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12/25/2021

政府の債務問題は、個人の問題であり、社会の問題ではない

日本は支出を増やすべきかどうか、みたいな議論があるのだが、どうも嚙み合わない。

政府寄りの人たちは、システムそのものは破綻しないと言っている。私は、その通りだと思う。円建てで債権を発行している限り、日本が狭義的な破綻をすることは無いし、年金は払い続けられる。

多くの識者が心配しているのは、政府の胸三寸で、勝者と敗者が逆転する可能性があるという事である。将来を心配して今まで地道に貯蓄をしていた人たちが、泣きを見るような形での解決法が採択されるのではないか、と心配している。また、政府がコントロールできずに、意図しない形で、個人がダメージを受けることもあると思う。マーケットは気まぐれであり、悪意をもって仕掛ける輩も大勢いる。

多くの経済識者が、日本の借金の多さを心配しているというストーリーは完全に出来上がっているわけであり、市場で取引されている長期国債を狙えば、市場を揺さぶる事が出来るわけだ。何かが起これば、機関投資家や銀行などの逃げ足が一番早いというのも皆知っているだろう。

国債は、市場に任せ続けると仮定した場合は、ねずみ講と一緒であり、皆が信じさえすれば、裾野を拡げながら拡大し続ける。が、逆の力学も起こりうるわけで、それを個人のリスクとして、多くの人たちが心配しているわけだ。

しかし、日本の国のシステムとして年金や、その他諸々のシステムに関しては、「破綻(クラッシュ)」するような事はないだろう。


12/07/2018

縁故資本主義の自民党を倒す方法。正しい移民の受け入れ方。

外国人労働者の受け入れを拡大する改正出入国管理法が議会を通過した。山本太郎議員が「これに賛成票を投じた議員は保守を名乗るな」と言っているが、その意見自体はもっともだと思う。

縁故資本主義を標榜する自民党を倒したければ、「本当の保守」ゲームを実行すれば良い。つまりは、トランプが行ったインチキ選挙運動を模倣すれば良いのだ。田舎や都会の低所得者をターゲットに、「移民をこれ以上入れるな、日本の心を本当に守ろう。安部はグローバリズム主義者です!」という運動を真剣に行えば、次の次の選挙で絶対に勝てる。この運動の音頭を取る人は、敵を大量に抱える必要があり、ピエロに徹する必要があり、残りの人生をあまり楽しめないだろう。しかし、リターンは無茶苦茶大きいと思う。

自由主義者の私は移民を大量に受け入れ、移民に日本人並みの責任や負担を敷いた上で、同等の権利を与えることに賛成です。よって、そういう政党には投票しません。

移民を受け入れるのであれば、現実的に、色々なものを抜本的に変える必要が出てくるだろう。税のとりっぱぐれを防ぐためにも、固定資産税や消費税を増税することは必須になる。住宅の固定資産税を上げると、住民の流動化が起き、閉鎖的なコミュニティー問題が解決するだろうし、空き家問題もなくなる。また、金のない昔から住み着いている住人や会社を東京や大都市の中心から追い出すことができる。義務教育制度は抜本的に変える必要があるだろう。言うまでもなく、保険や医療などは今の改革以上のものが求められる。地方自治体が権限を持っているもので、一元化したほうが効率的なものをどんどんと一元化し、逆なものはどんどんと地方自治体に権限を移す必要も出るだろう。警察の捜査権や逮捕権にもガイドラインを作り、犯罪を犯したような移民を「始末」する方法はきちっと考える必要があるだろう。

自由主義者も保守主義者も、そこまで根性のある人がいないので、結局自民党がのさばってしまうというのが日本という国の国体なのだろう。しかし、日本という国は自民党のもとにすでに「オールド・ジャパニーズ・ファースト」が完全に出来上がっている気もする。今回の法案は言ってしまえば、奴隷を合法的に増やそうという事に他ならないからだ。

8/27/2018

タトゥー禁止問題:気に入らないからと人の権利を弾圧する人たち

銭湯やサウナは、「ヤクザのご入浴をお断りします」と書きたい。だが、そのような生々しい表現は使いたくない。そこでオブラートに包んで「入れ墨を彫っている人のご入浴を禁止します」というような曖昧な表現が確立してしまった。

で、そういったルールにやたらと反応するモラルポリ―ス(道徳警察)或いは風紀委員がいる訳だ。そういった連中が、ちょろっとオシャレか何かでタトゥーを繍れている人まで攻撃する。態々、店の店主とかにチクって「入れ墨入れている人がいるが、風紀が乱れるので何とかして欲しい」などと言いに行く。会社の本部に電話して文句を言ったりする。

店主はお客に言われた事を無礙にできない。刺青が入っている確率と、柄が悪い奴が多い確率は確かに相関関係がある。正義感に燃える店主は、不必要な「入れ墨禁止!」とかのサインを目のつくところに張り出す。それを見た客は完全に洗脳されて「浴場に刺青をしている人がいるのはモラルに反する」とか思い込む。

しょうもない張り紙をする事に違和感を覚えるが、もし何かを書くのだとすれば、銭湯やサウナのオーナーは堂々と「ヤクザや反社会勢力の方の入場を禁止します」と書くべきだ。繁華街のサウナなんかはそういう表現になっている。

直接迷惑をかけるような人に文句を言うのは当たり前である。しかし他の人の行動が気に入らないと文句を垂れるのであれば、公衆の場に行くべきではない。たかだか一人の客が、他の人の権利を狭める権利などない。

タトゥー禁止、犬を入れるな、ベビーカーお断り、エスカレーターを歩くな、電車で化粧をするな・・・大きなお世話である。公衆の場で、気に入らないからと人の権利を勝手に禁止する権利など誰にもない筈だ。公共の場で他人の権利を弾圧できると思っている奴らが日本には多すぎる。

嫌ならテメェがするな。他の人が何をやってても、それは他人の勝手です。見たくないなら、金を払ってプライベートクラブに行くなり、タクシーに乗るなり、プライバシーを金で買えばよい。公共の場で他人が気に入らないと喚くバカ。それに靡いて「禁止サイン」を張る馬鹿。いい加減にして欲しい。

7/28/2018

オウム事件の死刑囚は個人として裁かれたという基本

オウム事件で死刑囚たちに死刑が執行された。何とも言えない嫌な気分になった。テレビに出てくるコメンテーターたちの軽い意見を聞くと、さらに解せない気分になった。

日本の刑法は個人の責任を裁くものである。法律に則り、犯した罪に基づき、13人に死刑という日本の法律上もっとも重い刑が科された訳である。

個人がオウムというカルトに属していたかどうかと言う事については、事情を判断することはあれ、日本の法律的な枠組みでは直接的に関係のない事である。オウム信者は個人として結果に対して裁かれたと言う事を見逃してはならない。

テレビを見渡すと、刑を執行された弟子たちがオウム真理教に入信した経緯や、洗脳された過程、あるいは未だにオウムを信じる人たちがいることが報道され問題視されている。問題視するまでは良いのだが、国が対処するべきだったというようなコメンテーターがいるのには驚かされる。個人がどのような考え方を抱こうが、どのような宗教を信じようが、それを国が規制することは出来ない。

相模原障碍者施設で殺傷事件を起こした植松が裁判で「障碍者は社会のゴミ」というような発言をしているらしいが、植松がそのような考え方を抱くことは自由である。何を考えようが裁判所は刑法を基に個人を裁いているのであり、植松がどのような考え方を抱いていようが裁判には関係がない。

個人がどのような思考をもって犯罪を犯したのか。その思考回路が世間一般から乖離していればしているほど面白い。それをマスメディアが視聴率を稼ぐために面白おかしく報道し、最後は規範的な話に持っていこうとする。こういった姿勢が一般の人たちの心情を歪めているのではないか?

