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11/24/2018

「滞留許可を持たない外国人」のことを「移民」と表現するフェイクニュース

NHKや朝日テレビなどのニュースを見ていると、グアテマラなどの中南米からアメリカに難民申請を企てようとどさくさに紛れて棚から牡丹餅を目論む人々の話題が頻繁に報道されている。そういった人たちに「移民」という肩書を付けているのだが、あの人たちは「移民(Immigrant)」ではない。アメリカで難民申請をしようとしているかもしれないが、アメリカからすると、ただの「外国人」である。アメリカの国境を跨いでもいない。

もし仮に、これらの外国人がアメリカに入国した場合、ドキュメントがそろっている場合は「外国人訪問者(Foreign Visitor)」であり、ドキュメントがない場合は「滞在許可のない外国人(Undocumented Allien)」となる。

誰でも理解できることだと思うが、外国人が日本に来ても移民ではない。「旅行者(Tourists)」や「留学生(Foreign Students)」のことを移民とは呼ばない。通常は、外国国籍のまま結婚などをして滞在許可を得たうえで長期滞在をしている外国人を初めて移民と呼ぶ。滞在許可を持たないまま長期滞在している人たちは滞在許可のない外国人であり、つまりは不法入国者であるが、移民ではない。

このあたりのことはもう少し整理されるべきだと思う。不法移民などといった不明な用語を使うのは、米国民主党左派やヨーロッパの左派系の世界市民的な感覚に毒された語彙選択だと思う。

ネオナチ以外は、滞在許可を受けて外国に長期滞在している「移民」の人たちに文句を言っていない。文句を言っている対象は、不法入国して滞在許可のないまま住み着いたり、住み着く算段をもって入国する「外国人」に対してである。「あわよくば」と法を犯している滞在許可のない外国人たちのことを移民と呼称することは、法に則り正規の手続きを踏んだ上で社会の一員となっている移民の人たちにとって、あまりにも失礼だと考える。



7/28/2018

LGBTを馬鹿にする議員がいるのは日本が劣るから?

杉田水脈というネトウヨのような人が国会議員をしている。主義主張のレベルが低く、このような人間が国会議員になっているというのは嘆かわしいことだ。そんな意味でも、私は議員の数を削減する必要があると思っている。

ただ、杉田の意見が欧米では受け入れられないという意見については、私は違うと思う。アメリカや欧州の一部では同性愛が最近まで刑罰に触れていたというのが事実である。それに対するアンチテーゼとして、同性婚などが認められたという背景がある。原理キリスト教的な禁欲主義的な考え方が強い地域では(注:キリスト教には色々な宗派や考え方がある事には注意)、同性愛などを真っ向から批判するような「保守的な」市民の代表(つまり国会議員)がかなりの数いる。

わが国では、同性愛などが政治で語られることはなかった。同性愛は暗黙の了解として、「地下」で歪な形でむしろ許容されていた。ただ、本当に性同一性障害などに悩むような個人を救済するような社会的システムは提供しなかった。そして、そういった人たちがいるという事実から積極的に目をそらそうとしていた節もある。

私は、性同一性障碍者が一般の人達と同様の権利を認められるべきであると思う。結婚という呼称を使うかどうかは議論を重ねる必要があるだろうが、自己の責任の下に人々が自由にして問題がない事項について、政府や他人が自由を束縛していはならないと信じている。

ただ、むやみやたらに税金を使って助成したり、政府が関与する形で組織を作ったりすることには断固として反対する。政府は法制定(この場合は婚姻などの規制の緩和)で人々に権利付与することができるのだから。

国会議員が気に入らなければ、選挙で落とせば良い事ではあるのだが、杉田というような三流の人間を議員として擁している現在の自民党にはがっかりする。(これは多様性ではなく、資格がない人が議員をしているという組織の質の問題。)ただ、オバマ政権が激しい政争の末に勝ち取った同性婚をもってして、アメリカではLGBTを蔑ろにするような人がいない、といった論調には賛成しかねる。この点に関しては、日本が欧米よりも遅れているとは思えない。むしろ、ほんの十年ほど前までの欧米こそが人権を蹂躙する国家であったのだ。

2/07/2017

米国リベラル左派の詭弁と情報操作

所謂リベラルな人達と喋っていると、トランプ政権やトランプの主張に関して色々な勘違いを犯していたり、枝葉末節を拡大解釈していることに気が付く。また、無知であるが声が大きいアメリカ人も結構いる。メディアがわざと事の本質を逸らして報道しており、急進左派やアナーキストの類が煽っているのだと思われる。そういった報道がフェースブックやフェークニュース上に溢れ、「情弱男女」がそれらを無心に信じているものと思われる。

1.トランプ政権やトランプ支持者たちが問題としているのは、主にメキシコから入ってくる「違法移民」であり、合法的に米国に入って来た移民を排斥しようなどとはしていない。「移民排斥」をしたい人など、白装束を被った一部の頭のいかれている右翼の人だけ。トランプ政権を支持はしていると思われるが、トランプ政権の方針とは関係ない。

2.7カ国パスポート保持者による90日に及ぶ入国「制限」令であるが、それらの国は戦時中であるか、反米テロリストを堂々と支持しているか、アラブの春以降に真っ当な政権が樹立していないかである。そのような国のパスポート保持者をスクリーニングする事は当たり前である。これは宗教による差別ではない。イラク、イランやシリアからのアメリカに帰化した人たちを差別しようとする意図はトランプ政権にはない。

3.トランプ政権はメキシコ人を差別していない。違法に住みついている移民を糾弾しているだけであり、犯罪を犯したものなどを中心に強制帰国させると言っているだけ。

4.トランプ政権は同性愛者を差別していない。同姓婚は最高裁で決定されたものであり、チャレンジしないとはっきりと何度も言っている。トランプは演説の中で同性愛者を茶化したが、それを大々的に取り上げているのはマスコミである。

いずれにせよ、トランプや共和党はマイノリティーに厳しいというようなイメージ付けをしたいがために、民主党の運動員や社会主義者、反資本主義者たちは頑張っておられるようだ。そういう私とは異なる正義を信じている人達に声高に「違う」というと、反抗されて嫌われるだけなので厄介なのだが。

しかし、米国のマスメディアはこのような報道姿勢を続けると、アメリカと言う国の気品を落とすという事は解っているのだろうか?勿論、メディアはどこの国でも視聴率さえ取れればOKの拝金主義者たちですが。視聴者が聞きたいニュースをでっち上げるのがマスゴミの仕事です。

まあ、ただトランプ政権が意図的に対立を煽るようなマーケティング手法を取ったことも事実であり、自業自得的な部分はあるだろう。それが当局の意図するところなのか、それとも選挙戦略の副作用なのか?これは後になってみないと解らないだろう。

9/18/2016

自分の国の形を欧米と比較したがる「プロパーエリート」たち

私は、蓮舫のような人物が日本の首相となる事こそが、日本の国の形を変える象徴となると信じている。だが、前回の書き込みで、蓮舫の二重国籍云々を言っている人達に、東大などの一流帝国大学を卒業して、霞が関で働いていた人が多い、という事を述べた。で、元々日本国籍を持っていなかったような人達は、日本のトップにはなるべきではない、などと言っているのだ。それは、外国でもそうだから、というのだ。

確かに、国籍問題は外国の選挙でも問題とされる。テッド・クルーズは元々カナダ籍を持っていた事が問題とされていたわけだし、オバマがハワイで生まれたのかどうかを疑問視したトランプの言質も記憶に新しいだろう。しかし、だから何か?という話である。他の国で起こっているこれらの問題は、選挙戦略及び相手候補の足を引っ張るためであり、憲法が定める以外の問題は何もない筈だ。他の国に目を向けると、前台湾の総統であった馬英九は香港生まれでアメリカの市民権も持っていた可能性がある、と報じられていたが、きっちりと総統を務め切った。民進党よりのメディアがこれらの点で馬氏を罵倒していたことは、ただの政略だろう。

蓮舫であるが、中華民国籍であったわけだが、今の社会であれば生まれた時点で日本国籍を取れる要件を満たしていたにもかかわらず、母親が日本人で父親は中華民国籍であり、子女は父親の国籍とするという差別的な国籍法のせいで中華民国籍になっていただけである。これをもって、蓮舫は反日的だなどと言っている意見は、下らない話である。

名前の使用についても、村田姓を名乗らず蓮舫で通しているというが、それでは「扇千景」や「横山ノック」であればよいのか?「橋下聖子」のように、結婚した後も旧姓を名乗り続ける女性はどうなるのか?右翼の筆頭のように扱われていた「野田聖子」も苗字の扱いでごねていたではないか?馬鹿馬鹿しい議論である。我が国は「イチロー」のようなマーケティングに長けた名前使いを許容する文化なのだから、下の名前だけを名乗っていても良いではないか?政治家など、所詮は水商売なのだから、名前など何でもよいのだ。夫婦同姓を強要されて選択の自由を与えられない可能性が高いのは女性であるが、旧態依然としたこういった夫婦別姓とかに風穴を開けてくれそうで、逆に応援したくなる。

私が思うに、蓮舫に難癖をつけている連中は色々いると思うが、ネット右翼のような保守的な考え方を共有している人達だと思う。議論の根幹には、「日本人の血統主義」や「男尊女卑」といった考え方があるのだと思う。(蓮舫のリスク対処の仕方が悪いとか、嘘をついたらいけないとか、そういう批判はあり得るが、それと二重国籍問題とは関係ない。)

いずれにせよ、私学を出て海外に精通していたような人間が、永田町界隈から霞が関に影響を及ぼすという事を恐れている「エリート連中」が大勢いるのだろう。こういう人材は外資系やマスコミに行ってくれていたのに、千代田区に進出されると鬱陶しいのだろう。あくまで、日本の国体をタッチされたくない。何故なら蓮舫は、「東大卒・霞が関勤務」という伝統的なエリート街道の価値を貶める可能性のある人間だからである。

蓮舫と野田元首相を中心として、しっかりと民進党を立て直し、都会の一般層に受け入れられるような真っ当な政党にして欲しいと思う。バラマキ自民党には辟易としている。(憲法第九条護持とか言っている今のままの民進党では無理です。応援できません。)

10/05/2013

淀川区は同性愛者を支援するべきであるが、バイセクシャルを公的機関が支援するのか?

大阪市淀川区が「LGBT(性的少数者)支援宣言」をしたそうだ。レズビアン「L」やゲイ「G」という産まれながらの同性愛者を社会的に差別を受けない様に支援するのは当然である。しかし、何故「B」が入っているのかが不明である。前にも述べたが、バイセクシャル「B」はただの性的「嗜好」であり、悩んでいようとどちらか一つを選択するべきであり、公的機関が支援するような問題ではない。生まれながらの同性愛者と一列に並べるのは、本当に支援が必要な同性愛者を蔑ろにする行為であり、どうかと思う。バイセクシャルを支援することは、不倫や二股三股を支援するのと変わりない。トランスセクシャル「T」というカテゴリーも定義が不明であり、Gと重複していると思われる。ヒッピーなゲイコミュニティーの可笑しな専門用語を使わないで、普通に「性的少数者支援宣言」と言えば良い。産まれながらの性に悩む人たちが住みやすいコミュニティーにするという主旨に対して、誰も文句はないと思う。が、個人の性嗜好(バイセクシャルやトランスセクシャル)については、個人の勝手であり、公的機関が支援したり妨害したりする問題ではない。

淀川区は、性的少数者以前の問題として、もう少し人権などの解決できていない問題に真摯に取り組むことから始めた方がいいのではないか?まあ、こういった地方自治体の何とか宣言など、ただの阿呆な標語に過ぎないのだが。

7/19/2013

ジマーマン事件を人種問題として政争化させたアメリカ、韓国併合問題がいまだに政争化している日本

ジマーマン事件、特集

ジョージ・ジマーマンが無罪になったケースを「人種問題」にすり替えている米メディアに辟易としており、言いたいことが一杯ある。何故ここまでイラつくのか自分でも解らない。この記事によってきちんと整理し、一旦区切りをつけ、自分の仕事に集中したい。

以前、竹中平蔵の記事を読んだ時に、「なるほど!」と驚嘆したのだが、その説によると批判するには三つのパターンしかないという。今回のジマーマンの事件の評決に関して批判している人は、自分の意見と異なる人達に「差別主義者」というレッテルを張り、永遠の真理を謳っているのだ。しかも、それを「正義」だと主張している。

今回の問題の根本には、黒人社会が自分たちの置かれている状況を嘆いているところにあるのだと思う。米国において、黒人層の貧困が解決するべき社会問題である事は論を待たない。多くの米国人が、故意であれ無意識であれ、黒人を色眼鏡で見ている事も間違いない。国籍、性別、人種などは自由に選択することが出来ず、本人の努力とは全く関係がない。生まれた時の運次第である。しかし、それらによって差異が生じている事は疑いのない事実だ。それらの差異は、多くの場合で残念ながら打開することは不可能である。これは人間社会における克服できない永遠の問題であると思う。そして筆者は黒人ではないので完全には理解できないのだが、単純に述べると、黒人に生まれた多くの人は、白人が生まれながらに手に入れている何かを妬んでいるのだろう、と信じている。

1.正義とは?

