ただ、私がここでいう同性愛者とは、生化学的に脳の機能が体の表現型である性別と乖離している状態の人間をいう。LGBTの中だと、トランスジェンダーに一番近いものと思われる。つまり、男性器を有しているのに、脳や自律神経が遺伝的な原因などで女性として反応している場合。或いは、女性器を有しているにも関わらず、脳や自律神経が男性的に反応している場合を呼ぶ。こういう人は必ずクラスに一人くらいいるものだ。
表現型で性別を判断し、無理矢理こういった人達を社会の「男らしさ」や「女らしさ」という型にあてはめ、脳の認識を無視して社会的に男性や女性を演じさせる事は可哀想である。本人達も不幸になるし、関わった回りの人達も不幸になる。日常生活内で、色々な軋轢も出てくるだろう。私の小学生の同級生なども、ゲイだと誰の目にも明らかだったにも関わらず、大学を出てすぐに親に無理矢理結婚させられたが、すぐに離婚した。親はその子の事を黙殺している。
そういった不幸を避ける意味で、ゲイの人達はゲイとして生きて欲しいと思うし、きちんとカミングアウトしてくれる事を望む。そうする事で無駄な軋轢を減らす事も出来るのだ。ゲイの人たちをゲイとして受け入れると、ゲイの人達も幸せであるし、ゲイで無い周りの人達も幸福になる。周りの目があるので結婚もして子供がいるにもかかわらず、週末にこそこそと新宿二丁目のサウナ発展場に通う、などといった不幸を助長する一時凌ぎの馬鹿げた行為も起こらなくなる。
数年前、知り合いのアメリカ人が、ある日突然ゲイをカミングアウトした。それまで、その男が嫌いで仕方なかった。物凄く陰鬱で嫌な奴だったのだ。しかしゲイをカミングアウトして、物凄く付き合いやすい奴になった。今では一緒にビールを飲んだりする良い友達である。ゲイである自分を認めなかった何かが、彼(?)の性格までをも歪めていたのかも知れない。
サウジアラビアから留学しているゲイの友達がいた。ご存知の通り、アラビア社会ではゲイは死刑に値し、親からは勘当される。異国のアメリカの地で、彼は完全にゲイの生活を満喫していた。楽しいんだろうな、と思った。いつもは私たちにオネエ言葉で喋る癖に、アラビア人同士で会うと急に男っぽい声になり、ナヨナヨした素振りも見せなくなった。何をかいわんや、である。
日本でも、社会がもっとゲイに寛容になるべきだと思う。ゲイがカミングアウトしやすいような環境を作ってあげる事が皆の為だと思う。ここまではセクシャルオリエンテーションの話であり、当然守られるべき人権の話であると同時に、全ての人を幸福にするための社会的示唆である。日本とは「辛抱」が強いられる社会であるが、こんな事は我慢できる問題ではないし、他の人にとっても不幸になる問題である。
ただここで問題になるのは「誰がゲイで誰がゲイでないか」という問題である。ゲイという問題が歴史的にタブーであったからか、ゲイであるかどうかの判断が「自分自身がどう思うか」に委ねられている場合が多い。しかも、タッチーな問題であるため、科学者や医者は見解を避けている。しかも、心理学者が賢いフリをしてリベラルな意見を言う傾向にある。となると、生化学的にゲイでない人達がゲイである、などと言ったふざけた見解を持つに至る。社会的に人権を蔑ろにされているゲイの人達、そしてゲイのふりをするただの変態。この境目を見極める事が、不可能でないとすれば、非常に難しい。もちろん、私自身、ホモセクシャルかヘテロセクシャルの間にはっきりした線引きがなされるとは思っていない。ただ、私は概念的にこの両者をはっきりと分ける事こそが、セクシャルオリエンテーションを理解させる近道だと考える。
脳機能に問題がない普通の人が同性愛を楽しむのは、ただの変態行為である。たとえば、江戸時代や昭和の初期頃まで蔓延っていた男色行為があるが、あれはただの変態行為であった。特に未成年の少年相手に性行為を強要するなど、今の世の中では牢獄に入れられるような行為が黙認されていたわけである。これらの男色は、ホモだから楽しんでいるのではなく、普通のセクシャリティーを持つ人間が、マスターベーション代わりに少年を使っているだけである。そういう事が「粋」だと信じられていた時代があったのだから、隔世の感がある。寮でストレートの女子学生同士が経験として同性愛を楽しんだ、などというのは興味本位の変態行為であり、セクシャルオリエンテーションとは関係のない話である。逆に、ゲイの男(心は女)が普通の女性と性行為を楽しむのも、ただの変態行為と言っても良いだろう。
バイセクシャル(両性愛)な人が存在する事は良く知られている。が、バイセクシャルという権利はあり得ない。その時々において、バイセクシャルの人は、同性を愛するか、異性を愛するかのどちらかの選択肢しかないからだ。バイセクシャルの権利を尊重しろなどとうたっている人達は、ただの「フリーセックス主義者」である。男と女の両方を同時に相手にする事は、本人が勝手にする問題であり、社会が人権を守るような問題ではない。そういった行為に眉を顰められれば、それは本人の落ち度であり、社会的な差別ではない。現時点で特定の男を愛するか特定の女を愛するかわからないので、どちらとも付き合いたい、などと言うのは優柔不断のわがままであり、どちらか一方に決めなければならない。そこに権利が侵されている事実は全く存在しない。そういった問題があるならば、精神科医に見てもらって、自分がどちら側なのか、自分探しに重きを置くべきだ。
「社会がバイセクシャルの権利を守れ!」という意味がわからない。バイセクシャルの人に、同時進行で男と女と結婚する事を社会が認めるのか?それは、多重結婚を認めろ、浮気をする権利を守れ、変態行為に陽の目を当てろ、未成年との性交を許可せよ、などと言った荒唐無稽な要求となんら変わりはない。バイセクシャルなどといった括りは存在してはならない。異性愛者にせよ、同性愛者にせよ、本人が自由恋愛や乱性交を繰り広げてたいという欲求は守られるべき権利ではない。やりたければ勝手にすればいいだけの話であり、それを不道徳な行為と考える人も当然出てくるだろう。バイセクシャルを公言してフリーセックスに励むただの変態たちが、ゲイの権利要求に参加している為、まともな意見ですら面白おかしく聞こえることがある。本当に困っているゲイの権利を社会は尊重せねばならない。ただしゲイの権利は認めるものの、ゲイ以外の変態がゲイに与えられた権利を拡大解釈して濫用する可能性があり、慎重に法律を作ってもらわなければならない。それこそはゲイの為でもある。
社会が真っ当な方向でマイノリティーを守るため、「ゲイの権利は守るが、バイセクシャルの人権を守ろうとしている人達は多田野変態です!」と大きい声で言って欲しい。味噌と糞を一緒に討論しないで欲しい。(注:「只の」と打ちたかったのに多田野と変換されました。あまりにも正当な変換なのでそのままにします。)
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