邪悪な考え方を持つな。邪悪な教団から距離を置け。邪悪かどうかなどという規範的な判断を客観的にすることは不可能だ。個人の考え方を国がコントロールすることは不可能だ。個人ではない団体としての責任や、抜け出す事の出来な団体に身を預けたときの個人の責任論など、オウムの事件においては議論が終わっていないことが多々ある。このような議論をする際には、国には個人の思考は強制できないし制御できないという、基本的な原則を忘れないで議論してほしいと思う。

LGBTを馬鹿にする議員がいるのは日本が劣るから?

杉田水脈というネトウヨのような人が国会議員をしている。主義主張のレベルが低く、このような人間が国会議員になっているというのは嘆かわしいことだ。そんな意味でも、私は議員の数を削減する必要があると思っている。

ただ、杉田の意見が欧米では受け入れられないという意見については、私は違うと思う。アメリカや欧州の一部では同性愛が最近まで刑罰に触れていたというのが事実である。それに対するアンチテーゼとして、同性婚などが認められたという背景がある。原理キリスト教的な禁欲主義的な考え方が強い地域では(注:キリスト教には色々な宗派や考え方がある事には注意)、同性愛などを真っ向から批判するような「保守的な」市民の代表(つまり国会議員)がかなりの数いる。

わが国では、同性愛などが政治で語られることはなかった。同性愛は暗黙の了解として、「地下」で歪な形でむしろ許容されていた。ただ、本当に性同一性障害などに悩むような個人を救済するような社会的システムは提供しなかった。そして、そういった人たちがいるという事実から積極的に目をそらそうとしていた節もある。

私は、性同一性障碍者が一般の人達と同様の権利を認められるべきであると思う。結婚という呼称を使うかどうかは議論を重ねる必要があるだろうが、自己の責任の下に人々が自由にして問題がない事項について、政府や他人が自由を束縛していはならないと信じている。

ただ、むやみやたらに税金を使って助成したり、政府が関与する形で組織を作ったりすることには断固として反対する。政府は法制定(この場合は婚姻などの規制の緩和)で人々に権利付与することができるのだから。

国会議員が気に入らなければ、選挙で落とせば良い事ではあるのだが、杉田というような三流の人間を議員として擁している現在の自民党にはがっかりする。(これは多様性ではなく、資格がない人が議員をしているという組織の質の問題。)ただ、オバマ政権が激しい政争の末に勝ち取った同性婚をもってして、アメリカではLGBTを蔑ろにするような人がいない、といった論調には賛成しかねる。この点に関しては、日本が欧米よりも遅れているとは思えない。むしろ、ほんの十年ほど前までの欧米こそが人権を蹂躙する国家であったのだ。

3/09/2017

社会主義の足音(1):飲食店全面禁煙は国による個人営業権への介入

健康増進法改正案に、「飲食店では禁煙が原則禁止」などといった対策が盛り込まれるというのだ。国が民間の営業に介入するのは、自由主義の我が国においては憲法に抵触する可能性のある間違った考え方だと思う。この法律によって、小規模の個人経営の店の経営が大打撃を受ける可能性がある。国の政策によって大規模店舗に恩恵を与える事は、間違っている。日本は社会主義国ではない。

欧米では、建物内を基本的に禁煙にしている市町村が多々見受けられる(全てがそうではないという事に注意が必要)。これで不自由を感じたことは余りない。レストランやバーでは、喫煙者は店の外に行ってタバコを吸うか、テラス席などに陣取る事になる。欧米に行き、こういった風景を観察した日本人のエリート紳士淑女たちは、これこそが喫煙のあるべき姿だと考えて、日本でも同じような事をさせようと企んでいる。

アホか、と言いたい。日本の繁華街の方が欧米各地にあるダウンタウンと比べても、ずっと楽しく安全である。新宿、渋谷、新橋、梅田、難波、天神、すすき野。このあたりよりも賑わっている欧米の街を私は知らない。多様な店舗が入り乱れ、小さな店が一杯ある。日本の繁華街は、個人のアントレプレナーシップの塊である。これは世界に誇れる日本の良さである。そして、そういう所で日々努力している経営者たちのアントレプレナーシップを、霞が関の官僚や虎ノ門の外郭団体が邪魔する事はあってはならない。

日本の都心でテラス席を備えたような飲食店があるのか、と。繁華街の個人経営の飲食店は雑居ビルの中にあることが多い。新橋の小さな居酒屋で食べたとしよう。或いは阪急東通りの居酒屋でも良い。タバコが吸いたくなれば雑居ビルの外に出て吸うのか?その方が副流煙で周りに迷惑になると思うのは私だけだろうか?個人で営業しているような店で、分煙と喫煙を分けられるような広さを持っているところばかりではないと思うのだ。テラス席を作れるのは、チェーンのコーヒー屋と大会社がバックに経営している居酒屋くらいの物である。

日本ではタバコは政府に認められている嗜好品である。昔は多くの人達がタバコを嗜んでいた。で、繁華街の飲食店の多くも喫煙をする人たちを念頭に店舗経営のコンセプトがなされている場合も多い。「小さな店舗でたばこを吸いながら時間をつぶす人に飲食を提供するようなサービス」というビジネスモデルが国の介入によって否定される事は間違っていると思うのだ。

単純な話で、「全席禁煙」「分煙」「喫煙席有」「喫煙可」という英語表記をつけたサインを店の前に貼る事を義務付けるだけですべては解決する話である。店に入るかどうかは客が選べば良い事だ。経営者は自分たちの経営方針に従って、どうするかを決めれば良いと思うのだ。そうすると、流行っている店は基本的に禁煙を選ぶと思う。逆に、流行っていないところは喫煙可などとして色を出してくると思う。それこそが自由経済の国のあるべき姿である。

私が勘繰るに、コンビニや大規模チェーン店は禁煙条項で得をするのだと思われる。居酒屋に行かずに中食しようとか、どうせ禁煙なら他も禁煙にしろ、とか考えているのだろう。そういう大型店舗の後ろには商社がついており、商社が必死に厚労省の政策を後押ししているのではないか、とさえ勘繰ってしまうのだ。こういう事を許可すれば、小規模な店舗の多様性が損なわれ、日本中が大規模なショッピングモールになってしまうのではないかと危惧している。ビッグブラザーはいらない。日本は社会主義国ではない。

10/24/2016

沖縄の基地反対派をしている本「土」出身で自分探しをしている大の大「人」に、「土人」と蔑んでみる

ユーチューブにアップされている映像を見たが、警官は「おい、やくざ」とか呼ばれている。大阪府警にヤクザまがいの人間が多くいることは誰でも知っている。このくらいの対応が出来ないと、四条畷や貝塚の暴走族と対峙などできない。ミナミやキタで酔っ払い相手に対応している警察も、いつもこんな感じである。大阪人に多いのだが、この警官も他県に行って無理やり汚い大阪弁を使って、自己主張をしているのだろう。いずれにせよ、古今東西を問わず、警察は嫌わるのが仕事である。大阪から暖かい南の島へ仕事をしに行き、ご苦労様としか言いようがない。

土人とかいう表現を切り取って、差別用語だなんだと言っている人達の頭の回路が、いかにもな左翼で、この事件の面白さが際立ってしまう。しかし、土人とかいう表現は唐突過ぎて語彙的に面白い。

というよりも、大阪府警をこんな辺鄙な孤島まで連れて行っているのは税金の無駄である。自分探しに明け狂う、本土出身の「土人」達に、警官の給料や移動費を請求すべきだ。まさか大阪府民の税金がこんなところで使われているのではないだろう。