サンデル教授ではないが、「正義」の話をしたい。法に則った行動がすべて「正義」であり、違法な行動は「正義」にもとるのか?

私たちの社会では、合法だがモラルに反する行為や、違法だがモラルに則った行為と言う物に頻繁に遭遇する。だからこそ、映画は盛り上がるし、小説家は話題に事欠かなかったわけだ。例えば、ナチズムは当時のドイツでは合法であった。しかし、それを「正義」とする事はどうか、という話が当然成り立つ。後述の奴隷制度や植民地政策もしかりである。確かに時代が進めば進むほど、モラルと法律を近づけようと努力されてきたため、そういったギャップは縮まりつつある。

正義にはいろいろな種類がある。ここでは、法正義とモラル正義を比べる。モラル的な正義には危うさが付き纏う。時代、宗教、生活環境などにより、モラルは十人十色であるからだ。モラルだけを信じてしまうと、我々は日常行為に自信が持てなくなってしまう。今は許されているが、動物の肉を食べる行為は、モラルにもとる行為ではないのか?ベジタリアンは肉食は罪だと言っている。このように、モラルに裏付けされるような万人に共通する正義はあり得ない。近代社会では国民が国家という制度を許容し、国家が法律を作り、それに国民は従うと契約している。国民は国家と契約した以上、法律をルールと見做し、ルールに従った法正義の行動をとる義務がある。法律を守っている以上、個人は国家から消極的ではあるが自由でなければならない。つまり法治国家では、法さえ守れば逮捕されることはないのだ。故に、正義はその法律によってのみ定義することが可能であると思うのだ。法を超えたモラルの話は、人々の「意見」に過ぎないと考えている。越権行為で逮捕される世の中は、危険であるのだ。勿論、それらの「意見(或いはモラル的な正義と呼んでも構わない)」は、政治家が法律を改正することにより、将来の正義にはなり得る。

よって、異なった法律を持つ国家や時間軸をもって、「正義」を語る事は慎むべきだと思っている。私がここで使用する「正義」は、あくまでも法正義の事である。ナチズムを批判する際にも、その時代にはドイツ第三帝国において合憲であった、としか言いようがない。これはナチズムを肯定しているのではない。歴史を客観的に述べているだけである。しかし、ナチズムの憲法やその他の法律に当時従った人達を、あなたは裁くことが出来るのか?国際法に違反するとアウトだが、当時のそれ以外のナチス支持のドイツ人は第三帝国と契約しており、その法律に従っただけに過ぎない。その当時の社会を攻撃対象とすることは、余りにもアンフェアである。それならば、政治や宗教などのイデオロギーに則って行動しているテロリストを現代国家が裁くことなどできなくなるのだ。何故なら、未来に何が正義とされるのかが解らないからだ。私がここに書いている意見を嫌う感情的な人や現状の制度を信じて疑わない自信過剰な人の方が社会にはむしろ多いと思うし、そういった意見は尊重したい。ただ「常識」や「モラル」は揺らぐので、客観的な価値判断には使えない。

2.米国の奴隷制度と黒人

話を黒人問題に戻す。黒人の祖先の多くは、奴隷貿易でアフリカから新大陸に連れてこられた。当時のアメリカにおいて、奴隷制度は憲法で認められていた。1865年に憲法が修正されるまで、奴隷制度は法正義であり、それ以降は不正義になった訳だ。正義だからと言って問題がなかったわけではない。正義だとしても社会問題であったのだ。故に、南北内戦でアメリカ人同士の殺し合いを経てまで、憲法は修正されている。奴隷貿易の過去は現在の政府にはCondemn(非難と訳して良いものか?)されている。

米国の黒人社会は、いまだに奴隷貿易を引き摺っている。現在の黒人社会における貧困や脆弱な教育といった問題は、奴隷制度が由来であると考えている人たちが大勢いるのだ。そうかもしれないが、そんな事をいまさら言っても仕方がない。すでに奴隷制度は不正義となったのだ。

今日においても白人に対して「プランテーションメンタリティー(入植者精神)」を持つな、などといった意見を言う黒人を多く見かける。モラルの正義を持ち出して、過去の奴隷貿易の良し悪しを議論すれば、必ず白人側は防衛一方となる。奴隷制度の過去は政争にも使われる。しかし、現代の多くの白人は奴隷貿易に直接関わっていないどころか、多くの人が黒人に同情しているという事実もある。未だに黒人に積極的な差別感情を抱いている糞白人もいるだろうが、そういった人達は寧ろ極少数派だ。黒人であれ、白人であれ、21世紀において奴隷貿易の話を蒸し返す発言をする人達は、人種間戦争でも起こしたいとしか思えない。だが、逆にいうと、マイノリティー側は強力な武器を手に入れていると言っても過言ではないだろう。

これらを利用し、黒人の人権擁護団体が利権を漁っている。公民権が保障された時点で、それらの団体の主な役割は終わった訳だが、いまだに過去の栄光を引きずりながら団体として存在している。それらの団体が自分たちの私腹を肥やし、力を入れるために、積極的に差別事象を作り上げる。そして、それらに乗りかかる自称リベラルな人達が結構な数いる訳だ。で、それらリベラルな人達が、人種問題から目を反らしたい普通の白人を「保守主義者」というレッテル貼りをする。

勿論、アメリカ人の多くは黒人団体やリベラルな運動家の意図を見透かしている。ただ、自分の評判が傷つくので、政治的な意図がない人達は、それらを積極的に非難することは出来ない。匿名のツイッターを見て貰えば、CNNやMSNBCで言われているのとは異なった意見が多い事に気づくだろう。勿論、政治運動家の戯言と無視することも可能だ。しかし、本当にそれでいいのか?

今回の「トレボン・マーティン射殺事件」をニュースで聞き流した国外の人はどう思うだろうか?例えば、日本国内向けには保守的な産経であるがこの事件についてのニュースの報道には保守の姿が見えない。裏事情を知らずにこれを読めば、黒人が可哀想だと考えると思う。トレイボン・マーティンがギャングのような不良で、ジマーマンが車に帰ろうとする時に襲われて頭を何回もコンクリートに叩きつけられたとは書いていない。一番の問題は、このニュースは日本では興味がもたれない為に、商業的な価値がないという事だと思う。で、日本国内で流されている少ない情報から、アメリカの白人社会は黒人社会を差別し、おかしな政策を作っていると考えるかも知れない。だが、それは明らかに不公平な意見だと思う。例えば、いつもは左寄りで大嫌いな経歴詐称をしている人物も、今回の批評では私と変わらないような発言をしているのだ。

3.わが国では?

ここまで書くと、おやっと思う読者も大勢いるだろう。

朝鮮・韓国人社会と日本との関係に似ていないだろうか?例えば、いわゆる従軍慰安婦問題などの話を蒸し返すのは、全く同じパターンだと思う。法律、時代背景や社会問題を完全に無視した場合、管理売春の様な行為は女性の権利を踏みにじっているはしたない行為である。一般の善良な市民は、性産業にモラル的な罪悪感を持っている。それはユートピア的な「モラル上の正義」なのだと思う。当時の社会状況では仕方がなかったにせよ、ほとんどの日本人は、過去に植民地主義や管理売春を大日本帝国が実行或いは許容していたような事実については触れてもらいたくもない。同時に、ほとんどの人が韓国人や在日韓国・朝鮮人に対して一種の罪悪感の様なものすら持っている。

だが、一部の韓国・朝鮮系の人達や、リベラルなメディアは、モラル問題でこれらの歴史を政争として蒸し返す。従軍慰安婦の存在を無視したり否定したりする立場の人間は「軍国主義者」や「極右」であるとレッテルを貼られる。それに対して、保守派は青筋を立てて否定する。この問題も一部のリベラルメディアの経済的な理由による恣意的な報道から発展していったと信じられているが、これらが社会に与えた影響は余りにも大きい。挙句の果てには、ゴミの様な社会的な負け犬たちが、新大久保などで差別発言を繰り返しながらデモ行進を行っている。日本と朝鮮半島の問題については、色々な人が客観的な分析をしており、ここでは詳しく書かない。

4.合法的に搾取した歴史については、モラル論を振りかざされると絶対に勝てない。

私は、一部の東アジア地域が日本に対して行っている反日社会運動と、アメリカにおける黒人社会の運動の戦略がだぶついて見えてしまうのだ。日本も、アメリカの白人社会も、絶対に勝てない防戦一方の試合を強いられているのである。むしろ攻撃相手は、攻撃の手を緩めないで、ごねればごねるほど有利であるのだ。そうすれば、自分たちの政治メッセージがより広く伝わる。

私は過去の合法的な搾取の歴史を修正しようと言っているのではない。アメリカの白人にせよ、日本にせよ、欧州にせよ、多くの人は過去の合法的な搾取の歴史を個人として自省している。国家としても過去の搾取対象だった地域やグループに対して、色々な貢献をしてきた。勿論、表現の自由が確保されているので、頭のイカれた団体や、教育を受けていない個人が「エクセントリックな意見」を主張したり、金儲け主義のメディアが今回のケースの様な「ある事ない事揚げ足を取って報道」することはあるだろう。しかし、全体的にきっちりと反省した上で、臭いものには蓋をしているつもりなのに、それを蒸し返される事は「政治利用」以外の意味が見いだせないと言っているのだ。それが分っているので、特に左翼の現制度に反対する政治団体は、むしろ昔の過ちを積極的に利用しようとする。

残念ながら、これらは当事者以外には興味がない小さな問題だ。日本ではジマーマンのケースが政争に使われている事実はほとんど報道されていない。黒人対白人の問題に日本社会は興味がない。情報に疎い人達は、メディアを通じて入って来る「黒人をしいたげるアメリカ社会」という話を信じ込んでしまうだろう。同様にアメリカやヨーロッパも、極東地域の政争に興味はない。アメリカでは、韓国や中共で行われている反日運動について、表層以外は報道されない。ほとんどのアメリカ人にとって、アジアの極東の問題など、どうでも良いわけだ。そして、多くのアメリカ人は日本が右傾化しており、軍国主義にいまだに憧れを持っており、韓国や中国を蔑んでいるのだと信じている。そして、そのようなイメージこそが、政治団体(右も左も)の寄付金集めに大いに役立つのだ。

しかも、この問題をややこしくしているのは、黒人や韓国人側に産まれた人は、この問題を窘める側に回る事が極めて困難な点である。黒人が白人側を擁護したり、韓国系が日本人を擁護すれば、もっとおかしなレッテルを貼られる。従って、常識のある人は「どっちもどっち」というような意見を言わざるを得ないのだ。名前を出しているコラムなどで、そういった常識的な人達の意見を読むと、ある意味で可哀想だとも思う。

表現の自由が許される民主主義社会であるのだから、情報を客観的に分析する能力が一人一人に求められている。私は科学者として、法正義とモラル正義以外に、もう一つの正義を認識している。それは事象を客観的にとらえた「事実」と言う名の正義である。ユートピア的な考え方であるとは承知しているが、感情論ではなく「事実」を大切にする社会に憧れを抱く。

5.デモは続く

それでもデモは続いている。トレイボン・マーチンという、学校で何度も停学を喰らったり、未成年の癖にマリファナを吸ったり、自分が撮影した女の子の裸をSNSにアップしたり、何故か鞄からいくつもの宝石とスクリュードライバーが出てきたり、近所を監視していた善良なヒスパニックの自警団をぼこぼこにしたりするような、そんな不良の名誉を守ろうと、全米各地でデモが繰り広げられている。この不良少年の名誉を守るという行動こそ、安重根の銅像を作って讃えようとしたり、従軍慰安婦の像を作ったりするような行為と重なるのだ。神経の逆撫でをするような非常に不快な行為である。私は匿名なので、この記事を書いている。もし私が自分の名前をさらす必要があれば、ここまでは書かない。自由な議論をする余地すら奪う非常に卑怯な政争工作を、トレイボン・マーチン擁護派は仕掛けているのである。SNSやツイッター上で流れている、上品な黒人利権団体批判論は、フォックスニュース以外では取り上げられることはない。

