7/28/2018

オウム事件の死刑囚は個人として裁かれたという基本

オウム事件で死刑囚たちに死刑が執行された。何とも言えない嫌な気分になった。テレビに出てくるコメンテーターたちの軽い意見を聞くと、さらに解せない気分になった。

日本の刑法は個人の責任を裁くものである。法律に則り、犯した罪に基づき、13人に死刑という日本の法律上もっとも重い刑が科された訳である。

個人がオウムというカルトに属していたかどうかと言う事については、事情を判断することはあれ、日本の法律的な枠組みでは直接的に関係のない事である。オウム信者は個人として結果に対して裁かれたと言う事を見逃してはならない。

テレビを見渡すと、刑を執行された弟子たちがオウム真理教に入信した経緯や、洗脳された過程、あるいは未だにオウムを信じる人たちがいることが報道され問題視されている。問題視するまでは良いのだが、国が対処するべきだったというようなコメンテーターがいるのには驚かされる。個人がどのような考え方を抱こうが、どのような宗教を信じようが、それを国が規制することは出来ない。

相模原障碍者施設で殺傷事件を起こした植松が裁判で「障碍者は社会のゴミ」というような発言をしているらしいが、植松がそのような考え方を抱くことは自由である。何を考えようが裁判所は刑法を基に個人を裁いているのであり、植松がどのような考え方を抱いていようが裁判には関係がない。

個人がどのような思考をもって犯罪を犯したのか。その思考回路が世間一般から乖離していればしているほど面白い。それをマスメディアが視聴率を稼ぐために面白おかしく報道し、最後は規範的な話に持っていこうとする。こういった姿勢が一般の人たちの心情を歪めているのではないか?

邪悪な考え方を持つな。邪悪な教団から距離を置け。邪悪かどうかなどという規範的な判断を客観的にすることは不可能だ。個人の考え方を国がコントロールすることは不可能だ。個人ではない団体としての責任や、抜け出す事の出来な団体に身を預けたときの個人の責任論など、オウムの事件においては議論が終わっていないことが多々ある。このような議論をする際には、国には個人の思考は強制できないし制御できないという、基本的な原則を忘れないで議論してほしいと思う。

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