12/16/2015

合憲か違憲かというつまらん憲法問題

夫婦同姓が合憲か違憲か、というくだらない裁判が争われていた。

私は夫婦同姓を強制する現状の民法は時代遅れであり、規制を緩和し、同姓でも別姓でも好きに選択できるようにするべきであると思っている。

ただ、そんな私から見ても「夫婦同姓は違憲か?」という裁判はおかしいと思う。国が自由を束縛することが違憲なのであれば、「規制」はすべて違憲である。逆に、合憲であれば何でも良いのか?という問題もある。

私の意見は、違憲か合憲かという問題ではなく、夫婦同姓を強いる縛りは「無駄な法律」であり、必要性が乏しい法律はどんどんと廃止していくべきだと思うのだ。

法律を変えるのは立法府、つまりは国会議員の仕事であり、政治で解決するべき問題だ。何故裁判所に違憲か合憲かを判断させる必要があるのか?意味が解らない。そういう事にこだわりたい偉い憲法学者か運動家が一杯いるのだろう。

日本には無数の無駄な法律や規制がある。合憲であれ、違憲であれ、そういった無駄なものをどんどん廃止することに汗をかいてくれる国会議員を、私は応援したい。フェアで時代に準じた法律や規制さえ残せば、残りはいらない。我々が必要なのは、規制の緩和であるのだ。

「夫婦別姓にしたら離婚が増える。別姓の親の子供がかわいそう。」そんなことはあなたにとって関係ないし、嫌なら同姓にすれば良いのだ。

掲示板の書き込みを見ていると、日本では不必要なルールを「文化」だとして、甘んじて受け入れようとする人が多いように思う。必要ないものは必要ないし、規制に規制の上塗りをして儲かるのは弁護士と公務員だけなので、法律をどんどん削除していって欲しい。法律家や法の番人、監視機構などが蔓延る日本の世の中は非効率的である。

同時になされた、女性は6か月間再婚できないという民法。違憲が出されたのは当たり前だと思うが、20-30年くらい前に何故この法律を抹殺しなかったのか?裁判官に違憲判決を出される前に、自発的に時代錯誤な法律を消すべきだ。意味が解らない。兄さん、世間は既に21世紀ですよ。違憲だから変えるとか、合憲だから続けるとか、そういう問題じゃない。不必要な規制はどんどん撤廃せよ、と言っているのだ。

憲法問題に興味がある左の人が夫婦別姓や再婚の縛りを無くそうとしている、などという下らないイメージを植え付けるので、左派の人には詰まらない政治活動は慎んでいてもらいたい。こういう事をすると、頭の固い右の連中が頑なになるだけである。

4/07/2015

マスメディアが中立公平であるなど、不可能

マスコミについて意見をする人が大勢いる。いつも驚くのが、「マスメディアは中立であれ」という前提に立って議論している文化人の多いことだ。中立公正な立場など、建前であり、絶対に実現不可能である。

世の中には多くの人間が住んでおり、多くの意見が存在する。違う意見や価値観を持つ人の視線で物事を見ると、同じ現象であっても違いが出るのは当然の事である。

左右の話しをすると、いつも訳が解らなくなるが、左の人が見る風景と、右の人が見る風景は、同じものを見ようとも、違っていて当然なのだ。

公正であるべきであるからこそ、朝日は基本的にはリベラルな番組構成をするだとか、読売は保守的な番組構成をするとか、そういった情報の開示が必要になってくる。そういうレンズを通して物事を観察していますよ、という事を何らかの形でわからせる必要がある。で、ほとんどの日本人はそれを理解していると思う。

朝日の番組を見て左翼的だから気に入らんとか、産経のニュースを見て保守的すぎて気持ち悪いとか、面白いことを言う人がいるが、嫌なら見なければ良いだけの話しである。NHKは公共放送だから中立でなければならない、とか言う人がいるが、それならば中立を定義しろ、と言いたい。嫌なら見るな、と。

同質性に安心感を求める日本人には特に多いのだが、物事に絶対の真実があると考えている人が大勢いる。そして「中立公正」という幻想を見るのだろう。私にとって、マスメディアの報道は、「馬鹿」か「まとも」、そして「好き」と「嫌い」の二次元に別れている。馬鹿で自分が好きじゃない報道に出くわせば、チャンネルを変えれば良いだけの話しである。

放送法自体がいかれていて、放送は「政治的に公平でなければならない」とある。そんな事は無理なのだから、放送法を変えるべきだと思うのだ。民主党よりや、自民党よりのニュース番組がある方が世の中はまともに機能する。小泉自民党を支持していたと思ったら、急に安倍自民党を一斉にこき下ろし、民主党を持ち上げ、手のひらを返して一斉に民主党をけなし、安倍を礼賛しておいて、次はアベノミクスは機能していない。こういう風に、全マスコミが同じような意見をいう状況のほうが完全にイカレている。中立というものが存在し、中立に立った意見を言うのが義務であれば、コメンテーターは必要なくなる。

虚偽報道やプロパガンダはいけない。だが、どこかの政党寄りの放送をして、何が悪いのだ?局の視聴率に響くだけの事だろうと思うのだ。

報道ステーションの報道内容が偏っていることくらい誰でも知っている。古舘が薄っぺらい人間で、一般常識的な知識がなく、感情を煽る事くらいしかできない事など、皆が知るところだ。それが嫌なら、見なければ良いのだ。報道ステーションに嫌悪感を抱きながら、その報道を真面目に見続けている人間こそが異常だと私は感じる。(アンチ巨人のように、冷やかしで報道ステーションを見ている暇な人はアリです。)

6/12/2014

個人情報保護が書類改竄を助長するという話し

過去にも書いたのだが、友人がアメリカに来た時にクレジットカードが使えなくなったので、代わりに支払いをしてあげた。はい、私がお人好しの馬鹿でした。その友人が、日本に帰国後、自分がクレジットカードで支払いをして、実際にクレジットカード会社から催促されている、などという小学生程度の戯言を言い出した。そのうちクレジットカードの明細書が写メールで送られた。しかし為替レートなどを計算してみると、辻褄が合わない点が多く、イラストレーターか何かのソフトを使って細工されていると結論付けた。

嘘とは解っているのだが、嘘つき呼ばわりすると「名誉棄損」などで訴えられかねない。そこで日本にあるクレジットカードの会社に電話して、明細書の真偽を確認した。そのクレジットカード会社は某大銀行所属の会社である。電話で対応した人は、相手のクレジットカード番号を聞いてきた。そんなの知る訳がない、と言うと、「相手の同意がなければどうにもならない」と言う。子供でも解るが、明細書を偽造するような相手が、私に情報を提供する事に合意するわけがない。30分以上も話し込み、「お客様センターに写メールを送れば、何らかの対応が出来るかも知れない」という話しを聞いたので、ファイルを送った。

後日、そのクレジットカード会社から届いた返事は、「個人情報保護の観点により、お客様の口座内容についてはお話しする事は出来ません。個人間で解決してください。」という事であった。

こんな馬鹿な対応があっていいのだろうか?私の友人はクレジットカード会社が発行した書類だと言い張り、その会社の名前が入った書類を私に提出したので、私はそのクレジットカード会社にその真偽を確認しただけである。私は、その会社がその書類を本当に発行したかどうかを問うているのだ。その会社は「自分たちが発行した物である(内容は間違いない)」か「自分たちが発行したものとは言えない(オリジナルなものではない)」という事を言う責任があると思うのだ。私は「どこに」間違いがあるかを教えて欲しいなど、個人情報を聞き出そうとしたのではない。

個人情報保護の元、書類の真偽すら確かめられなければ、現代社会は成り立たない。PDFや写メールで書類の確認をする場合があるが、それらをイラストレーターなどを使って改竄する事はとても簡単だからだ。個人情報保護の名の下、書類の真偽が確かめられないのであれば、書類を改竄しなければ損である。