7/16/2013

ジマーマン事件の感想をフェースブックに載せると、「差別主義者」と罵られる。

ジマーマン事件、特集

ジョージ・ジマーマンの事件で色々思う所があったのでフェースブックに書き込みをした。日本語に翻訳して要約すると「今回の件は銃が問題であるのに、メディアは人種問題にばかり光を当てている。これを一番喜んでいるのは銃規制に反対する者たちだけだ。」というかなりオブラートに包んだ表現を使ったのだが、結構評判が悪かった。私のアメリカ人の友人にはリベラル系が多いのだが、「人種こそが今回の事件の元凶である」や「黒人のお母さんの気持ちを考えよ」などといった「リベラルな」意見を沢山頂いた。酷いものになると「お前は差別主義者だ!」と来た。アメリカ人に差別主義者と罵られたことは、ある意味嬉しかった。いつもは「Like」を押してくれる友達も、羹に触りたくないのか、反応はかなり悪かった。

私の主張ははっきりしている。
  1. ジョージ・ジマーマンがトレイボン・マーティンを殺した今回の一連の経緯に、人種差別はなかった。
  2. フロリダの法律に則ると、ジマーマンに下された無罪判決は予想通りの常識的なものであったし、それこそが「正義(ジャスティス)」である。
  3. フロリダの銃に関する法律は、混乱が生じないように積極的に改良するべきである。
  4. 出来る事であれば、国家レベルで長期的な視点をもって銃規制に力を入れるべきである。
  5. アメリカの人種問題、特にアフリカ系アメリカ人の貧困は深刻な問題であるが、それは今回のケースとは別の社会問題である。

ただ、1と2は、アメリカの感傷的な左派には到底受け入れられなかったようである。私は理路整然と、今回の一連の話を考え続けた。が、どんなに努力しても、人種問題がこの事件に直接影を落としているようには考えられないのである。しかし法廷の外では人種が問題とされた。メディアは視聴率稼ぎの為か、人種問題に焦点を絞り、事件の「台本」を作った。そして一部の人、特に格差是正などのデモをしている人たちが、この事件を人種差別の象徴と使い始めたのだ。

NCAAP(全国有色人種向上協会)がマーティン家の弁護士を務めたり、法廷外のデモを主導していたりするのだが、この団体が事件を人種問題と結び付けたいようだ。NCAAPは国民の公民権問題で数十年前には色々な功績を残したが、近年は人権圧力団体に成り下がっている節がある。この団体は、銃規制についてはほとんど触れないし、そっちの方向に話が行かないように気を付けている節すらある。NCAAPは、ジマーマンが人種プロファイリングした事を問題視している。

人種プロファイリングとは、人種帰納とも呼ばれ、「人種」によって不審人物かどうかを推測して、職務質問などをしたりする事である。黒人が分譲住宅地の中を歩いていたと言うだけで、ジマーマンはマーティンを怪しく思い、尾行し、最終的に射殺に至った、と言う物である。つまり、マーティンが黒人でなければ、マーティンは殺されていない、という事になる。

私が法廷のやり取りを掻い摘んで聞いた情報から推測する物語とは、かなりかけ離れている。ジマーマンが住む分譲住宅の敷地内で、空き巣などの被害が相次いでおり、黒人少年が逮捕された。しかし、いまだに空き巣の被害は減っていないので、自警団であるジマーマンは、警察の対応に不満を募っていた。ある寒い雨の夜、黒人の少年がフードを被って、家々を物色しながら、裏地を歩いていたので、不審に思った。しかも、薬物等を使用している様子すらあった、というのが事件公判で明らかになっている。

勿論、この話がジマーマンの都合に合わせて作られていないとは限らない。ジマーマンは警察に電話をし、「最近この辺りは空き巣にやられているのですが、明らかな不審者がいるのです。この男は、多分良からぬ事を企んでいるのか、それともクスリか何かをやっているのか、そんな感じです。」と告げた。それに対し、電話交換手の女性が「その男は、白人ですか?黒人ですか?それともヒスパニック系ですか?」と聞いたのを、ジマーマンが「黒人みたいです」と受け答えをしている。

しかし、左寄りのNBCは、このテープを編集して「This guy looks like he’s up to no good. He looks black.(こいつは、良からぬことを企んでいる。こいつは黒人だ)」としたのだ。このように続けられると、かなりの印象操作である。NBCのニュースで何度も流されたのだが、これを聞けば視聴者はジマーマンが黒人だからマーティンを追いかけたと考えても仕方ない。しかも、下の二組の写真を見て欲しい。上の写真の代わりに、下の写真が使われていたのだ。かなりイメージが違うだろう。

この日は二月の雨のフロリダにしては寒い時期で夜7時だったので、ジマーマンは「Fucking Cold!(糞寒いなぁ)」と言った。それを、左寄りのCNNもジマーマンが「Fuckin coon!」と言ったと誤報道したのだ。Coon(クーン)は黒人に対する差別用語である。クーンと言えばラクーン、つまりアライグマの事でもあるが、それとは関係ない。奴隷貿易の時に、「Barracoon」と呼ばれる檻に入れられて黒人がアメリカ大陸に運ばれていたことから、黒人をクーンと蔑むようになったという。こんな事がニュースに伝えられれば、色眼鏡で見てしまうだろう。

メディアのレベルの低さや、視聴率目当ての誘導的な手法を批判しだせば、5冊くらい本が書けるところであるが、その話は脇に置いておこう。私は、この「射殺」事件の背景には人種問題はなかったと信じて疑わない。しかし、何故黒人たちを中心に、そこまで人種の問題が取り上げられるのかが理性的に理解できないのだ。ニュース番組に出てくる人種問題根拠説を唱える人達は、物凄く感情的である。勿論、あの人たちの知能指数が足りないので、メディアにころっと騙されて、ジンマーマンに対して感情的で不公平な逆差別をしている、などと断じる事は簡単かもしれない。しかし、それでは腑に落ちないのである。

マーチンは暴力を振るったにせよ、所詮は未成年である。黒人の不良なら、正当防衛の名の下に殺されてもいいのか?黒人の不良が虫けらの様な扱いを受ける社会は、おかしいのではないか?私は、色々な点でこの意見を支持することは出来ない。まるで、素行不良を容認するような発言であるし、黒人やラテン系を中心とする未成年のギャングメンバーによる殺人事件が後を絶たない社会の現実を無視しているようにすら思うからだ。しかし日本でも、偏差値の足りない未成年がお祭りでバイクなしで暴走族の真似をするような事もあり得るわけだし、カツアゲ行為などをしている人達も多くいるわけだ。アメリカでなら、これらの子供同士が殺し合いをしたり、一般人を死傷させたり、正当防衛の名の下に殺されたりすることもある訳だ。アメリカでは「ワル」をすると命を失う可能性が高いわけだ(注:日本でもワルは良く死亡事件に巻き込まれています)。何故か?アメリカでは簡単に銃を手に入れることができ、人を簡単に殺すことが出来るからだ。

しかし、NCAAPは銃ではなく、「プロファイリング」を問題としている。言うまでもなく、人種によって人を犯罪予備軍と見做すことはおかしい。特定の人種が悪名高くとも、ほとんどの人は善良である。ベイズの簡単な式を使って考える。例えば、ある町では犯罪者で逮捕した者の80%が黒人であるとする。この町の住民のうちの30%が黒人であるとする。犯罪率は1:1000人である。こういった状況で、黒人をランダムに職務質問して、その黒人が犯罪者である確率は0.3%に満たないのだ(ベイズによりP(犯|黒)=P(犯)*P(黒|犯)/P(黒))。つまり黒人のうち、375人に1人しか悪い奴はおらず、残りの374人は善良な市民という事になる。374人の善良な市民は悪くもないのに職務質問を受け、気分が悪くなる。その犠牲のもとに、1人の犯罪者を検挙することは社会的に許されるのだろうか?これがNCAAPの主張である。まあこれはランダムに選んだ場合にいえる事であって、実際にプロファイリングする際は人種以外の要素も考察されようし、明らかに悪そうな奴もいる。だが、実際に黒人は日常的に不審な目で見られることがあるようで、イラつく事も多々あるようだ。

私が以前住んでいたシアトル近郊の町で、ある時期に空き巣が頻繁に起こった。ある日、私の大家が不審な黒人を見つけ、警察に通報した。連絡を受けて駆け付けた警察が職務質問をした結果、その不審な黒人が連続空き巣犯である事が判明した。私の大家は警察から感謝状をもらった。どうも電話したのは私の大家だけではなかったようで、何人かが感謝状を受け取ったようだ。何故私の大家が警察に電話をしたのか?その人物が不審であったからだ。それが偶々黒人であっただけである。今回のジマーマンのケースと全く同じである。NCAAPの主張に沿えば、これも人種差別なのか?

もし、NCAAPの主張が正しいとして、NCAAPは一体どんな政策を提案出来るというのか?もし人種によって、犯罪のプロファイリングが禁止されれば、不審者がマイノリティーであった場合に警察等に電話することを躊躇う事態が出てくると思われる。不審かどうかなど、直感に頼るしかない訳だ。理性的に判断などできないし、予防的な措置が犯罪を防ぐ可能性もある。フォールスアラームもあろうが、犯罪者を捕まえる事が出来る方が良い、と私は考える。警察は、不審者を見かけたらすぐに通報するように、市民に促しているではないか。

NCAAPが差別のない社会を作りたい、肌の色が障礙にならないような社会を築きたいという理想論を説くのは自由であるし、私もそうなって欲しいと切に願う。しかし現実問題として、社会の安全性の中で、犠牲にしなければならないものも多くある。プロファイリングを責めるのは、個人の心の領域に踏み込む行為であり、社会の安全を脅かす可能性も考えられ、自重するべきであると考える。社会に対してマイナスが大きすぎるのだ。私は怪しい人物を見かけたら積極的に通報しろと言っているのであって、黒人を見つけたら通報しろ、と言っているのではない。ましてや、人種差別を助長している訳でもない。逆に、行動を起こす人種差別主義者や、面白がって差別的な主張を繰り返す者たちは、社会の福祉に反する犯罪者であると考えている。差別のない社会を作るべきであるが、教育の向上など、気長に投資していくしか解決方法はないのではないか?

ジマーマンに対するレッテル張りは、黒人社会と「普通の」白人社会の間に溝を作る行為である。ジマーマン自体は警察ではないし、でしゃばり過ぎた。しかし、正義感に溢れたコミュニティーを大切にしたいタイプの人間である、と私の目に写った。メディアが面白がって人種問題を扱えば扱うほど、政局が二極化して、法案も通らなくなるだろう。フロリダなど、米国南部でいまだに健在な自己防衛法の在り方など、社会的に議論することは山ほどあるというのに。

今回の事件ではマーチン側にも自己防衛の権利があった筈だ、と論じる人もいる。状況証拠からは、マーチンが最初に殴りかかったものと考える方が妥当なのだと信じているのだが、目撃者がいないので100%そうだとは言い切れない。仮に、マーチンがジマーマンを撲殺していたとしよう。銃をもった男に脅された為に、自己防衛したのだといえば、無罪放免になる可能性もある訳だ。「もしも」の話をしだすとキリがない訳だが、スタンド・ユア・グラウンド法がどれだけの悪法かが解ると思う。ただ、法治国家では、悪法も法なり、であり、悪法故に個人を裁くことはあってはならない。気に入らなければ、選挙によって選ばれた政治家が法律を変えるしかない訳だ。

まあ、一つ学習したことは、SNSで政治発言をすると危ないという事だ。匿名のブログの中だけで好き勝手言います。長文に付き合わせて、申し訳ない。

7/15/2013

ジマーマン事件で再考した差別問題とアメリカ

レイカースを離れたメタ・ワールドピース氏(笑)が、ニックスとサインしたという事である。ワールドピース氏を獲ろうとは、ニューヨーク・ニックスは面白いチームである。NBAの話はこの辺で置いておこう。

ジマーマン事件、特集

で、アメリカの人種差別の問題だ。アメリカでは人種差別の問題は、いまだにタブーであるし、「隠れ人種差別主義者」が年上の層を中心に、結構いる。アメリカも広い。シアトル界隈では、アフリカ系アメリカ人が比較的少ないので、人種差別的な問題を感じる事はなかった。しかし、ニューイングランドに住んでいた時は自分が外国人であると日々思い知らされた。現在は米国の南部にいるが、人々は以外にも優しいという物の、ほんの数十年前まで黒人を迫害していた傷跡は未だに残っている。

アメリカでは、奴隷制度が敷かれており、1800年代半ばまではアフリカ大陸から大量の黒人奴隷を新大陸に連れてきたわけだ。しかし、1865年に内戦である南北戦争が終結し、北軍が勝ちをおさめ、合衆国憲法を修正し、憲法上は黒人奴隷の解放が実現した。

