2/15/2026

自由とは?リバティーとフリーダムの違い

自由という言葉がうまく日本語になっていない。自由にはフリーダムとリバティーがある。 

フリーダムは「生まれながらの自由」の事である。我々人間は、生まれたからには個人として自立しており、他人にとやかく言われずに生きるのが当然である、という前提に基づく。他人の線路に沿っての人生は恥であり、国家が自分たちの生活に踏み込むな。国家のえらい人たちが決める事も、市井の一般人たちが考えて行きつくところも、結果に大差はない。テクノクラート達が国を運営するというのは「政府の失敗」を引き起こすだけの、トランザクションコストの無駄である。自由主義が行きつくところは無政府主義であるが、そんな極端な話ではない。現状は、数多の規制があり、政治のための政策があり、利権維持のための徴税やインフレ誘発がある。そして、権力は必ず腐敗する。思想の自由、表現の自由、財産の自由を重視するためには、権力を有する政府は小さければ小さいほど良い、という事になる。

リバティーは前提が違う。社会には支配層がいる。支配層と闘い、その結果として「勝ち取った自由」こそが、リバティーである。この考えを日本に当てはめると、どうしても太平洋戦争のトラウマの議論になる。戦前は軍部による抑圧があり、その支配に対する勝ち取った自由こそがリバティーである。そんな話から、憲法9条を変えるな、みたいな話になる。また、極端な例では、天皇制や宗教が社会を支配しており、そこから革命を起こして自由を勝ち取ろう、みたいな極端な思想を持つに至る集団も現れる。このあたりの考え方をリベラル、と呼び、戦前の帝国主義、天皇制、神社仏閣の信仰などを保守的な支配装置と断じ、それを否定するようなしょうもないイデオロギーとなる。時計の針の進み方に合わせ、闘うべきものが陳腐化してしまうと、リバティーは意味をなさなくなってしまう自己矛盾を抱える。抑圧に寄与しているシステムを超えるより良いシステムを導入したり、抑圧している支配層を罰したりすることをもって、リバティーを追求してしまう故、リベラルの人たちは、どうしても計画経済や設計主義的な思想に行きついてしまう。

立憲民主党や公明党はリベラルであるが、国民民主党やチームみらいも完全なリベラル思想である。高市首相を応援している人や、最近の権威主義的な維新の政策も、実質的には設計主義的なリベラリズムであると理解している。真の自由主義が日本に生まれる事を、切に願う。


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