一般企業に就職活動する時は、改竄した東大の学位授与の証書を持って行き、成績表は全て「優」にする。一般企業や個人に銀行の明細書の提出を求められれば、イラストレーターで自分の都合よく数字を変えればよい。一般企業や個人は、個人情報に触れる事ができないので、証明書の真偽など解る筈がないのだから。詐欺行為を助長するような個人情報保護の在り方には疑問を感じざるを得ない。個人情報保護法は詐欺被害などを少なくするために出来たものだと考えているが、情報共有を恐れる余り詐欺を助長する一面もあるのなら、本末転倒も良い所だ。

11/18/2013

贅沢銀行券

元記事

レジから「贅沢諭吉の百万円札」 岩手のイオンモール

朝日新聞デジタル 11月18日(月)
 【松本龍三郎】盛岡市本宮にあるイオンモール盛岡南で17日、食料品を販売する店舗のレジから「百万円」と書かれた紙幣大の付箋(ふせん)が見つかった。岩手県警が詐欺容疑を視野に調べている。 盛岡東署によると、午後4時ごろ、店員がレジの現金を確認したところ、「百万円」と印刷されたものがあることに気づいた。裏は白紙で、紙面上部はのり付けされていた。「贅沢(ぜいたく)銀行券 百万円」「贅沢付箋印刷局製造」などと書かれ、福沢諭吉に似た「贅沢諭吉」が描かれている。 付箋がレジに紛れた状況や被害がはっきりしないため、店が提出した被害届を署は受理していない。「百万円札」が実在しないことから、署は偽造通貨には当たらないとみている。

こんなところにもアベノミクスのインフレの悪影響が出ているのですね。ゼロの数が二つも増えました。


7/11/2013

選挙も経ないまま、日本は事実上の移民受け入れ国へ。

私のブログを読んでもらえば解るのだが、私は日本の中長期経済成長には「移民の受け入れ」が一番簡単で且つ効果的な政策だと考えている。当然、こういった政策が参議院選の卓上に乗って来るのかな、と思っていたが、流石に選挙民と関係のない事は誰も言わない。これはアメリカでも同じで、移民政策は選挙の焦点にはなり得ない。心の中では移民を受け入れたいと願っているのに、政策論争ではまるでタッチしない。何故なら票には繋がらないからだ。 今回、厚生労働省が急に、「3年間、技術者や経営者として日本で働けば移民権がもらえる」といった政策を持って来た。昨年から「高度人材ポイント制度」を導入し、それまでの10年の滞在要件を5年に引き下げたばかりであったが、今回の改正案はそれを更に3年にまで短縮することで、優秀な外国人が日本で長く活躍できるようにしようと言う物である。更にその配偶者、親、家政婦の帯同も可能になるという。これは、オーストラリアやカナダの移民政策よりも緩い政策である。 恐ろしいのは、選挙も経ないまま、このような大切な法案が霞が関でこそっと策定され、知らない間に「日本が移民を容認国家」への布石を準備しているという点である。移民を受け入れるか否かは大変重要なかじ取りであるので、民主主義にのっとって、選挙の争点としてもらわないと困る。選挙も経ずに知らず知らずのうちにこっそりと霞が関が国家の未来を決めてしまうのは、如何なものなのか?いくら良い案であるからと言っても、民主主義を無視するような政策立案には怒りを覚える。

5/28/2013

乙武騒動について考える。障礙者に優しくないのが東京の強み

ツイッター上などで盛り上がっている話題について本ブログで思いを巡らせるのは嫌いなのだが、思う所があるので、自分自身のメモとしてこの記事を書いている。

乙武氏が銀座のトラットリア・ガンゾーというレストランで、エレベーターの止まらない二階まで運んでもらうのを拒否された云々という事件があった。はっきり言ってどうでも良い出来事である。その事件に対して、ツイッター上で人々が自分たちの意見をぶつけて、いわゆる炎上という事態になったという。

それに便乗しようとして、乙武事件がコラムなどで引用され、記事の「フック」として使われている。日経BOに載っていた慎氏の記事など、まさにそれである。慎氏の記事は、ユーモアが全くないうえ、論理展開が無茶苦茶なのと、浅はかな思い込みが鬱陶しいので、コラムは読むに値しないと考えているのだが、コメント欄が面白くて、興味深かった。慎氏は、日本人が不寛容なので障礙者に優しくない、などと面白いことを書いていた。この問題について少し考えてみたい。

私は今まで色々なところに住んできたのだが、特に欧米の先進国で、障礙者の人が公共交通機関を一人で使う事に出くわす。障礙者に手を差し伸べる人が多くて、かなり微笑ましい。助ける人も助け慣れているし、助けられる人も助けられ慣れている。そういう光景を見ると、こちらの気分も良くなる。アメリカでは、軍人系の筋骨隆々とした障礙者が多く、そういう人達にリスペクトを見せるという文化も定着しているし、車椅子を利用する人の割合が日本とは比べ物にならないくらい多い感がある。

老人が公共交通機関に乗って来る事も多い。欧米や台湾では、お年寄りが交通機関に乗ってくると、すすんで席を譲る。非常に気持ちの良い光景だ。だが、私の生まれ故郷、大阪でも人々は老人にすすんで席を譲る。日本であれ、老人には席は譲るものなのだ。

大阪人の私が東京に行くと、人々が冷たく見える。ニュースメディアに洗脳されてしまったのだろうが、東京ではベビーカー、妊婦や老人が来ようとも席を譲らない、らしい。そんな事はない。昼間の比較的空いている時間帯に電車に乗ると、結構みんな席を譲っている。ただ、通勤時間帯に席を譲ったりするのは不可能である。関西であれ、通勤時間帯に御堂筋線の梅田-難波間などで優先されるべき人達を優先することはできない。他にも、路線にもよるが、高齢化したわが国では、乗客がほぼ老人という場合もあり、老人が老人に席を譲る訳にはいかない。

シアトルで、レイクワシントンを越える州道520が課金されるようになってから、朝晩のバスが物凄く混むようになった。立っている人が大勢出て来たのだ。するとどうだろうか?老人がいようと、バスに乗った学生は寝たふりである。いつもは優しい人々が、混雑する公共交通機関内では冷たくなるのだ。パリでもロンドンでもニューヨークでも、電車が物凄く混雑した時に乗ってみればよい。「社会的弱者(この表現が嫌です)」を助けたくても助けられない場合があるのだ。

このコラムで何度も指摘しているが、東京首都圏は世界でぶち抜けた規模の都市圏である。公共交通機関の混雑具合は間違いなく世界一だ。住んだ事がある人なら知っていると思うが、ニューヨークやロンドンなどの交通機関の混み具合は、大阪圏と同等か、それ以下である。絶対的な混雑度が違う。自分が痴漢犯と間違われないように注意することに精一杯であり、あの環境下で人を助けろ、という方が無理である。

優しさとは、何か?品とは、何か?美学とは、何か?これらは文化毎に、そして人々の間でも大きく違う。アメリカに来て、日本とはずいぶん違う「マナー意識」があり、驚いている。まず一つ目に、食事中に何かを取ってもらいたい場合は、自分で取ってはならないというものだ。レストランであれば「給仕」に頼むべきである。欧米のレストランでは、給仕が執拗にテーブルに来て「ごちゃごちゃ」聞いてくるが、あれが欧米でのサービスなのだ。アジア人の感覚とすれば、食事中に鬱陶しい、となる。

家庭でも、塩や胡椒、ナプキンを腕を伸ばして自分で取ってはならない。絶対に、「Could you pass me the salt, please?」と言って、食事をしている相手を煩わせる必要があるのだ。日本人の感覚では、自分で出来る事は、人を煩わせず、自分でするのがマナーである、と考えるかもしれない。