しかし、憲法は公民権を与えただけであって、「私人」や「民間企業」による差別を禁止した訳ではないと解釈された為、20世紀の前半はアメリカ全土で人種差別が罷り通っていた。黒人だけではない。アジア人なども、カリフォルニア州では白人と結婚できないが、ワシントン州では白人とでも結婚できる、などと言った人種隔離政策のようなものが幅を利かせていたわけである。

二つの大戦中は軍隊の内部などでも、白人と黒人で制度的な差別が蔓延していた。1948年になり、初めて軍隊内での人種隔離を禁止する命令が下されたもののベトナム戦争までは白人と黒人の混合部隊は実現していない。

50年代はアメリカ南部ではジムクロウ法の影響もあり、黒人差別が色濃く残っていた。しかし、マーチン・ルーサー・キング牧師の公民権運動を経て、1964年にようやく、ジョンソンが公民権法を制定させ、黒人差別が米全土で禁止されるようになる。

つまり、アメリカでは黒人差別が終わってから、50年も経っていないのである。古い人々の記憶の中には、差別が許されていた時代が色濃く残っている。そして、差別問題で「左」と「右」に分かれて政争を繰り広げられたことも覚えている訳だ。

日本でも、戦争の是非や在日問題が、一種のタブーだった時代が長く続いた。そして、現役世代が完全にボケ始めたころになって、漸く自由に議論できる風潮になった。草の根レベルでは、小林よしのりが果たした役割がかなり大きいと思っている。「戦争論」だけでなく、「差別論」なども、戦争問題や差別問題のタブーを取っ払い、左と右の拗れを消し去って、戦後意識を本格的に終わらせた偉業であると考えている。

しかし、アメリカでは、小さい時に差別社会で育った人たちがいまだに現役である。先月には、フードチャンネルで南部料理を紹介するポーラ・ディーンと言うカリスマお料理タレントが、黒人蔑視発言(注:ニガーと言っただけ)をしたという事で、フードチャンネルと契約を切られてしまった。過剰とも言えるニュースメディアの反応を見ていると、正直、違和感を抱くが、人種差別を受けて育った人たちが大勢生きている事を考えると、複雑な気持ちにもなる。

アメリカの若い子供と接していると、人種の垣根はあまり見られないと思う。まあ、オバマ大統領が当選したことでも、人種差別時代からは大きく変化したのであろう。しかし一方で、中年より上の人達は、いまだに人種差別や南北戦争を引き摺っている。アメリカ北部に住む人たちのアメリカ南部地域に対する蔑視は、気持ち悪い。黒人の白人に対する偏見は聞くに堪えない。貧乏な南部の白人は、未だにプランテーションメンタリティーを抱いている。

アメリカも、まだまだ時間がかかるのだろうと思う。公民権的な考え方では、明らかにアメリカ社会には大きな問題が横たわっている。しかし、若者たちを見ていて、こうも思うのだ。きっと、近いうちに、アメリカ版の小林よしのりが現れて、この問題に終止符を打ってくれるのだ、と。

アシアナ航空が地方テレビ局を「差別」問題で提訴

アシアナ航空がサンフランシスコの地元地方局であるKTVUテレビを人種差別的なパイロットのデタラメな名前を公表した為、訴えることにしたという。興味は、どんな酷い人種差別をしたのだろうか、という事になる。以下の四つの名前が公表されてしまったのだが、

Captain Sum Ting Wong
Wi Tu Lo
Ho Lee Fuk
Bang Ding Ow.

初めの名前は、Captain, something wrong (キャプテン、何か異常です。)
次は、we're too low (当機の高度は低すぎるぞ!)
そして、holy fuck (こんちくしょう!)
最後は、飛行機が bang, ding (バーン、ディーン「激しい衝突の擬声音」)そして乗客はow(オー「激しい驚きを表す擬声音」)

と来た。無理やり日本語にすると面白くないが、英語が解る人なら、結構考えられたジョークであると思う。このジョークは、その地方局の夏休み中のインターンが作ったものだったが、何故か放送されてしまったという。まあ、趣味の悪い放送事故である。これが、11時台のトゥナイトショーのジェイ・レノ(ABCテレビのナイト・イン・ナイトみたいな物)や、コメディチャンネルのダニエル・トッシュが漫才として言ったのなら、「めっちゃ、おもろい」で終わる話だ。だが、地方局のニュースでこれを流すのは、プロ意識に欠ける最悪の放送事故である。

しかし、これは人種差別的な名前なのだろうか?中華系の名前を持つ人は、違う文化圏の人にその名前をからかわれることもあるだろう。しかし、それが「人種差別」であるとするのは行き過ぎていると思う。日本人がパーティーなどに行くと、酔っぱらった外国人に「フジツー・カワサキさん、アリガトゴザイマス」などとからかわれることもある。気分が乗らない時は鬱陶しいものであるが、人種差別ではないと思う。

アシアナ航空は、品の悪いプロ意識に欠けた放送事故を逆手にとって、金科玉条のごとく「差別」論を展開したと考えるのが適当であろう。差別のレッテルを張られれば、メディア側はあらゆることを自制しなければならなくなり、ある事ない事を放送されるリスクが減るからだ。

米メディアは日本のメディアと同じで、基本的にリスクを取らない。一方で、攻撃できない対象は徹底的に叩く。そして、ある事ない事を必死で煽って、視聴者を鼓舞させ、視聴者をテレビの前に釘づけさせる。自由な意見を言っているように見えて、出演者の役割分担がはっきりしており、些細な問題であれ、二極分化するように持っていこうとするし、すぐに政争化する。

勘違いしている人も多いと思うが、アメリカのメディアは、質的には日本のメディアとほとんど変わらない。ケーブルニュース系の、フォックスにしても、CNNにしても、MSNBCにしても、かなり質が低いし、大衆迎合的で、下世話が好きである。ABC、NBC、CBSの三大ネットワークのニュースも「ソフトニュースを流し過ぎている」と考えている年配の人はかなり多い。前回の書き込み、ジマーマンのケースもメディアの行き過ぎが混乱を招いているとして、間違いないと思う。

あらゆる事に「人種差別」を持ち出して、自分の相対的な立場を上げようとするやり方は、卑怯以外の何物でもない思う。実際に人種差別に合って権利を侵されている人に対しても卑怯であるし、人種差別意識が無くていざこざを起こしている相手に対しても公平ではない。さらに、社会を煽動するという意味でも、卑怯この上ない作戦であると思う。社会的な立場を考慮すると、第三者は表立って反論できないという事も強調しておきたい。

アシアナ航空に言いたい。恥を知れ、と。そして、ジマーマンのケースで人種差別問題を炊きつけられて騒いでいる人達にも言いたい。頭を冷やせ、と。そして、ジマーマンのケースで人種差別を煽っているNAACPにも言いたい。あんたらの使命は既に終わっているのだ、と。メディアにも言いたい。視聴者を煽るな、と。そして、視聴者に諭したい。メディアに騙されずに、真実だけを冷静に見ろ、と。

人種差別を金科玉条のごとく使ってくるグループとしては、黒人グループ、ユダヤ人グループ、そして韓国人グループがある。多くのアメリカ人は、大きい声で公式的な立場では言えないが、正直「Again?(またか…)」と思っている。そして、こういった事を利用して、リベラルな政治的立場を表明する左寄りの人達が溢れて来て、それらの団体をサポートし始める。上述のグループは、そういった一連の動きの中で、ますます政治力を強めることになり、やがては票が欲しい政治家なども関与してくる。資本主義社会で民主主義的な国では、良く見る光景と言ってしまえば、それまでなのだが。

人種差別などを簡単に濫用できないような社会になることを、切に願う。

7/13/2013

ジマーマン、無罪確定!


ジマーマン事件、特集

陪審員の長い審議の結果、ジョージ・ジマーマンは無罪であると確定された。予想通りと言えばそれまでだが、前述の書き込みを見ていただければ解るが、この判決には勝者はいない。敢えて言うならば、お金も儲かり、名前も売れた弁護士のみが勝者なのだろう。法治国家で、法律の上で裁きが正しく下された事は良かったと思う。だが、その法律そのものは大幅な改良を要する不良品であった。

未だに人種問題が言われているが、この特定の事件の背景に人種問題があるようには見えない。「銃社会」が引き起こした悲劇にしか見えないのだ。そして、メディアは銃についての話を避け、安易な人種問題に話をすり替えようとしている。完全に何かが間違っている。人種問題で騒ぐ人たちも、タブーに触れたがらないメディアも、狂っていると思う。

フェースブックの書き込みなどを見ていると、この判決に不満を持っているリベラル系の友人が多くいるのに驚かされる。この話を無罪と無期懲役、ジマーマン対マーティンの遺族、或いは黒人対白人といった白黒で語ろうとしている人の多さに驚かされる。社会の法律的な不備をもって、人々を犠牲にする社会が良い社会だと言えようか?

西海岸を中心にデモが巻き起こり、ジマーマンを公民権違反で起訴しようとする動きすら出ているという。第一に、今回の事件が差別的な要素を含まないと信じて疑わない上に、個人対個人で公民権が犯されるという意味が解らない。敢えて言うなら、そのような報道を受けたり、マスメディアにでっち上げられているジマーマンの公民権が犯されているようにすら見える。デモに繰り出した一部のアフリカ系アメリカ人は暴徒化し、店舗や車を破壊している。一方、フェースブックやツイッター上では、マスメディアの行き過ぎや、黒人人権擁護派のがめつい行動を非難する、尤もな意見が並んでいるのだが、こう言ったものが日本のメディアに取り上げられることもない。

永遠の真理も理解できる。黒人たちの貧困は解決しなければならない社会問題だし、人を肌の色で「差別」するべきではない。では、社会に何ができるのか?黒人社会自体が一丸となって頑張らない限り、この問題が解決することは無い。黒人社会は文句ばかり言って、義務を果たしていないと考える尤もな意見も多いと思う。父親が子育てを放棄して、シングルマザーに育てられる。そして、家でMTVを見て、ギャングスターに憧れを抱く。貧困の中、都会のゲトーに住む。黒人が多くなったゲトーは治安も悪くなり、誰も商売などを始めようとせず、社会インフラも欠けていき、ますます貧しくなる。

人種問題を絡めて、政局を二極化し、法律にイデオロギーを含ませ、社会コストを無視しているアメリカの空気については怒りを禁じえない。色々チェンジしてもらわなければ困る事があるのだ。

元アトランタ・ファルコンスのマイケル・ヴィックがドッグファイト(闘犬)をやって禁固三年を喰らった。ジマーマンは黒人の高校生を射殺して、正当防衛で無罪である。法律や制度が可笑しいとは思わないのか?次の大統領選出馬も囁かれているテキサス州知事リック・ペリーは、自ら音頭を取り、中絶の禁止を急ごうとしている。銃で高校生を殺すのは構わないが、胎児を殺すことは決して認められない、と言うのか?

コネチカット州のサンディフックで、小学生が銃器で虐殺されて以降、アメリカは銃規制に舵を切ったと思っていたが、オバマは結局何もやっていない。オバマがやっているのは、スノーデンを捕まえようとしたり、中共政府と折衝したり、バーナンキの首を飛ばそうとしたり、違法移民を市民にしてラテン系の選挙民を増やしたり、シリコンバレーに恩を売るために移民法改正したり、自分の政党の基盤を拡げる為の政治戦略ばかりである。選挙で約束したような、アメリカ社会のリベラル化はどうなったのか?「チェンジ」などと言っていたのは懐かしい。誰でも、大統領の椅子を取れば、自分こそがリベラル化の抵抗勢力に「チェンジ」してしまったのだろうか?


