10/14/2013

大学入試を面接に。何のための改革なのか?

政府の教育再生実行会議が国公立大入試の二次試験からペーパー試験を廃止して、面接などに移行することを検討しているという。下村文科大臣は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調したという。

個人的に色々なトラウマがあり、大学の入学試験の事など思い出したくもなく、このような問題は見て見ぬふりをしたいところだ。だが、どうしても思う所があるので、意見する。

日本社会では、制度の疲弊があれば、何でも改革しようとする。改革といっても、欧米のやり方を取り入れるだけであり、模倣を改革だと勘違いしている節がある。日本には日本の土壌で育った日本的な良さがある。一方で、欧米のそれぞれの国では、その文化的な背景や社会の発展を元に、それぞれが培ってきた良いシステムがある。こういう事を無視して欧米システムの輸入をする事はあってはならない。そもそも、ミッションなき改革など、絶対にあってはならない。

まず私が受験したころの入試制度に問題がなかったどうかを検討する。結論から言うと、塾や予備校や一部の私立高校が利するだけで、私は青春の貴重な時間を奪われた。私は本命の大学の前期試験には失敗したものの、後期試験で滑り止めの大学に拾ってもらった為に「浪人」と呼ばれる時間の浪費を避ける事ができた。しかし多くの友人達は、浪人生として無駄な一年、あるいはそれ以上の期間を過ごす羽目になった。浪人期間中は、受験でどうすれば点数を稼げるかというテクニックを必死に磨く。実質的な知識や考える力が修練されているとは考えられないのだ。浪人という糞の役にも立たない時間を許容するシステムは非生産的である。

アメリカでは入学試験は原則的に無い。何度でも受験可能なSATと呼ばれる全国統一試験の点数が足キリとして使われ、後はエッセイ(小論文)、内申書、経験、面接などが総合的に判断されるのだ。

エリート校では特に面接が重要視される。本人だけでなく、親の面接もある。西洋的な階級社会が色濃く残っていた影響であり、家系で大学への適性を判断するのである。日本でも小学校や中学受験くらいまでは、親の面接をする学校が一杯あるのだから、取り立てて異色がる必要はないだろう。

アメリカの大学で話を聞いていると、やたらと「多様性」という言葉が繰り返される。これがアメリカの大学のあり方のキーポイントだと思う。社会的な役割として、エリート大学には創造性や革新性などが求められる。イノベーションは日本でも流行りの言葉だが、イノベーションにより社会に風穴を開けてくれるような人材を育てたい、という社会的な要望に大学は応えようとしているのだ。イノベーションを持った人材を育てる事は難しい。一般的に言って、イノベーションは、人材の優秀さに加え「コロンブスの卵」的な考え方を生徒に強いなければならない。大学側が出来る事といえば、生徒に「異文化」を味あわせる事が手っ取り早い。寮などにバックグラウンドが異なる生徒を大量に押し込み、色々な交流を経験させるわけだ。人種、性別、親の職業、生まれた地域。それらが異なる人間が混じる事で、常識破りの発想が出来るようになるという訳だ。そういう発想の元、多様性を高めるために面接が行われている。そして、教員や生徒も、そういった大学の使命や文化を皆が共有し、尊重している。

一方で日本の大学の使命は何か?大学がホームページに書いている外向けの標語の事を言っているのではない。生徒や教員、或いは社会が特定の大学に対してどのような使命や価値観を共有しているのか、と問うているのだ。結論から言うと、就職するための若者の「篩(フィルター)」としてしか見ていないと思うのだ。企業の人事部を含む、ほぼすべての人が、積極的にも消極的にも大学受験以外に大学の価値を見出していないと思う。勿論、多くの人がそうあって欲しくない、と考えている。だが、現実はそうである。

もし改革をするのであれば、この点を改革できる案件を出す必要がある。小手先だけで何かを変えると、最も大切な物を傷つける事になる。改革すべき問題点は、大学の存在意義そのものである。受験技術を身に付けさせる為に若者の時間を奪う事が問題である。変革しゆく社会が理想とするものと、大学教育の間の乖離が問題である。しかし、問題が多い大学受験はフィルターとして一応の社会的意義を果たしている。この辺りを総合的に考え、日本人の高等教育に対する認識を根本的に変えられるような改革を望みたい。

大学への編入をしやすくして人材の流動性を保つ事から始めるべきだ、と私は思うのだ。何故なら、高校生にとって、本当に行きたい大学など「ない」と考えているからである。98%の高校生は、通える範囲でランクが上であれば上である方が良い大学である、として学校を選んでいるに過ぎない。そうすれば二次試験を大学別で行う必要性は全くない。全国共通の二次試験を実施すれば良いだけの話だし、成績の良いものから順に、東大、京大、阪大、名大などと、受験生が選べる大学の範囲を拡大していけば無駄な後期試験や浪人期間という社会的なロスを防ぐことが出来ると思う。

無理矢理面接をさせたいらしいが、面接を行ったところで、日本の国公立大学に多様性を導入することなど出来ない。コミュニケーション能力云々を測りたい、などと言っているが、それを教育することが本来の高等教育の目的ではないか?それよりは、大学の縦割りをなくして、文系や理系が同じクラスで交われるようにしたり、(東京大学の様に)学部間の移動をしやすくしたり、留学や他大学での単位取得を許可すれば良いだけの話しである。転校をしやすくする制度も整えるべきだ。

私自身は先ほども述べたように、後期試験で大学に入った。その後期試験では小論文や面接が行われたのだが、集団面接で周りにいた殆どの受験生にはコミュニケーション能力が欠落しており、受けた瞬間に自分が合格したと確信した。だが、高校時代の貴重な時間を割いて必死に練習した受験技術は結局無駄であったという焦燥感に苛まれもした。もし面接だけで事が足りたのであれば、私は多感な高校二年生から三年生にかけての時期に、受験問題の反復練習などという「苦行」はしていなかったと思うし、勉強の仕方も抜本的に変えていたと思う。つまらない参考書にお金を使う事もなかっただろうし、読書や英語の練習といった有意義な事に時間を割ける事ができたのではないかと思っている。数学などにしても、受験勉強に特化した、ミスを減らす目的の反復練習ではなく「頭を使って考える楽しみ」を実感できる勉強が出来たと思うのだ。まあ、過ぎてしまった事をとやかく言っても後の祭りだし、受験勉強をしなければファミコンで遊んでいただけかも知れない。面接を後期試験に取り入れているからと言って、その大学がどのような人材を求めていたのかは不明である。そういった理想の生徒像を共有できないまま、面接を行ったというのは異常である。理想の生徒像がないまま行う面接では、個人的な好き嫌いを元に人を採用する事になる。

私はアメリカの大学院で長い時間を過ごして、教育という物は如何なる物かという事をずっと考えてきた。振り返って考えれば、受験がどれほど馬鹿馬鹿しいラットレースであったかがよく解る。「人生は馬鹿馬鹿しいものである」と言い諭されると、それはそれで反論の余地はないのだが。

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