あとは挨拶。相手が忙しかろうとも、欧米人は平気で挨拶をする。忙しいから挨拶をしない、といった行動がマナー違反と考えられる場合もある。日本では、人が忙しい時は挨拶をしないのがマナーであると考えられる場合がある。最後に、欧米では車を運転しているときに、運転手が会話をする相手に目線を合わせてくるのだ。同乗者としては、運転に集中して欲しいのだが、喋っている相手の目を見ることがマナーであると考える欧米人が多いのだ。日本人なら、事故を起こさない事がマナーであると考える人の方が多い、と思うが。これは文化的な違いであろう。

日本では幼少の頃より、「自分で出来ることは自分でしなさい」と習う。「出しゃばるな!」という事も同時に習う。この教育が行き過ぎて、中学生にもなると、生徒たちはクラスで手を上げて質問することをしなくなる。出しゃばる事は悪い事であるからだ。欧米の高等教育に参加し始めた日本人が初めにビックリすることは、欧米人はクラスで出しゃばるのだ。

私は大阪に生まれ、大阪に育った。商売の都、大阪という地では、出しゃばる人間に優しい文化がある。出しゃばりはユニークであり、そういった生き方をリスペクトする文化がある。ユニークな人ほど成功するという考え方が結構浸透している。大阪では、人々は優しい。困っていれば優しく手を差し伸べてくれる人が大勢いる。つまり、お節介な人たちが一杯いるのだ。ただし、それに隠れて詐欺師のように振る舞う人間も大勢いる。つまり、人を信じるも馬鹿、信じないも馬鹿である。神戸の山の手や、京都の人達は、そういうお節介な大阪人気質を侮蔑する。他人に干渉しない事が「品」であるそうだ。神戸や京都の人は、人情味を理解しない冷温動物であるのだろう。

過去何十年にわたり、日本人は、品があり、他人にできるだけ干渉しないで済むような社会になろうと努力してきたのだと思う。結果的にお節介な人たちを排斥し、出る杭を打って来たのだ。「自己完結」が推奨され、「自己完結」な強い生き方に反する者たちは「弱い人間」と見做された。武士は食わねど、の世界である。東京というスマートな街は、そういった流れを加速させ、人々を集めることに成功した。ある意味においては、それは日本の大きな強みであった。私たちは、「東京」のそういった強みを決して否定してはならない。

義理人情に溢れると言われている大阪人の私が思う。人間はみんな弱い。そして、そういう弱い私たちは2種類に分別できる。強い振りが出来る人達と、弱いままの日和見主義的な人達。その2種類しかいないのだ、と。だからこそ「善意」で人々を助けてあげる必要があるし、助けた時に自分の気分が良ければ、それはそれで良いのだ、と。そして東京人のように、自分の事を棚に上げておいて、優しくしてあげない人に批判をするような嫌らしい人間にだけはなりたくないのだ、と。善意なのだから、出来るとき(電車が空いている)は人に優しくしてあげれば良いのだし、出来ない時(電車が混んでる)は仕方ない。

人々が社会的「弱者」を助けるように社会を仕向けようとしたり、社会的弱者に冷たい態度をとる人を吊し上げることが健全な社会だとは思わない。身体障礙者が街に出て来やすいような社会基盤を整えた街を作る事が社会の役目であり、後は人々の善意に期待するしかないのである。障礙者に優しい社会を目指すことは必要である。しかし、そういった街づくりにはコストもかかる。必ずしも東京という世界一大きくて「効率的」な街が障礙者に一番優しい街である必要はない。小さな町こそ、その優位性を生かし、障礙者に優しいことを強みにすれば良い。「日本」=「殺人的に混雑している東京」という馬鹿げた一元論には辟易としている。東京と差別化出来得る可能性がこんなにも簡単に落ちているのだから、小さな自治体がそれを生かさない手はない。多様性とは何かをもう一度真剣に考えてほしい。そして、何よりも障礙者自身が、障礙者でない人達に翻弄されて、冷たい殺人的に混雑した東京という街で、社会の実験台に使われる必要が無いではないか?障礙を持っている人たちや老人たちを、社会的な「弱者」として上から視線で扱い、他人の行動や考え方にまで干渉しようとする人達がおかしいのである。人にはそれぞれ、出来る事と、出来ない事があるのだ。東京にも優しい人たちが一杯いる。ただ、出来ない事は出来ないし、東京には東京の美学があし、他人の目が気になる人も大勢いるのだろう。

大阪はかなり大きな町である。しかし、多くの人々は余り他人の目を気にせず、垢ぬけてお節介である。優しくされたい障礙者や老人には、是非とも大阪に来てほしいと思う。私たちの善意の範疇で、優しくしてあげます。ただ、優しくしてもらったスキに、財布が抜かれていないかにも注意してください。

12/03/2012

リフレ政策で日本経済崩壊(7):社会は国民がつくるもの、クレームは何も産まない。

日銀など政策決定者の本当の政策目的は、長期金利が高騰しないようにすることであるのだと思われる。長期金利の高騰は、金融機関における巨額の損失発生だけではなく、日本国中の資産価値を下落させるという破滅的な影響をもたらすからである。そのために日銀による長期国債の購入が必要なのだ。しかし、その政策が長期金利を低下させるにあたり、副作用として物価は低水準に留まっている(いわゆるデフレ)。この方法以外に、財政赤字の多い日本が生き残る道は考えられない。白川総裁はそれを完全に理解しているのだが、市場の暴走を恐れて手の内をばらす事はできない。よって、ああいう奥歯に物が挟まっているような態度を取っているのだろう。白川総裁が日銀の総裁であり続け、きちんと独立性を保たれた上で意思決定をしてくれるのであれば、「最悪の事態」だけは回避できそうであった。 

しかし、ここに来て政権交代である。クレーマーになる事は容易い。特に民主党を批判する事はアホにでもできる。自民党は漁夫の利であっさりと政権復帰を果たす事になりそうだ。ただ安倍首相の遊説を掻い摘んでチェックしていると、上記の日銀政策を無視して物価上昇を政策目標として掲げているのだ。それは非常に危うい。 日本の財政については回復不可能であると考えるに至っており、遅かれ早かれ長期金利は上昇し始め、円は暴落する。どうせ日本経済はハードランディングに陥るので、どうでも良いと言えばそこまでなのだが、それでも安倍首相の金融政策については危惧している。安倍氏はネット右翼化したのか、過激な政策を提言している。大方の識者は、これを口先だけの実現不可能な政策と捉えているようだが、マーケット的には様々な思惑が生まれやすい「面白い」環境になっており、評価は立場によって変わってくると思う。 

12月16日の選挙の後、間違いなく自民党に政権が移譲され、安倍氏が次期首相に返り咲く事だろう。安倍氏が言っている政策を仮に実行すると、日本財政は間違いなくハードランディングする。今言っている政策を実行しなければ、来年の参議院で自民党はボロ負けし、再び国会が捩れる。またもや一年以内に首相交代であろう。 私がこのブログ上に書いている事など、ほとんどのエコノミストにとっては常識の範疇である。ただ、どのような結論が日本マーケットに待ち伏せしているのか、非常に興味深い。

いずれにせよ、日本型の民主主義が非常に脆く危ういものであるかを皆が知るようになった事だろうと思う。政治家は自分の身の上が第一であり、国民の事などを真剣に考えている節もないし、考える能力もないようである。政治不信と財政問題は、落ちるところまで落ちなければ仕方がないようである。