違和感だけが残ったジョージ・ジマーマンのケース、結審へ。


ジマーマン事件、特集

米国で現在、お茶の間(笑)を賑わせたある事件の判決が下されようとしている。その事件とは、2012年の二月に、ジョージ・ズィマーマン(George Zimmerman)というゲートコミュニティー(要するに分譲住宅地の入り口に警備員がいる所)の自警組織のボランティアが、トレヴォン・マーチン(Trayvon Matin)という17歳の黒人の子供を射殺したものである。 


ジマーマンは父がドイツ系の白人で、母はペルー人であり、ヒスパニック系のアメリカ人である。ジマーマンはマーティンを打ち殺したとき、そして警察に電話した時に、アフリカ系アメリカ人を蔑視するような発言をしたため、この事件は人種間問題に発展した。

もう一つ事件をややこしくしているのは、フロリダでも採用されていたふざけた法律である。スタンド・ユア・グラウンド法と言われるものだ。非合法行為により身の危険を感じた者が、殺傷能力のある武器を使って身を守ったとしても、罪状には問われない、という法律である。多くの州で採用されている 正当防衛と、南部を中心に採用されているスタンドユアグラウンド法は大きく異なる。正当防衛の下では、喧嘩になった時に、相手を殺傷する前に、逃げる事を優先させる義務が生じる。だが、スタンドユアグラウンド法の下では、命の危険を感じる状況下においては、逃げる事を最優先する必要はなく、相手を死に至らしめても罪状には問われない。防衛する権利が銃を所持する権利と重なり、解釈の余地を残す法律となっているのである。ただ後述するが、今回のジマーマンの行動は正当防衛の範囲内であり、スタンドユアグラウンドが発動したかどうかも怪しいケースである。

自警組織のジマーマンは、コンビニで買い物をして父親のガールフレンドの家に帰る途中の丸腰のトレボン・マーチンが分譲住宅地の敷地内の裏側の路地を歩いているのを見た。ただ、マーチンはマリファナを吸ってラリパッパか或いは家の中を物色している様子で、ジマーマンの弁護士によると、その事でマーチンを怪しく思ったという事である。一方、ジンマーマンを差別主義者として見立てる論調もある。ジマーマンは「黒人」がいたので、肌の色から怪しい奴であると判断したと主張されている。  ジマーマンは車を停めて、中から911(警察)に電話した。その時点で、マーチンが事件を起こしているような事実はなかったため、警察はジマーマンの行き過ぎた追跡行動を窘めたのだが、ジマーマンは車から降りて追いかけた。どのように追いかけたのかは色々な話が出ており、事実は解りかねる。そして、マーチンと何らかの接触をしたようである。他の人が警察にかけた電話に記録された時の録音によると、大声でジマーマンかマーティンか、どちらかは不明であるが、甲高い声で助けを求め続けている。その後、一発の銃声がする。警察が到着した時には、マーチンは帰らぬ人となっていた。 ジマーマンは仰向けになり、武器を持ったままの状態で呆然としており、警察によって武器から手をほどいてもらったという。

ジマーマンは警察で軽い取り調べを受けた後、マーティンに明らかに殴られた跡などがあったために、上記の正当防衛としてその晩のうちに解放された。人を殺してもアメリカではそんなもんであるという事実が、銃規制派などを逆なでした。 一方、高校生を殺されたという悲しみは理解できる物の、マーチンの友人や家族がメディアである事ない事を主張し、マスメディアは「黒人蔑視」が事件の背景であるように報道を始める。私などがニュースを見ると、かなり偏った報道であるな、と思う事もあった。 

で、ジマーマンは恐らくは政治的な圧力により再逮捕され、一度釈放しておいたジマーマンを第二級殺人で告訴した訳だ。最悪、終身刑という重いものである。 だが、銃規制派、アフリカ系アメリカ人、そして人種問題にうるさい人たちは、すべてメディアの報道を都合よく信じ、黒人差別主義者が丸腰の高校生を射殺したというイメージを信じていたように思う。 だが、裁判が始まると、どうもメディアの報道とは話が違うのだ。ジマーマンは不良の高校生に馬乗りで殴られたので、銃を使った、というのが真相のようだ。マーチンを擁護する人達の証言は、信用しかねるような物も多く含まれていた。しかもフロリダでは、銃を所持する権利も、身の危険が及んだ際に武器を使う権利も認められているのだ。 

ジマーマンという人間が丸腰の高校生を射殺したことは、結果論的にはモラルにもとる行為であると思う。いくら不良であったとはいえ、自分の子供を殺されたマーチンの親など、いたたまれないだろう。コンビニに行った17歳が射殺に巻き込まれるような社会はイカレテいる。しかし不幸にも、銃社会のアメリカでは十分に有り得る事態なのだ。フロリダでは法的に許されている訳であり、この騒動自体が法律の不備が招いた混乱だという事も出来る。逆に、マリファナの所持や吸引はフロリダでは違法行為であるわけだし、マーチンがジマーマンを殴る事も許されない。私が思うに、法律の不備を政争に使われた中で、ジマーマンはどのような判決が出ようとも犠牲者であると思う。間もなく素人の陪審員により、ジマーマンへの刑が決められることだろう。 

この事件を見ていると、所謂慰安婦問題などともダブルところがある。法律的には問題ないが、モラル的にはどうなのか?そういった事を政争に使われれば、モラル的に劣る側は、常に防御側に立たされ、社会的制裁を加えられることになる。タックスヘイブンを使った税金回避などもこういう問題であろう。法律の抜け目を用いた行動は許されないのか?法社会なのだから、政治家が混乱が起きないように、法律を整備するべきであるし、こういう問題で個人を陥れてマスメディアが騒ぐ構造こそがモラルハザードのように思うのだが。

5/28/2013

乙武騒動について考える。障礙者に優しくないのが東京の強み

ツイッター上などで盛り上がっている話題について本ブログで思いを巡らせるのは嫌いなのだが、思う所があるので、自分自身のメモとしてこの記事を書いている。

乙武氏が銀座のトラットリア・ガンゾーというレストランで、エレベーターの止まらない二階まで運んでもらうのを拒否された云々という事件があった。はっきり言ってどうでも良い出来事である。その事件に対して、ツイッター上で人々が自分たちの意見をぶつけて、いわゆる炎上という事態になったという。

それに便乗しようとして、乙武事件がコラムなどで引用され、記事の「フック」として使われている。日経BOに載っていた慎氏の記事など、まさにそれである。慎氏の記事は、ユーモアが全くないうえ、論理展開が無茶苦茶なのと、浅はかな思い込みが鬱陶しいので、コラムは読むに値しないと考えているのだが、コメント欄が面白くて、興味深かった。慎氏は、日本人が不寛容なので障礙者に優しくない、などと面白いことを書いていた。この問題について少し考えてみたい。

私は今まで色々なところに住んできたのだが、特に欧米の先進国で、障礙者の人が公共交通機関を一人で使う事に出くわす。障礙者に手を差し伸べる人が多くて、かなり微笑ましい。助ける人も助け慣れているし、助けられる人も助けられ慣れている。そういう光景を見ると、こちらの気分も良くなる。アメリカでは、軍人系の筋骨隆々とした障礙者が多く、そういう人達にリスペクトを見せるという文化も定着しているし、車椅子を利用する人の割合が日本とは比べ物にならないくらい多い感がある。

老人が公共交通機関に乗って来る事も多い。欧米や台湾では、お年寄りが交通機関に乗ってくると、すすんで席を譲る。非常に気持ちの良い光景だ。だが、私の生まれ故郷、大阪でも人々は老人にすすんで席を譲る。日本であれ、老人には席は譲るものなのだ。

大阪人の私が東京に行くと、人々が冷たく見える。ニュースメディアに洗脳されてしまったのだろうが、東京ではベビーカー、妊婦や老人が来ようとも席を譲らない、らしい。そんな事はない。昼間の比較的空いている時間帯に電車に乗ると、結構みんな席を譲っている。ただ、通勤時間帯に席を譲ったりするのは不可能である。関西であれ、通勤時間帯に御堂筋線の梅田-難波間などで優先されるべき人達を優先することはできない。他にも、路線にもよるが、高齢化したわが国では、乗客がほぼ老人という場合もあり、老人が老人に席を譲る訳にはいかない。

シアトルで、レイクワシントンを越える州道520が課金されるようになってから、朝晩のバスが物凄く混むようになった。立っている人が大勢出て来たのだ。するとどうだろうか?老人がいようと、バスに乗った学生は寝たふりである。いつもは優しい人々が、混雑する公共交通機関内では冷たくなるのだ。パリでもロンドンでもニューヨークでも、電車が物凄く混雑した時に乗ってみればよい。「社会的弱者(この表現が嫌です)」を助けたくても助けられない場合があるのだ。

このコラムで何度も指摘しているが、東京首都圏は世界でぶち抜けた規模の都市圏である。公共交通機関の混雑具合は間違いなく世界一だ。住んだ事がある人なら知っていると思うが、ニューヨークやロンドンなどの交通機関の混み具合は、大阪圏と同等か、それ以下である。絶対的な混雑度が違う。自分が痴漢犯と間違われないように注意することに精一杯であり、あの環境下で人を助けろ、という方が無理である。

優しさとは、何か?品とは、何か?美学とは、何か?これらは文化毎に、そして人々の間でも大きく違う。アメリカに来て、日本とはずいぶん違う「マナー意識」があり、驚いている。まず一つ目に、食事中に何かを取ってもらいたい場合は、自分で取ってはならないというものだ。レストランであれば「給仕」に頼むべきである。欧米のレストランでは、給仕が執拗にテーブルに来て「ごちゃごちゃ」聞いてくるが、あれが欧米でのサービスなのだ。アジア人の感覚とすれば、食事中に鬱陶しい、となる。

家庭でも、塩や胡椒、ナプキンを腕を伸ばして自分で取ってはならない。絶対に、「Could you pass me the salt, please?」と言って、食事をしている相手を煩わせる必要があるのだ。日本人の感覚では、自分で出来る事は、人を煩わせず、自分でするのがマナーである、と考えるかもしれない。

あとは挨拶。相手が忙しかろうとも、欧米人は平気で挨拶をする。忙しいから挨拶をしない、といった行動がマナー違反と考えられる場合もある。日本では、人が忙しい時は挨拶をしないのがマナーであると考えられる場合がある。最後に、欧米では車を運転しているときに、運転手が会話をする相手に目線を合わせてくるのだ。同乗者としては、運転に集中して欲しいのだが、喋っている相手の目を見ることがマナーであると考える欧米人が多いのだ。日本人なら、事故を起こさない事がマナーであると考える人の方が多い、と思うが。これは文化的な違いであろう。

日本では幼少の頃より、「自分で出来ることは自分でしなさい」と習う。「出しゃばるな!」という事も同時に習う。この教育が行き過ぎて、中学生にもなると、生徒たちはクラスで手を上げて質問することをしなくなる。出しゃばる事は悪い事であるからだ。欧米の高等教育に参加し始めた日本人が初めにビックリすることは、欧米人はクラスで出しゃばるのだ。

私は大阪に生まれ、大阪に育った。商売の都、大阪という地では、出しゃばる人間に優しい文化がある。出しゃばりはユニークであり、そういった生き方をリスペクトする文化がある。ユニークな人ほど成功するという考え方が結構浸透している。大阪では、人々は優しい。困っていれば優しく手を差し伸べてくれる人が大勢いる。つまり、お節介な人たちが一杯いるのだ。ただし、それに隠れて詐欺師のように振る舞う人間も大勢いる。つまり、人を信じるも馬鹿、信じないも馬鹿である。神戸の山の手や、京都の人達は、そういうお節介な大阪人気質を侮蔑する。他人に干渉しない事が「品」であるそうだ。神戸や京都の人は、人情味を理解しない冷温動物であるのだろう。

過去何十年にわたり、日本人は、品があり、他人にできるだけ干渉しないで済むような社会になろうと努力してきたのだと思う。結果的にお節介な人たちを排斥し、出る杭を打って来たのだ。「自己完結」が推奨され、「自己完結」な強い生き方に反する者たちは「弱い人間」と見做された。武士は食わねど、の世界である。東京というスマートな街は、そういった流れを加速させ、人々を集めることに成功した。ある意味においては、それは日本の大きな強みであった。私たちは、「東京」のそういった強みを決して否定してはならない。

義理人情に溢れると言われている大阪人の私が思う。人間はみんな弱い。そして、そういう弱い私たちは2種類に分別できる。強い振りが出来る人達と、弱いままの日和見主義的な人達。その2種類しかいないのだ、と。だからこそ「善意」で人々を助けてあげる必要があるし、助けた時に自分の気分が良ければ、それはそれで良いのだ、と。そして東京人のように、自分の事を棚に上げておいて、優しくしてあげない人に批判をするような嫌らしい人間にだけはなりたくないのだ、と。善意なのだから、出来るとき(電車が空いている)は人に優しくしてあげれば良いのだし、出来ない時(電車が混んでる)は仕方ない。

人々が社会的「弱者」を助けるように社会を仕向けようとしたり、社会的弱者に冷たい態度をとる人を吊し上げることが健全な社会だとは思わない。身体障礙者が街に出て来やすいような社会基盤を整えた街を作る事が社会の役目であり、後は人々の善意に期待するしかないのである。障礙者に優しい社会を目指すことは必要である。しかし、そういった街づくりにはコストもかかる。必ずしも東京という世界一大きくて「効率的」な街が障礙者に一番優しい街である必要はない。小さな町こそ、その優位性を生かし、障礙者に優しいことを強みにすれば良い。「日本」=「殺人的に混雑している東京」という馬鹿げた一元論には辟易としている。東京と差別化出来得る可能性がこんなにも簡単に落ちているのだから、小さな自治体がそれを生かさない手はない。多様性とは何かをもう一度真剣に考えてほしい。そして、何よりも障礙者自身が、障礙者でない人達に翻弄されて、冷たい殺人的に混雑した東京という街で、社会の実験台に使われる必要が無いではないか?障礙を持っている人たちや老人たちを、社会的な「弱者」として上から視線で扱い、他人の行動や考え方にまで干渉しようとする人達がおかしいのである。人にはそれぞれ、出来る事と、出来ない事があるのだ。東京にも優しい人たちが一杯いる。ただ、出来ない事は出来ないし、東京には東京の美学があし、他人の目が気になる人も大勢いるのだろう。

大阪はかなり大きな町である。しかし、多くの人々は余り他人の目を気にせず、垢ぬけてお節介である。優しくされたい障礙者や老人には、是非とも大阪に来てほしいと思う。私たちの善意の範疇で、優しくしてあげます。ただ、優しくしてもらったスキに、財布が抜かれていないかにも注意してください。

5/19/2013

アメリカが日本を非難している?マジで?


