、NPOの活動に参加する。大学院で学位を取った人達が、初めてのキャリアとしてNPOを選ぶ。政府で働いていた人がNPOに来たり、逆にNPOで働いていた人が政府で働き始めたりする。リサーチャーや高学歴の人を流動させることで、より面白い問題を見つけ出し、それに対して解決策を講じるように社会全体が動く。

お金の面で言えば、市民からの寄付や、業界からの寄付、財団からのお金でNPOは回っている。アメリカでは、簡単に言うと、寄付を行えば税金を払う額が減るので、多くの人が直接自分の興味のあるNPOなどに寄付する。いくら魅力的な活動をやっていたとしても、お金が無ければ専門家を雇うことが出来ず、NPOの活動は成り立たない。さらに、NPO間の資金の遣り繰りもある。NPO間でもプロジェクトを外注するのだ。

アメリカのNPOは研究者の裾野を拡げた。そして、小さな政府作りに貢献した。さらに、多くの雇用を生んだ。特に、女性や高学歴者に対して、NPOがアメリカ社会に齎した影響は多大であると言える。アメリカでは産業の空洞化が言われて久しいが、このような知的産業が新たに興っているのである。

さて、このような良い制度を何故日本では採用しないのか?簡単に言うと、現状では出来ないのだ。NPO法が整備されて、NPOを起こすことは簡単になった。だが、誰がNPOのトップに立つのか?会社や政府で働くことを諦めて、日本でNPOで働く魅力があるのか?個人や会社からの寄付が望めない状態で、どうやってまともにNPOを運用するのか?研究や経営が出来るような人材をどのように確保するのか?第一、自分の力で独立して研究できる人材がどれほどいるのか?人材の流動性がない日本で、小さなNPOで働いてしまうことなど、自殺行為に等しい。

NPOが政策提言をしたとして、地方政府や政府は聞く耳を持つのか?国はプロジェクトを外注する気はあるのか?国は個人同士の寄付を認める気はあるのか?国は政府の規模を小さくする気はあるのか?

現状では、日本において、アメリカのようなシステムを求めることは不可能に近い。だが、それこそが社会の進むべき方向性であるのだから、やがて、30年くらい経てば、日本も現時のアメリカのようなまともなNPOが国づくりに協力する社会になっているのかも知れない。現在の公務員削減や独立採算制が、将来のNPO社会到来への布石であると考えられなくもない。

現在の日本のNPO。例えば、環境のNPOであれば、科学的知見に基づいていない事柄に力を入れている。撒き水をして、本当に地球の温暖化が解決するのか?馬鹿らしくて言葉も出ない。大学の仲良しサークルのように、「行動すること」こそが良き社会を作ると勘違いしている人が大勢いるようだ。まともなNPOが一杯あった上で、そのようなNPOもあるのなら納得は行く。しかし、それが一番まともなのだから、どうしようもない。それと、日本のまともなNPOは直ぐに外国の研究をする。東南アジアやロシアの生態系など。わが国の環境は、蔑ろに出来るほどそんなに素晴らしいのか?何もしないで良いほどの住み良い日本なのか?誰もチャレンジすらしないし、問題を凝視しようともしない。残念ながら問題を凝視できる人などいないのだ。

つまり、一番の問題になるのは、人材作りだ。現状ではNPOなどで働けば一生冷飯を食わなければいけないので、まともな人は決してNPOで働かないが、仮に社会基盤が整ったからといって、NPOを率いていけるほどのまともな人材がいるのだろうか?次号で解説する。

サウジはポンコツ。何も出来ない

フーシ派がマユン島を占領して、紅海の入り口をコントロールしており、ムハンマド・ビン・サルマーン(MBS)がトランプに米軍がフーシを攻撃するように要請したとのニュースが流れた。トランプは断ったという。このニュースを受けて、原油は暴騰。 サウジはアラブ諸国の雄じゃないの?このくらい、...