 最近はCNBCに張り付いて、毎日冷や冷やしながらマーケットを注視しており、本業が疎かになっている。クリスマス前の忙しい時期であるので、一旦このあたりで国債崩壊に関する連載は打ち切ろうと思う。「安倍さんはアホだ。」「日本の財政はとんでもなく悪く、解決のしようがない。」「金利が騰がれば資産価値が下がる。」私は、識者の中では常識の事柄を主張しているだけだ。そんな解りきった事を、一銭にもならない匿名ブログの上に書いている私は、間違いなく安倍さんよりもずっとアホである。しかもアメリカに滞在しているのを言い訳に、選挙権すら行使しないつもりである。どうしようもない最低野郎である。 

それでも、何故このような記事を書くのか?それは長期金利が騰がって資産価値が下がって日本経済が酷い事になったときに、日本国民に「想定外」という言葉を使って欲しくないからである。公共事業やハコモノバラマキ政策を認めた事も、銀行に公的資金を入れずに不良債権問題を長引かせた事も、小泉改革を否定してバラマキを再開させた事も、頭のおかしい反資本主義者を首相に仕立て上げた事も、総ては民意であった。今回の選挙で自民党を選ぶという事も、公共事業の増加や安易なリフレ政策を民意で追認するという意味である。よって、国民が日本経済のハードランディングを選択するという事なのだ。これは想定外ではない。民主主義の我が国においては、国民が私たちの国のあり方を決定している事を決して忘れないで欲しい。 

批判するための批判、或いは現実解決策に対するモラルを盾にした批判がマスコミに溢れている。酷い場合はレッテル張りをして個人攻撃をする。対抗案を出さずに、責任を取らなくても良い批判はクレーマーがする事である。クレームをつければ社会が良くなるのであれば、私は喜んでクレームに加担する。しかしクレームは憎悪を生み、主義主張を固めて柔軟性を台無しにし、不安定さのみを齎す。不平不満が溜まるのは仕方がないだろうが、国民の責任は権力に対してクレームをつける事ではなく、永田町や霞ヶ関とともに社会を良くするべく義務を果たす事だ。こんな甘えた考えを抱いている私は、恐らくどうしようもない馬鹿なのだと思う。

11/28/2012

経済音痴が人前で歌を歌えば皆が迷惑。最低ボーカルレッスンを受けてからにして欲しい。


周りにいるエリート連中に、あまりにも経済音痴が多いと言う話をした。今朝、日経ビジネスの小峰教授の記事をたまたま読んでいると、まさに私が言いたいような問題が載っていて驚いた。

経済音痴といわれる人には、よくよく観察すると二つの異なるタイプの人達がいる事に気づく。

一つ目は、「お金」に全く興味がない人。「商売」、「経済」、「株」などの話題を嫌うタイプである。この人達は小さい頃から「お金は汚いもの」であると教えられているのだろう。汚いお金の話をする「欲深い連中たち」は、ユダヤ人となにわ商人だけと相場が決まっているものだ。こういったお金に関心がないタイプの人達は、歌うのが嫌いなのでカラオケに行かない人と考えていいだろう。筋がきっちりと通っている。

二つ目のタイプは、大学一年生レベルのマクロやミクロ経済学を一通りきちんと理解していない癖に、経済について一家言あるタイプの人だ。偏った本を読んで、間違った知識を持っている。前提の間違いや、論理矛盾を指摘すると、「違う経済学もある」とくる。経済学は色々あるだろうが、論理矛盾は経済学とは関係ない。それを指摘すると「経済学は不完全な学問であり、経済学を齧っている連中は信用できない」とくる。このタイプの人達は性質が悪い。解らなければ、解らないと言えば良いが、新聞の記事などに詳しい。経済通ぶりたければ少なくとも経済学の基本くらいは抑えておいて欲しい。経済の話を経済学の視点で喋っていたのに、社会学や国際比較論ならまだしも、歴史学、あるいはモラル論や陰謀論に話を摩り替えられると、その時点でコミュニケーションが成り立たなくなる。こういったタイプは、音痴の癖にカラオケが好きな人と考えると解り易いかもしれない。ハタ迷惑、この上ない。

問題は、二つ目のタイプが世の中に数多くいるという事だ。経済は経済学者だけのものではなく、社会全てが経済活動からの利益を享受している。よって、総ての人がそれなりに意見があるのは当たり前の事だ。生活が苦しけりゃ、そりゃ文句の一つも二つも言いたい。

だが、巷に出回る「トンでも本」や「トンでも記事」に洗脳されているとしか思えない人達が大勢出てくる。暇な通勤時間に陰謀経済論の類の記事を読んだり、経済批判の書を読んだりする。基礎知識がないので、「大袈裟な論調」や「明らかな嘘」を無防備に鵜呑みにしてしまうのだろう。さらに判官贔屓からか、経済学を齧っているエリート連中が我々の社会を貶めている、と信じ込む人も出てくる。ああいう本の作者連中は、本を売るために書いているのであり、正しい事を書いている訳ではない。トンでも本の著者も家族を養っていかなければならず、生活がかかっているのである。目立つ事で政治家やテレビのコメンテーターになりたいとでも考えている輩もいるだろう。それに唆されているうちは、まだまだ尻が青い。

餅は餅屋の搗いたものが一番美味い。経済政策の事は経済のプロに任せるしかない。素人は選挙で社会の方向さえ見ればよいのである。経済政策を選挙の核にしようとするなど、ちょっと無理がある。素人の文句を経済運営に組み入れようとしても、経済運営はひとつのシステムなので、碌でもない事になる。そして金儲けしたい連中にコロッと騙されて、税金を掠め取られるのがオチだ。一般の大衆が判断ツールを十分に有していないので、選挙は甘い事を言ったもん勝ちの世界である。

理想論ではあるが、大学か高校かは知らないが、日本社会は国民に正当な経済学のイロハを教える責任があると思う。「英語コミュニケーション」、「会計金融入門」、「ミクロ経済入門」、「マクロ経済入門」、「基礎コンピュータ言語」、「統計学入門」。このくらいは現代社会で生きて行く上で必要最低限の知識であり、社会がある程度の基礎をきっちりと教える必要があると考える。「古典」や「物理」や「サンデル教授の倫理学」の時間を削ってでも、これらは教えてしかるべきものだ。選挙民に強制的にこれらのクラスを取らせてから選挙をさせたいものである。むしろ、こういった基礎知識を試すテストでもして、合格点が取れなかったら選挙権を取り上げればよい(勿論、ただの暴論です)。

経済論議をしたければ、経済の基礎を最低でも学べ。人前で歌を歌いたかったら、まずは発声練習くらいは受けろ。ジャイアンみたいなリサイタルを開いて、歌を広場で披露すれば皆が迷惑する。最低限の知識無しに行う批判を、社会ではクレーマーによる不平不満という。

11/12/2012

ゲイの権利は守るべき。バイセクシャルはただの変態(LGBT)

ここシアトルの街を歩いていると「レズビアン、ゲイ、バイセクシャルとトランスジェンダー(LGBT)の権利を保護しよう!」などといった標語を目にする事が多い。私は同性愛者の権利を保護しようという意見には諸手を挙げて賛成する。が、LGBTの定義が良く解らないので、LGBTの権利という物について、公的な支援をする事には声を荒げて反対したい。

ただ、私がここでいう同性愛者とは、生化学的に脳の機能が体の表現型である性別と乖離している状態の人間をいう。LGBTの中だと、トランスジェンダーに一番近いものと思われる。つまり、男性器を有しているのに、脳や自律神経が遺伝的な原因などで女性として反応している場合。或いは、女性器を有しているにも関わらず、脳や自律神経が男性的に反応している場合を呼ぶ。こういう人は必ずクラスに一人くらいいるものだ。