アメリカでは「日本非難」が渦巻いているらしい。アメリカに住んでいるニュースジャンキーの私にとっては驚くようなニュースである。何故ならそんな話は聞いたことがないからだ。日本人は、「自分たちが苛められている」という論調が余程好きらしい。

右の人も、左の人も勘違いしているが、「日本の従軍慰安婦問題」だけが外国で不当に非難されている、といった事を真剣に信じている人がいる。アメリカ政府は「いかなる人身売買や女性の権利を踏みにじった行為」をCondemnしているのである。このCondemnを「非難する」と日本語に訳した場合、当事者を攻めているように聞こえる。ただ、政府の立場としてのCondemnは、「事が二度と起こらないようにしよう」と言った強い決意である。アメリカは自身の奴隷貿易の過去も、Condemnしている。

勿論、奴隷貿易や侵略行為は、当時は法的には問題なかったわけで、「当時にすらあってはならなかった事」、と言った綺麗事を言っているのではない。現在の常識から考えると人道にもとる行為であるので、将来的にこういった行為が起きない為にCondemnしているのである。後ろ指を差されるだろうが、アメリカの中には、奴隷貿易のおかげでアメリカに住む奴隷の子孫である黒人は良い生活をしている、などと考えている個人もいる。人それぞれ色々な意見がある訳だ。

慰安婦問題について、いわゆる「右」の人の発言が事実描写としては正しいわけで、過去の日本の帝国主義を無批判に否定する左巻きの連中や、韓国の反日団体は完全に歴史事実を改竄している訳だ。こういった論調は論外である。しかし、反日団体の歴史改竄がけしからんからと言って、「今後自衛隊がPKO活動に風俗業者を携えて出動します。日本人を連れていくと高いので、お金で第三国の女性を雇います」とはならない。つまり、日本社会も国家のコンセンサスとして、慰安婦行為をCondemnしているのである。未来永劫に、戦時中にあったような慰安婦「制度」は行わない訳だ。

ただ、国内外の反日団体が姑息なので、慰安婦問題に対して身構えてしまう。こういった普通の日本人の感覚を理解してもらうのは不可能であるし、してもらう必要もない。これは、政治ではなく、主義主張、そして「面子」の問題である。国際政治においては「現在」が大切なのであり、歴史認識など糞とも思っていない。日本の面子を護る為に、一体どの国が「慰安婦止む無し」などと言ってくれるのか?いくら日本が正しかろうと、言う奴がいれば、アホである。

何回も言うが、アメリカは一部の運動家以外、日本の歴史認識に関しては、ほとんど興味がない。この問題に関してステークホルダーではない。日本の面子を護る発言をしても、得るものはゼロである。このニュースは、午後6時からの地上波ニュースでは全く触れもしないし、BBCが30秒ほど時間を割く程度の問題である。この問題に関して、必死に米国の主要なメディアの数少ない論調を聞いたうえで、アメリカ政府の立場を代弁する。

「日本は中国や韓国と面倒くさいからもめるな。大人なんだから、政治の場で歴史認識だの訳の解らないことにこだわるな。日本の歴史認識について、アメリカ人は微塵も興味がないし、安倍さん、21世紀になって過去の事にこだわって、それを政局に据えようとする必要があるの?アメリカも日本も韓国も、人身売買やそれに準ずる行為に関しては(過去はどうであれ)、政府は禁止する立場にあるし、そういった事が起こらないような世界を作っていこう。」という事になる。きわめて常識的だ。ポイントは、これらのサジェスチョンに対する主語が曖昧な点である。いったい、誰に対して「揉めるな!」と説いているのであるのか?政治家に言っているのではないと思われる。


こういった一連の英語報道を見て、日本が不当に貶められていると考える人がいるとすれば、文章読解力がないとしか言いようがない。アメリカが日本に言うな!という人もいる。それはもっともで、アメリカは歴史認識を紐解けば、いくらでもボロが出るのだが、そういうボロを叩くような真似は韓国や中国の反日政治勢力と同じである。アメリカが選んだ道は、綺麗事を言い、過去の臭いものには蓋をするという手段だ。その蓋を開けようとする者は糾弾する。

国家間の報道を見ていると、報道機関がセンセーショナルに翻訳するので、議論が上手く噛み合っておらず、見ていて滑稽である。

5/16/2013

橋下風俗発言と外圧。遅れているアメリカ社会


少し前にも、ありもしない外圧を日本人が恐れているという話をした。今回の橋下風俗発言を聞いていて、同じような感覚を持ったので、その話の続きをする。

個人的な話であるが、仕事柄、日本の人達から、アメリカで働く私のところに、日本の役所関係の人に話しをして欲しいと言われることが多々ある。日本人同士で話をすると「どうぞご理解ください」などと言われて、役所関係者は聞く耳を持たないという事である。しかし、私が要望や質問の草案を作って、適当なアメリカ人の署名を入れて日本の役所に届けてもらうだけで、役所関係者は真摯に対応してくれるのだ。いかに日本が欧米の影を恐れているのかが解るエピソードである。(外圧を気にしすぎるというよりも、日本の役所関係者や政治家は、一般の日本人の話を、上から目線で無視することなく、もう少し真面目に聞くべきだと思う。完全に国民は嘗められているのであろう。)

で、橋下市長は、大阪市民によって選ばれた政治家である。マジョリティーの大阪市民は橋下氏を応援している訳だ。当たり前だが、応援している理由は人それぞれ違う。大雑把に総じると、橋下氏が建前論をこき下ろし、本音を語る政治家である、という印象に対して、多くの大阪市民が酔狂しているのだと考える。橋下氏は選挙民の心をきっちりと掴んだ名マーケターなのだ。

大阪に住んでもない人間が、橋下氏が政治家に値しない人物であるとこき下ろしている記事を読んだりする。勿論、人それぞれ、どんな意見を抱いてもいい。ただ、外野は勝手に言っておけば良い。橋下氏は大阪市民の大多数に支持されたわけであり、品が無いなどと言ったことも含めて大阪市民は支持している訳である。品がないから橋下氏の政治家としての能力がないなどと言う意見は、大阪のマジョリティーの選挙民を馬鹿にしているのも同じである。橋下氏が建前に縛られることのない「喧嘩の出来る」人間だと見せているため、橋下氏を市長として選んだのだ。橋下市長が嫌いでごちゃごちゃいう人達は、平松前市長でも携えて、京都にでも出て行けばいいのだ。

政治家は「建前」を言うものであり、「本音」を言う事は人間として劣っている、などと言った馬鹿げた事を信じている人にも出くわす。正直、救いようがない人達である。民主主義社会において、政治家は単なる水商売である。どの国であれ、政治ほど汚れたものはない。政治に必要なのは知性ではない。民主主義のわが国において、政治家の力は「人気」に左右される。人気を取ってなんぼの商売だ。そこに、格も品もへっちゃくれもないのである。マーケティングに長けた者が勝つ弱肉強食の世界が、民主主義社会の政治なのだ。橋下氏は人気を集めている、つまり優秀な政治家なのだ。(そういった意味で、政治家は性風俗業従事者と共通することが多い。)

許由ではないが、マツリゴトの話は汚れているので、聞けば穎水で耳を洗わなければならない。政治は綺麗なものではない。目的(金)の為なら何でもする(体を売る)物なのだ。政治家こそが立派なプロスティテュート(売春婦)なのであり、それ故に政治家は尊敬に値するのである。

米高官に対して、風俗を使えば如何か、などという意見を言ったという事であるが、これは「ナイスジョブ」であると思う。綺麗事を抜きにして、まさに正論なのだ。こういった正論を言いたいアメリカ人は百万といるが、態々虎の尾を踏む勇気など誰にもない。管理売春に賛成したい層は意外と少なくない。米軍内の女性士官に対する痴漢事件が、確認されているだけで普通の社会の二倍以上に上る、などといったニュースが報道が最近されている。こういった時に、管理売春を解禁すればどうか?と心の中で考える人は多い筈だ。しかし、先日書いたように、アメリカの公人は決してそれを口にしない。

ただ、こういった事を外国人に外野から言ってもらえば、溜飲が下るアメリカ人がどれほどいるのだろうか?アメリカ社会にも、自身のタブーを破る外圧が必要であり、橋下発言はそうなり得たナイスなサジェスチョンであり得るのだ。しかし、橋下発言は日本の英字メディア以外では完全に無視されている。自由などと言いながら、実際は同調圧力が強いアメリカ社会の歪みが、こういう所にも露呈されているのである。

ニュースを見ていると、日本が保守的で右寄りで女性を蔑ろにしているから風俗を許容しているなどといった馬鹿げた意見を読んだ。一方で、売春を認めて税金を取っているオランダやスイス、ドイツはリベラルだという。どう考えてもダブルスタンダードだと思いませんか?ただ単に、アメリカが売春問題に対してナイーブで保守的なのである。アメリカでは、銃問題にせよ、中絶問題にせよ、物凄く保守的であり、そういった層に配慮して、ニューズメディアも報道を自主規制している。この風俗問題にしても同じであるのだ。

米国の報道官などにこういう事をわざわざ質問すれば、怒った顔をして「No!」と言われるのは火を見るよりも明らかである。人気取りが必要でない公人は、立場上、ふざけた意見に物分かりが良い振りをしたところで何も得るものがない。一般論、つまりは綺麗事を言うしかないのである。記者が煽動するために質問したのである。しかし、報道官の発言を日本に対する攻撃と受け止めるのは、被害妄想以外の何物でもない。

風営法による風俗営業には、性的なサービスを行うもの以外、ギャンブルなども含まれている。性風俗という従来の法律隠語が庶民にはかなり浸透している。性風俗と言っても、女性だけが搾取をされている訳ではなく、マーケットが狭いとはいえ、性的なサービスを行う男性も存在している。突き詰めて考えれば、女性問題と性産業問題はイコールではない。こういった問題において、快楽主義を許容している日本は「無駄に保守的なアメリカ」の30歩先を行くリベラルさを有している。私は、これは誇るべきことであると考えている。こういう事を、アメリカに認めてもらう必要はない。アメリカ人が怒っているのではなく、アメリカ人はこの記事を黙殺し、日本のメディアが日本国内向けに騒いでるに過ぎない。冷泉氏のようにプリンストン大学で教えているかのような経歴詐称紛いの事をして記事を書いている人が、日本版のニューズウィークで「米国は日本を厳しく見ているぞ!」みたいなことを風潮しているのが、この問題の真相なのである。

私たちは、自分たちの先達が作って来た快楽主義を良しとする文化を、自分たちで磨いていけばいいのである。戦後、日本では売春行為と性風俗を分けて、独自の文化を発展させた。私は、こういった自由闊達で柔軟な日本社会が大好きです。アメリカが世界の常識ではない。宗教的な二元論が強いアメリカは、禁欲主義を良しととしたり、国連の決まりに逆らってマリファナを解禁したり、人身売買に不賛成である立場ながら第三国からの養子を推奨したり、かなりわがままな政策を押し通している。アメリカに追従するでも、反発するでもなく、アメリカの政治を理解して、日本は普通に友人として上手く付き合えばいいのだ。私たちは、アメリカに気に入ってもらおうとするのはやめるべきだし、叱ってもらう必要もないのだ。アメリカは比較的常識的な大きな島国なのである。そして、アメリカ人の意見は、決して一枚岩ではない。

5/14/2013

アメリカで売春や性風俗の話はしてはいけない。大阪には必要である。

アメリカという国は、思っている以上に保守的で宗教的である。アメリカ流のキリスト教的な価値観があり、右も左もその上で戦う。マリファナを推奨したり、同性愛結婚を推奨したり、戦争反対を言ったり、死刑廃止を訴えたり、中絶を支持したりする人達も、キリスト教のアンチテーゼとしての政治的な発言を行っているに過ぎないのだ。「米流キリスト教」の足枷からは抜けられないのだ。アメリカ流のキリスト教的な価値観を理解しない人には、アメリカ社会の政治動向は理解できない。

自由の国と言われるアメリカだが、タブーが数多く存在する。女性問題もその一つである。女性を貶める発言は、完全に「NO、NO」である。政敵を駆逐する際には、その人が女性を軽視していると吹聴すればよい。敵国家を冒涜する際には、その国家が女性の地位を蔑ろにしていると宣伝すればよい。

橋下知事の発言が注目を集めている。慰安婦問題に触れ、米軍に風俗利用を推奨したのだ。これはアメリカでは「NO、NO」である。アメリカでは、売春行為に対する過度な不忍容さがある。アメリカでは、ネバダ州のナイ郡などを除いて、売春は違法である(トリビア:ラスベガス市内では売春は違法!)。政治家や会社経営者が売春行為を行ったことがばれると、ほぼ間違いなく職を追われる。売春などの話に関して綺麗事を述べないことにはアメリカ社会では生き残れない。一般の日本人とはモラルの基準が違うのだ。どのような意見を持っていようと、公の立場のアメリカ人が売春問題について触れることはない。そういうタブーの話題が出てくること自体が不快なのだ。

私は大阪の繁華街で育った人間として、橋下発言はもっともだと思うし、橋下市長の考えている「人間」の快楽主義に沿った社会の在り方が、大阪の繁栄には必要であると考えている。歴史的にも、例えば江戸時代などは日本では「快楽主義」は許容されてきた筈だ。ただ日本人の中にも、こういった話を「攻撃対象」と考えるメディア関係者もいるし、綺麗事を好む視聴者・読者もいるわけだ。私は、橋下市長には大阪の快楽主義に沿った人間臭さを政治信条として、大阪市の発展に寄与して欲しいと考えている。ただ、モラル意識の違う政治基盤との間で、自由奔放な発言を政治摩擦に利用されないように、慎重に発言して欲しいとも思う。

アメリカでは売春行為が違法である。昔の映画に出てくるような、車道やモーテルの前にハイヒールを履いたけばいお姉ちゃんが突っ立っているような光景は、絶滅危惧状態である。高級エスコートは安心して利用できるだろうが、べらぼうに高い。アジア人が経営している小汚い「サウナ」でも売春行為は罷り通っているが、東アジア人か貧困層出身の初老(50代くらい)のおばさん達が相手をしてくれる。手早くサービスを受けたい一般の猛者は、クレイグズリストや地元のフリーペーパーなどを通してエスコート、アウトコール(客のところに行く)やインコール(客が指定された場所に行く)などの違法な売春行為を利用する。最近ではリンクドインなども利用されていたようだ。

アメリカで上記のサービスを受けようとすると他の先進国と比べて、べらぼうに高い事に気付かされるだろう。サービス内容にもよると思われるが、日本のように売春に「準ずる」行為が明瞭会計で一万円以内などという事はあり得ない(売春行為は日本でも違法です!)。何故このような違法行為が蔓延るのか?理由は橋下氏の言うように、猛者の性的なエネルギーをコントロールできないからである。しかし、繰り返しになるが、虎の尾を踏みたいアメリカの公人は、絶対に存在しない。アメリカ人の中にもこういった行為を好む人たちは少なからずいる。そういった人達の多くは、南米、ヨーロッパやアジアに行く。米国は「性風俗遊び」には適さない不毛の地であるのだ。日本人の中には勘違いしている人たちが多いが、アメリカは日本以上に「本音」と「建前」をきっちりと分けている国なのだ。政治の場で「ぶっちゃけ」トークは罷り通らない。

余談だが、南部を中心に一部の州においては、ソドミー法と言う物が未だに存在している。例えばヴァージニア州では、如何なる男女も、オーラルセックスや肛門性交をしてはならない、となっている。これに違反すれば、一年以下の懲役に処せられる。これは結婚しているカップルにも適用される。守られる筈もないこのような法律が存在している事自体、何をかいわんや、である。

閑話休題。「平均」的な話をするが、エリート主義がなく、快楽主義をある程度許容する物分かりの良い日本人。ピューリタン的に快楽主義を認めたがらず、ストイックさの建前の下で、家族の価値を説きながら、離婚率が高かったりするアメリカ。これは、文化的な背景の違いである、とするしかないのだと思う。欧米などと一括りにする人がいるが、ヨーロッパに行くとこれらの常識がまた通用しなくなるのだから面白い。ヨーロッパでは場所ごとにキリスト教を背景とするモラル意識が異なって発展している。宗教戒律的には厳しい筈の南欧の方が性に大らかであったりするのだから、宗教問題のみに注目するのも間違いである。「キリスト教」自体が一枚岩ではないので、アメリカの政治現象を本当の意味での「キリスト教」に源を求めることは間違いだ。ただ、文化と宗教は切っても切れない関係だ。アメリカにはアメリカ流のキリスト教が発展し、人々はそういう文化に縛られている。外野から見ると、滑稽でもあり、羨ましくもある。

日本には日本人がその歴史的コンテクストの中で培ってきた文化がある。我々日本人は、自分たちの文化がどういった物であるかを綺麗事を排除して意識する必要があるだろう。誇れるべきものも、好きでないものも、すべて含めて日本で培われた文化であるのだ。そして、日本の地域ごとに根差したローカルな多様性も考慮するべきだ。それを他国と単純に比較して優劣をつけても仕方ない。多様性こそがグローバリゼーションの合言葉な筈なのだから。

* アメリカにやって来る日本人の中には、パーティーなどの場で風俗に行った経験などを臆面もなく語ってくる人がいます。社会的な地位がある医者やビジネスマンの中にさえ、そういう人達を見かけます。そういった話題を公の場で許容する下地は米国にはありません。お金を出して女性から性的なサービスを受けたなどという話題をした時点で(仮に男同士であっても)最低人間のレッテルが張られます。そういう話題は、本当に仲の良い人たちとマリファナを吸っている時のネタにしてください。不特定多数の人がいる中で、こういう話題は絶対にダメです。性の話題自体は、状況次第で可能です。学生同士や、ユダヤ人社会には常に受け入れられます。ただ一般的に、クリスチャンのエリート層は、大多数の日本人と同じように、性の話も嫌がります。

11/12/2012

ゲイの権利は守るべき。バイセクシャルはただの変態(LGBT)

ここシアトルの街を歩いていると「レズビアン、ゲイ、バイセクシャルとトランスジェンダー(LGBT)の権利を保護しよう!」などといった標語を目にする事が多い。私は同性愛者の権利を保護しようという意見には諸手を挙げて賛成する。が、LGBTの定義が良く解らないので、LGBTの権利という物について、公的な支援をする事には声を荒げて反対したい。

ただ、私がここでいう同性愛者とは、生化学的に脳の機能が体の表現型である性別と乖離している状態の人間をいう。LGBTの中だと、トランスジェンダーに一番近いものと思われる。つまり、男性器を有しているのに、脳や自律神経が遺伝的な原因などで女性として反応している場合。或いは、女性器を有しているにも関わらず、脳や自律神経が男性的に反応している場合を呼ぶ。こういう人は必ずクラスに一人くらいいるものだ。

表現型で性別を判断し、無理矢理こういった人達を社会の「男らしさ」や「女らしさ」という型にあてはめ、脳の認識を無視して社会的に男性や女性を演じさせる事は可哀想である。本人達も不幸になるし、関わった回りの人達も不幸になる。日常生活内で、色々な軋轢も出てくるだろう。私の小学生の同級生なども、ゲイだと誰の目にも明らかだったにも関わらず、大学を出てすぐに親に無理矢理結婚させられたが、すぐに離婚した。親はその子の事を黙殺している。

そういった不幸を避ける意味で、ゲイの人達はゲイとして生きて欲しいと思うし、きちんとカミングアウトしてくれる事を望む。そうする事で無駄な軋轢を減らす事も出来るのだ。ゲイの人たちをゲイとして受け入れると、ゲイの人達も幸せであるし、ゲイで無い周りの人達も幸福になる。周りの目があるので結婚もして子供がいるにもかかわらず、週末にこそこそと新宿二丁目のサウナ発展場に通う、などといった不幸を助長する一時凌ぎの馬鹿げた行為も起こらなくなる。

数年前、知り合いのアメリカ人が、ある日突然ゲイをカミングアウトした。それまで、その男が嫌いで仕方なかった。物凄く陰鬱で嫌な奴だったのだ。しかしゲイをカミングアウトして、物凄く付き合いやすい奴になった。今では一緒にビールを飲んだりする良い友達である。ゲイである自分を認めなかった何かが、彼(?)の性格までをも歪めていたのかも知れない。

サウジアラビアから留学しているゲイの友達がいた。ご存知の通り、アラビア社会ではゲイは死刑に値し、親からは勘当される。異国のアメリカの地で、彼は完全にゲイの生活を満喫していた。楽しいんだろうな、と思った。いつもは私たちにオネエ言葉で喋る癖に、アラビア人同士で会うと急に男っぽい声になり、ナヨナヨした素振りも見せなくなった。何をかいわんや、である。

日本でも、社会がもっとゲイに寛容になるべきだと思う。ゲイがカミングアウトしやすいような環境を作ってあげる事が皆の為だと思う。ここまではセクシャルオリエンテーションの話であり、当然守られるべき人権の話であると同時に、全ての人を幸福にするための社会的示唆である。日本とは「辛抱」が強いられる社会であるが、こんな事は我慢できる問題ではないし、他の人にとっても不幸になる問題である。

ただここで問題になるのは「誰がゲイで誰がゲイでないか」という問題である。ゲイという問題が歴史的にタブーであったからか、ゲイであるかどうかの判断が「自分自身がどう思うか」に委ねられている場合が多い。しかも、タッチーな問題であるため、科学者や医者は見解を避けている。しかも、心理学者が賢いフリをしてリベラルな意見を言う傾向にある。となると、生化学的にゲイでない人達がゲイである、などと言ったふざけた見解を持つに至る。社会的に人権を蔑ろにされているゲイの人達、そしてゲイのふりをするただの変態。この境目を見極める事が、不可能でないとすれば、非常に難しい。もちろん、私自身、ホモセクシャルかヘテロセクシャルの間にはっきりした線引きがなされるとは思っていない。ただ、私は概念的にこの両者をはっきりと分ける事こそが、セクシャルオリエンテーションを理解させる近道だと考える。

脳機能に問題がない普通の人が同性愛を楽しむのは、ただの変態行為である。たとえば、江戸時代や昭和の初期頃まで蔓延っていた男色行為があるが、あれはただの変態行為であった。特に未成年の少年相手に性行為を強要するなど、今の世の中では牢獄に入れられるような行為が黙認されていたわけである。これらの男色は、ホモだから楽しんでいるのではなく、普通のセクシャリティーを持つ人間が、マスターベーション代わりに少年を使っているだけである。そういう事が「粋」だと信じられていた時代があったのだから、隔世の感がある。寮でストレートの女子学生同士が経験として同性愛を楽しんだ、などというのは興味本位の変態行為であり、セクシャルオリエンテーションとは関係のない話である。逆に、ゲイの男(心は女)が普通の女性と性行為を楽しむのも、ただの変態行為と言っても良いだろう。

バイセクシャル(両性愛)な人が存在する事は良く知られている。が、バイセクシャルという権利はあり得ない。その時々において、バイセクシャルの人は、同性を愛するか、異性を愛するかのどちらかの選択肢しかないからだ。バイセクシャルの権利を尊重しろなどとうたっている人達は、ただの「フリーセックス主義者」である。男と女の両方を同時に相手にする事は、本人が勝手にする問題であり、社会が人権を守るような問題ではない。そういった行為に眉を顰められれば、それは本人の落ち度であり、社会的な差別ではない。現時点で特定の男を愛するか特定の女を愛するかわからないので、どちらとも付き合いたい、などと言うのは優柔不断のわがままであり、どちらか一方に決めなければならない。そこに権利が侵されている事実は全く存在しない。そういった問題があるならば、精神科医に見てもらって、自分がどちら側なのか、自分探しに重きを置くべきだ。

「社会がバイセクシャルの権利を守れ!」という意味がわからない。バイセクシャルの人に、同時進行で男と女と結婚する事を社会が認めるのか?それは、多重結婚を認めろ、浮気をする権利を守れ、変態行為に陽の目を当てろ、未成年との性交を許可せよ、などと言った荒唐無稽な要求となんら変わりはない。バイセクシャルなどといった括りは存在してはならない。異性愛者にせよ、同性愛者にせよ、本人が自由恋愛や乱性交を繰り広げてたいという欲求は守られるべき権利ではない。やりたければ勝手にすればいいだけの話であり、それを不道徳な行為と考える人も当然出てくるだろう。バイセクシャルを公言してフリーセックスに励むただの変態たちが、ゲイの権利要求に参加している為、まともな意見ですら面白おかしく聞こえることがある。本当に困っているゲイの権利を社会は尊重せねばならない。ただしゲイの権利は認めるものの、ゲイ以外の変態がゲイに与えられた権利を拡大解釈して濫用する可能性があり、慎重に法律を作ってもらわなければならない。それこそはゲイの為でもある。