表現型で性別を判断し、無理矢理こういった人達を社会の「男らしさ」や「女らしさ」という型にあてはめ、脳の認識を無視して社会的に男性や女性を演じさせる事は可哀想である。本人達も不幸になるし、関わった回りの人達も不幸になる。日常生活内で、色々な軋轢も出てくるだろう。私の小学生の同級生なども、ゲイだと誰の目にも明らかだったにも関わらず、大学を出てすぐに親に無理矢理結婚させられたが、すぐに離婚した。親はその子の事を黙殺している。

そういった不幸を避ける意味で、ゲイの人達はゲイとして生きて欲しいと思うし、きちんとカミングアウトしてくれる事を望む。そうする事で無駄な軋轢を減らす事も出来るのだ。ゲイの人たちをゲイとして受け入れると、ゲイの人達も幸せであるし、ゲイで無い周りの人達も幸福になる。周りの目があるので結婚もして子供がいるにもかかわらず、週末にこそこそと新宿二丁目のサウナ発展場に通う、などといった不幸を助長する一時凌ぎの馬鹿げた行為も起こらなくなる。

数年前、知り合いのアメリカ人が、ある日突然ゲイをカミングアウトした。それまで、その男が嫌いで仕方なかった。物凄く陰鬱で嫌な奴だったのだ。しかしゲイをカミングアウトして、物凄く付き合いやすい奴になった。今では一緒にビールを飲んだりする良い友達である。ゲイである自分を認めなかった何かが、彼(?)の性格までをも歪めていたのかも知れない。

サウジアラビアから留学しているゲイの友達がいた。ご存知の通り、アラビア社会ではゲイは死刑に値し、親からは勘当される。異国のアメリカの地で、彼は完全にゲイの生活を満喫していた。楽しいんだろうな、と思った。いつもは私たちにオネエ言葉で喋る癖に、アラビア人同士で会うと急に男っぽい声になり、ナヨナヨした素振りも見せなくなった。何をかいわんや、である。

日本でも、社会がもっとゲイに寛容になるべきだと思う。ゲイがカミングアウトしやすいような環境を作ってあげる事が皆の為だと思う。ここまではセクシャルオリエンテーションの話であり、当然守られるべき人権の話であると同時に、全ての人を幸福にするための社会的示唆である。日本とは「辛抱」が強いられる社会であるが、こんな事は我慢できる問題ではないし、他の人にとっても不幸になる問題である。

ただここで問題になるのは「誰がゲイで誰がゲイでないか」という問題である。ゲイという問題が歴史的にタブーであったからか、ゲイであるかどうかの判断が「自分自身がどう思うか」に委ねられている場合が多い。しかも、タッチーな問題であるため、科学者や医者は見解を避けている。しかも、心理学者が賢いフリをしてリベラルな意見を言う傾向にある。となると、生化学的にゲイでない人達がゲイである、などと言ったふざけた見解を持つに至る。社会的に人権を蔑ろにされているゲイの人達、そしてゲイのふりをするただの変態。この境目を見極める事が、不可能でないとすれば、非常に難しい。もちろん、私自身、ホモセクシャルかヘテロセクシャルの間にはっきりした線引きがなされるとは思っていない。ただ、私は概念的にこの両者をはっきりと分ける事こそが、セクシャルオリエンテーションを理解させる近道だと考える。

脳機能に問題がない普通の人が同性愛を楽しむのは、ただの変態行為である。たとえば、江戸時代や昭和の初期頃まで蔓延っていた男色行為があるが、あれはただの変態行為であった。特に未成年の少年相手に性行為を強要するなど、今の世の中では牢獄に入れられるような行為が黙認されていたわけである。これらの男色は、ホモだから楽しんでいるのではなく、普通のセクシャリティーを持つ人間が、マスターベーション代わりに少年を使っているだけである。そういう事が「粋」だと信じられていた時代があったのだから、隔世の感がある。寮でストレートの女子学生同士が経験として同性愛を楽しんだ、などというのは興味本位の変態行為であり、セクシャルオリエンテーションとは関係のない話である。逆に、ゲイの男(心は女)が普通の女性と性行為を楽しむのも、ただの変態行為と言っても良いだろう。

バイセクシャル(両性愛)な人が存在する事は良く知られている。が、バイセクシャルという権利はあり得ない。その時々において、バイセクシャルの人は、同性を愛するか、異性を愛するかのどちらかの選択肢しかないからだ。バイセクシャルの権利を尊重しろなどとうたっている人達は、ただの「フリーセックス主義者」である。男と女の両方を同時に相手にする事は、本人が勝手にする問題であり、社会が人権を守るような問題ではない。そういった行為に眉を顰められれば、それは本人の落ち度であり、社会的な差別ではない。現時点で特定の男を愛するか特定の女を愛するかわからないので、どちらとも付き合いたい、などと言うのは優柔不断のわがままであり、どちらか一方に決めなければならない。そこに権利が侵されている事実は全く存在しない。そういった問題があるならば、精神科医に見てもらって、自分がどちら側なのか、自分探しに重きを置くべきだ。

「社会がバイセクシャルの権利を守れ!」という意味がわからない。バイセクシャルの人に、同時進行で男と女と結婚する事を社会が認めるのか?それは、多重結婚を認めろ、浮気をする権利を守れ、変態行為に陽の目を当てろ、未成年との性交を許可せよ、などと言った荒唐無稽な要求となんら変わりはない。バイセクシャルなどといった括りは存在してはならない。異性愛者にせよ、同性愛者にせよ、本人が自由恋愛や乱性交を繰り広げてたいという欲求は守られるべき権利ではない。やりたければ勝手にすればいいだけの話であり、それを不道徳な行為と考える人も当然出てくるだろう。バイセクシャルを公言してフリーセックスに励むただの変態たちが、ゲイの権利要求に参加している為、まともな意見ですら面白おかしく聞こえることがある。本当に困っているゲイの権利を社会は尊重せねばならない。ただしゲイの権利は認めるものの、ゲイ以外の変態がゲイに与えられた権利を拡大解釈して濫用する可能性があり、慎重に法律を作ってもらわなければならない。それこそはゲイの為でもある。

社会が真っ当な方向でマイノリティーを守るため、「ゲイの権利は守るが、バイセクシャルの人権を守ろうとしている人達は多田野変態です!」と大きい声で言って欲しい。味噌と糞を一緒に討論しないで欲しい。(注:「只の」と打ちたかったのに多田野と変換されました。あまりにも正当な変換なのでそのままにします。)

10/12/2012

精神疾患であろう研究者をいじめるマスコミ

米ハーバード大客員講師を名乗る森口尚史氏が人工多能性幹細胞(iPS細胞)から心筋細胞を作り患者に移植した、などという誤報が読売新聞などに載ったという。というか、読売などが裏も取らずに勇み足をしたのが実情である。その報道について、当の森口氏の経歴の虚実を追うニュースが賑わいを見せている。大新聞が大真面目な「フリ」をして森口氏の主張を「腹では笑いながら」検証しているのだ。


ニュース報道に現れた森口氏の語り口から推察するに、森口氏は「虚偽性障害」や「妄想性パーソナリティ障害」などの精神疾患を患っている疑いがある。そのような状況の人物を、大新聞や民放が実名を出して茶化してバッシングするのは如何なものかと考える。支離滅裂な無茶苦茶な話なので、面白くてニュースにしやすいというのは理解できる。ただ、精神的に問題があるかもしれない人物を追い詰めるのはデリカシーを欠いた「イジメ」である。

数日前、関西空港から仁川経由でLAに到着し、その後ボストンを目指した中華系アメリカ人が、防弾チョッキを着用しており、スーツケース内に発炎筒を含む多数の武器のような物を入れていた事が全米で報道された。一時はテロリストかと疑われたが、急に報道が消え去ってしまった。どうもその人物が精神的に不安定であり、ニュースとして扱えなくなった為であるらしい。アメリカでは、精神病疾患者に対してある程度の注意を払って報道している。