社会が真っ当な方向でマイノリティーを守るため、「ゲイの権利は守るが、バイセクシャルの人権を守ろうとしている人達は多田野変態です!」と大きい声で言って欲しい。味噌と糞を一緒に討論しないで欲しい。(注:「只の」と打ちたかったのに多田野と変換されました。あまりにも正当な変換なのでそのままにします。)

10/12/2012

精神疾患であろう研究者をいじめるマスコミ

米ハーバード大客員講師を名乗る森口尚史氏が人工多能性幹細胞(iPS細胞)から心筋細胞を作り患者に移植した、などという誤報が読売新聞などに載ったという。というか、読売などが裏も取らずに勇み足をしたのが実情である。その報道について、当の森口氏の経歴の虚実を追うニュースが賑わいを見せている。大新聞が大真面目な「フリ」をして森口氏の主張を「腹では笑いながら」検証しているのだ。


ニュース報道に現れた森口氏の語り口から推察するに、森口氏は「虚偽性障害」や「妄想性パーソナリティ障害」などの精神疾患を患っている疑いがある。そのような状況の人物を、大新聞や民放が実名を出して茶化してバッシングするのは如何なものかと考える。支離滅裂な無茶苦茶な話なので、面白くてニュースにしやすいというのは理解できる。ただ、精神的に問題があるかもしれない人物を追い詰めるのはデリカシーを欠いた「イジメ」である。

数日前、関西空港から仁川経由でLAに到着し、その後ボストンを目指した中華系アメリカ人が、防弾チョッキを着用しており、スーツケース内に発炎筒を含む多数の武器のような物を入れていた事が全米で報道された。一時はテロリストかと疑われたが、急に報道が消え去ってしまった。どうもその人物が精神的に不安定であり、ニュースとして扱えなくなった為であるらしい。アメリカでは、精神病疾患者に対してある程度の注意を払って報道している。


日本社会は精神が不安定な人物に対して配慮に欠けているのではないか、と良く感じる。精神的に不安定な人物が、その不安定さゆえに、他の人間に「物理的な危害を加えない程度の過ち」を犯した時は、もう少し配慮してあげても良いのではないか?馬鹿とキチガ○を嘲るような事は、視聴率獲りと言う観点では「$合理的$な」選択かもしれないが、成熟した社会の公機関(マスメディア)がそのような茶化した報道をしてもいいのだろうか?日本にも精神が不安定な人たちが大勢いる。別に他者の命を脅かしている訳でもないので、そっとしてあげるか、問題の解決に協力してあげれば良いのではないだろうか?神経病みの人を名指しで「キチガ○だ!尋常ではない!噓吐き野郎!」などと侮蔑して報ずる事はあってはならない。寧ろ、そういった可哀想な人達が治療を受けやすいような社会の雰囲気作りにマスコミが先頭に立って貢献するべきである。

(余談:アメリカの大学で、森口さんみたいな統合失調症の気がある研究者に頻繁に会います。日本人の研究者の中にもそういう人達が大勢混じっています。普通の人だと思って親しげに接したり、こちら側に余裕がない時などは、嫌な思いをすることもあります。しかし、可哀想なので温かく距離をとってあげましょう。逆に言うと、アカデミアは物分りがいいフリをして他人と関わりたがらない人達が多いので、そういう人達が集まりやすいのかもしれません。そういう人達が周りにいるのであれば、手遅れにならないうちに医師に相談するように薦める事が必要だと思いますが、実際は難しいです。残念ながら手遅れになってしまった人を数人知っています。後、思い込みが激しい人がお花畑の課題などを設定して、必死に研究に取り組み、ファンタジーの論文を書いて出世してしまう人達が一杯います。このような人達が上に立つと碌なことがありません。ただ、そういった人達を制裁する事は現実的に不可能です。)

9/16/2011

乞食達の賛美歌

311の地震の後、初めて日本に降り立ったわけだが、ここは大阪であり、被災地に来ている訳でもないので、地震の爪痕は全く見て取れない。相変わらず大阪は景気も悪いが、地震のせいでさらに景気が冷え込んだのかどうかは不明である。市内では意外と大掛かりな建設工事が増えており「ハコモノ」を増産している。

街はというと、小奇麗に新設された場所(JR大阪駅など)に人々が集まっているものの、お金を落としている風には見えない。一方で、昔に賑やかだった場所などで、閑古鳥が鳴いている場所が多く見受けられた。新しい建築物を建てると、少し古くなった商業施設は陳腐化されてしまう。新たな建設はパイを大きくするのではなく、他のパイを食っているだけなのだろう。マーケットが飽和するというのはこういう事を言うのであろう。

新らしい施設に入ると、レストランだけが流行っている。服や高価な物を買う人はいないが、散歩がてらに新しい場所にやって来て、レストランで食事だけ済ますというありがちのパターンだろう。レストランは強気の値段設定をしているし、小奇麗なショッピングセンターにありがちな見た目だけ美味しそうではあるが、実質は安物の食べ物が2000円ほどで出されている。しかし阪急沿線のサバーバン(郊外)に住み、贅沢な雰囲気を楽しむために態々着飾ったマダム達は、2000円を出し惜しみしない。味は不味くなければ良いのだ。雰囲気を楽しみたいのだ。

一方で、私が世界一のランチが食べれると太鼓判を押す北新地には、寒風が吹き荒れていた。サラリーマンの数がますます減り、観光客のような人達が超豪華な1000円ランチを楽しんでいる。割烹やフレンチなど、北新地には最低でも20件ほど紹介したい店があるのだが、当サイトは真剣な食ブログではないので、敢えて記事にはしていない。JR大阪駅での2000円代で食べる見栄えだけのランチ。そして北新地で供されている1000円代で世界一のクオリティを保ったランチ。それでも若者は350円の弁当を追い求める社会の流れ。

大阪の街を歩く。昔流行っていた個人経営の零細飲み屋や食堂は、どんどん潰れている。若者の服装はどんどん貧乏臭くなっている。風俗嬢と一緒に手を繋いでホテルに行く人達をやたらと見かける。寧ろ、道行く若い女の子達が総て水商売従事者に見えてしまう。

公園で面白い光景を見た。基督教のボランティアの人が拡声器を持って、ホームレスを集めて賛美歌を歌っていたのだ。四、五十人にも及ぶ乞食達が賛美歌を歌っている。異様な光景に、不覚にも私はその場に呆然と立ち尽くしてしまった。

「慈しみ深き、友なるイエスは、変わらぬ愛もて、導き給う。世の友吾等を、棄て去る時も、祈りに応えて、労わり給わん。」

ホームレス達が飼っているのか、そこには猫が一杯いた。周りのベンチには専門学校にでも通っている若者たちがコンビニの小さな弁当を頬ばんでいる。2011年の9月の暑い日の昼下がり、自分が生まれ育った大阪で目にしている光景は、私が知る日本の物ではなかった。

9/09/2008

汚い罵り言葉のボキャブラリーが乏しい日本の同世代

外国生活も長くなり、外国人との交流での新鮮さを長い間忘れていたのだが、ローマで外国人同士で酒を飲む機会が多く、英会話学校に通っていたときのような新鮮さを覚えたので、このコラムを書く。

酒を飲んで酔っ払ってきた時、外国出身者同士の話題として持ち上がるのが、自分の国の汚い言葉についてである。私は世界各国の汚い罵り言葉をずいぶん教えてもらった。性的な表現、神を冒涜する言葉、特定の外国人を罵る言葉。世界各国、直訳するとかなり汚らしい言葉を日常的に使っているものだと感心する。相手は私に教えた見返りとして、日本語の汚い言葉を私から教えてもらう事を期待するのだが、この時点で私は非常に困ってしまう。

殆どの外国人は、日本人との交流を既に持っており、私に自分たちの知る汚い言葉を疲労する。その殆どが、「あほ」や「ばか」、或いは「くそ」である。しかし、これらは汚い言葉でもなんでもない。英語にすると、StupidやShitでは、酒を飲んでいる時にお互いに交換するほど汚くもなんともない。私は、そのような何の変哲もない言葉を、何も知らない外国人に汚い罵り言葉であるとして教えたそれらの日本人のセンスや価値観を卑下してやまない。

「糞喰らえ」や「阿婆擦れ」などといった言葉も考えられよう。Eat shitそしてBitchに相当する言葉であり、第一弾の罵り言葉としては有効だろうが、文学作品や漫画では目にする事が多いものの日本人が侮蔑の言葉として日常茶飯事に使っているとは思えない。また、とてつもなくひどい言葉を教えてもらっているので、対等な程汚い言葉だとも思えない。女性器を指す言葉を教えてもいいのだろうが、それは方言バラエティーがあまりにも多く、性的な表現ではあるが卑下の表現としては一般化されているとも思えず、断念する。

私の友人の多くも、このような経験を持っている。友人たちの結論は、日本社会が紳士的であるため、そのような言葉が育まれなかったというものだ。しかし、私は全面的に肯定できない。何故なら、幼少の頃、近所の年寄りたちは私たちが使わなくなったような表現を悪ぶれる事もなく使っていたからだ。日本人が紳士的だというだけでなく、何らかの理由で言葉狩りが横行しており、近代世界から汚らしい罵りの表現が抹殺されていったものだと考える。いわゆる「差別用語」である。

そういった言葉狩りへの皮肉も込めて、私は汚い罵り言葉として「気違い」という表現を外国人に教える事にしている。これは短く、外国人にも覚えやすい。しかも、英語に直すと、ただのCrazyという非常に一般的な言葉である。昔は「気違い」などという表現は、差別用語でも何でもなく、ただのアホや馬鹿と同程度の言葉であった。しかし、精神病患者を「気違い」と俗称で呼ぶ事もあり、「気違い」はメディアから葬り去られる言葉となった。精神病患者を「神経病み」などという言葉で喩えて、侮蔑するのなら問題だろうが、「気違い」自体が特に精神病患者を指定したものではない。風変わりな人間や、常軌を逸脱した人を表現するのにもっとも的確な言葉だ。私が小学生だった90年代の前半には、国語の参考書では「気違いに刃物」という表現は健在であった。だが、この言葉は使ってはならない差別用語と化してしまったのだ。コンピュータの日本語入力IMEにおいても、ハクチやトサツ、シナなどと共に、キチガイは変換できない言葉として扱われている。修正主義としか思えない、これらの言葉狩りには断固として反対する。

私が「気違い」などと言う言葉を外国人に教えたとして、何度か他の日本人に糾弾された事がある。どんな場合であれ、差別的な表現を外国人に教えるのはどうか、という事である。しかし皮肉な事に、そのように差別用語にセンシティブな日本人ほど、権威主義や優越主義に支配されており、差別用語を用いない差別をする傾向がある。特定の外国人や低所得者、或いは自分より学歴の低いものを、差別表現を使うことなく意図的に貶めたりする。本当の差別主義者は、差別用語など使うことなく差別をするのだ。言葉狩りではそのような連中までをも修正することは出来ない。故に差別用語などといった言葉狩りをする必要性は全くない。差別的なコンテンツはあれども、一語一語はただの言葉であり、差別「用語」などというものが差別されてはならない。気違いじみた修正主義が一掃され、自由闊達に言葉が使える事を真に望む。叶わぬ事は承知しているが、差別用語を糾弾するような真の差別者がいなくなれば良いと切に望む。そして、ドイツでスイスでイタリアで韓国で、私の教えた「気違い」という言葉が日本の侮蔑の言葉として皆の記憶に残ってもらえれば、それは私のささやかな言葉狩りに対する反抗になろう。


しかし、Crazyという英語の文面をプロが日本語に翻訳する際、「気違い」という語を使わずに一体どのように翻訳しているのだろうか?「He is crazy!」は「彼は常軌を逸脱している」か「あいつはキチガイ!」のどちらが良い日本語か?「I am crazy about fishing!」は「私は狂おしいほど釣りに夢中です」か「俺は釣りキチ。」のどちらがより良い訳語であるか?読者に私の言わんとしていることがきっちりと伝わればよい。

自民党政治家の仕事は政敵の予算を引っ剥がして、自分の支持者に付け替える事。

簗農水大臣が批判されているが、ニュースをきちっと見れば見るほど、何を批判されているのか不明である。簗さんは雰囲気が辛気臭いし、別に肩入れする気もないが、批判を受けている理由は全く不明である。 政治家の仕事は予算の付け替えである。政敵の予算を削減するというのは、当たり前のことである...