日本社会は精神が不安定な人物に対して配慮に欠けているのではないか、と良く感じる。精神的に不安定な人物が、その不安定さゆえに、他の人間に「物理的な危害を加えない程度の過ち」を犯した時は、もう少し配慮してあげても良いのではないか?馬鹿とキチガ○を嘲るような事は、視聴率獲りと言う観点では「$合理的$な」選択かもしれないが、成熟した社会の公機関(マスメディア)がそのような茶化した報道をしてもいいのだろうか?日本にも精神が不安定な人たちが大勢いる。別に他者の命を脅かしている訳でもないので、そっとしてあげるか、問題の解決に協力してあげれば良いのではないだろうか?神経病みの人を名指しで「キチガ○だ!尋常ではない!噓吐き野郎!」などと侮蔑して報ずる事はあってはならない。寧ろ、そういった可哀想な人達が治療を受けやすいような社会の雰囲気作りにマスコミが先頭に立って貢献するべきである。

(余談:アメリカの大学で、森口さんみたいな統合失調症の気がある研究者に頻繁に会います。日本人の研究者の中にもそういう人達が大勢混じっています。普通の人だと思って親しげに接したり、こちら側に余裕がない時などは、嫌な思いをすることもあります。しかし、可哀想なので温かく距離をとってあげましょう。逆に言うと、アカデミアは物分りがいいフリをして他人と関わりたがらない人達が多いので、そういう人達が集まりやすいのかもしれません。そういう人達が周りにいるのであれば、手遅れにならないうちに医師に相談するように薦める事が必要だと思いますが、実際は難しいです。残念ながら手遅れになってしまった人を数人知っています。後、思い込みが激しい人がお花畑の課題などを設定して、必死に研究に取り組み、ファンタジーの論文を書いて出世してしまう人達が一杯います。このような人達が上に立つと碌なことがありません。ただ、そういった人達を制裁する事は現実的に不可能です。)

3/30/2012

御上はいつも馬鹿

シアトルには多くの日本人が住んでおり、震災復興のチャリティーなどの活動を個人もしくは団体でしている人が大勢いた。チャリティーコンサートなどを開催して、募金を集めたりしている人達もいた。ここまでは素晴らしい話なのだが、チャリティーなどで活躍した人達を、在シアトル領事館が労う為のイベントを開催する予定があると言う事である。

そんな労いのイベントに金と労力を使うくらいなら、その分を東北の振興に募金すれば良いと思う。「労い」をして貰っても、偽善ではなく、普通の神経を持ってチャリティーに望んだ人達には全く嬉しくない筈だ。というよりも、やる事がないのであれば、シアトルの領事館など失くせばいいのである。シアトルに本当に領事館必要なのか?外務省のポストのためにしょうもない物作ってるんじゃねえぞ。無理矢理不必要なプロジェクトばかり立ち上げやがって。消費税上げる前にいらない物を切り詰める努力をしろと言いたい。役人の雇用と名誉のために消費税上昇を許容してるん違うぞ、ボケが。

2/10/2012

貧乏な県の県民は太る


厚生労働省が発表した「国民健康栄養調査」の結果であるが、データを見ていて思うことがあり、グラフを作った。結論から先に言うと、肥満率は経済指数と相関があるが、基本的に野菜摂取量や車保有率や塩分摂取量とは関係がない。失業率を見てみると、明らかに相関があった。要するに、「貧乏」な圏ほど県民は太っていると言うことになる。貧乏であれば、外で活動したりする事もままならないのかも知れないし、安くてカロリーの高い物に走るのかもしれない。或いは、太るような人間しかいないので貧乏になっているのかも知れない。相関関係と因果関係は違うものなので、その辺りの証明は出来ないが。経済指標以外にも色々な相関関係も出ているし、明らかに地域ダミー効果があるのだが、専門的な事を色々説明しても仕方ないので、読者は勝手に想像を巡らせてください。

菅前総理の様に第三の道があるとか共産党みたいなことを言わず、経済問題を解決すればほとんどの物事が解決するのだと言うことを、そろそろ皆認めたらどうなのか?

11/21/2011

オウム事件と死刑論議は完全に異なる違う問題

過去の書き込みを見ていただければ理解してもらえると思うが、私は死刑制度には賛成の立場である。個人の判断で法を犯した場合、罰せられるのは当然であると考える。社会的な警告という意味でも、死刑制度は必要であると考える。

オウム裁判が完全に終結したとういうニュースが流れた。起訴された全員の判決が確定したということだ。オウム事件は多感であった高校生の私に衝撃を与えた。今まで信じていた世界の価値観が、オウム事件(とその前に起こった阪神大震災)によって、根本的に覆されてしまった。マインドコントロールという冗談のような事に引っかかる高学歴の人間がいる。第一、私自体が信じている「常識」はマインドコントロールされたものかどうか?この問いに答えが見つけられなかった。やがて私はマインドコントロールされた「高速道路」から降りてしまい、シアトルの地で悠々自適に暮らし始めた(そして、時折私はその頃に下した判断について大いに反省する)。余談が長くなった。

オウム事件で13人の死刑判決、そして5人の無期懲役が今までに出ているのだが、根本的な問題について語られることは極めて少ない。マスコミなどでは、オウム事件は「日本犯罪史において最悪の凶悪事件」或いは「法治国家の秩序を一顧だにしない反社会性の極めて高い犯罪」などと判で付いたような解説がされる。それこそがある意味で、国家や警察権力のマインドコントロール臭く、気持ちが悪い。

オウムの事件を考えるとき、ナチスの犯罪に関わったドイツ国民や、大東亜戦争の結果として裁かれたB級又はC級戦犯の事を考える。それらの人達は、勝者の意図で懲罰的に裁かれた人達であり、色々なケースがあったにせよ、基本的には個人が国や組織の罪を肩代わりしたと考えている。オウムの件も、それと似たような構造があった可能性がある。

村上春樹などが比喩的に(というよりは実はかなりダイレクトに)オウムの罪を小説の場で著しているが、日本国内でそういった事に対して議論が起こっている様子はない。どちらかと言えば、「オウム真理教はただのキチガイ集団であり、サリンガスを地下鉄で撒く様な人間は死刑にするべきだ。そうすれば治安が安定する。」などと言った単純な物語が大勢を占めている。おそらく、メディア側も批判されるのが怖く、オウム問題に対して詳しく査証することを避けている風潮がある。新聞は「裁判は終結したが核心の一部は不明」などと思わせ振りな表現に始終している。いったい何が不明なのか?麻原が喋らなかった事で核心の一部が不明なのか?それとも、何か他に言いたい事があるのか?

個人の罪と組織の罪。組織に属する個人の罪。組織に埋没する個人。個人の責任という範囲が物凄くあやふやな中で私たちは生きている。死刑制度とオウム事件を同じ議題として扱っている時点で、社会は事の本質から目を逸らそう(或いは逸らさせよう)としているのだろう。

「前代未聞のテロ事件の首謀者は死刑囚の中でも特別との見方は法務省内でも強く、省幹部は死刑制度の是非をめぐる本格的な議論は、松本死刑囚の刑執行後になるとの見方を示した。」などという意見こそがマインドコントロールそのものだと思う。

サウジはポンコツ。何も出来ない

フーシ派がマユン島を占領して、紅海の入り口をコントロールしており、ムハンマド・ビン・サルマーン(MBS)がトランプに米軍がフーシを攻撃するように要請したとのニュースが流れた。トランプは断ったという。このニュースを受けて、原油は暴騰。 サウジはアラブ諸国の雄じゃないの?このくらい、...