過去の書き込みを見ていただければ理解してもらえると思うが、私は死刑制度には賛成の立場である。個人の判断で法を犯した場合、罰せられるのは当然であると考える。社会的な警告という意味でも、死刑制度は必要であると考える。
オウム裁判が完全に終結したとういうニュースが流れた。起訴された全員の判決が確定したということだ。オウム事件は多感であった高校生の私に衝撃を与えた。今まで信じていた世界の価値観が、オウム事件(とその前に起こった阪神大震災)によって、根本的に覆されてしまった。マインドコントロールという冗談のような事に引っかかる高学歴の人間がいる。第一、私自体が信じている「常識」はマインドコントロールされたものかどうか?この問いに答えが見つけられなかった。やがて私はマインドコントロールされた「高速道路」から降りてしまい、シアトルの地で悠々自適に暮らし始めた(そして、時折私はその頃に下した判断について大いに反省する)。余談が長くなった。
オウム事件で13人の死刑判決、そして5人の無期懲役が今までに出ているのだが、根本的な問題について語られることは極めて少ない。マスコミなどでは、オウム事件は「日本犯罪史において最悪の凶悪事件」或いは「法治国家の秩序を一顧だにしない反社会性の極めて高い犯罪」などと判で付いたような解説がされる。それこそがある意味で、国家や警察権力のマインドコントロール臭く、気持ちが悪い。
オウムの事件を考えるとき、ナチスの犯罪に関わったドイツ国民や、大東亜戦争の結果として裁かれたB級又はC級戦犯の事を考える。それらの人達は、勝者の意図で懲罰的に裁かれた人達であり、色々なケースがあったにせよ、基本的には個人が国や組織の罪を肩代わりしたと考えている。オウムの件も、それと似たような構造があった可能性がある。
村上春樹などが比喩的に(というよりは実はかなりダイレクトに)オウムの罪を小説の場で著しているが、日本国内でそういった事に対して議論が起こっている様子はない。どちらかと言えば、「オウム真理教はただのキチガイ集団であり、サリンガスを地下鉄で撒く様な人間は死刑にするべきだ。そうすれば治安が安定する。」などと言った単純な物語が大勢を占めている。おそらく、メディア側も批判されるのが怖く、オウム問題に対して詳しく査証することを避けている風潮がある。新聞は「裁判は終結したが核心の一部は不明」などと思わせ振りな表現に始終している。いったい何が不明なのか?麻原が喋らなかった事で核心の一部が不明なのか?それとも、何か他に言いたい事があるのか?
個人の罪と組織の罪。組織に属する個人の罪。組織に埋没する個人。個人の責任という範囲が物凄くあやふやな中で私たちは生きている。死刑制度とオウム事件を同じ議題として扱っている時点で、社会は事の本質から目を逸らそう(或いは逸らさせよう)としているのだろう。
「前代未聞のテロ事件の首謀者は死刑囚の中でも特別との見方は法務省内でも強く、省幹部は死刑制度の是非をめぐる本格的な議論は、松本死刑囚の刑執行後になるとの見方を示した。」などという意見こそがマインドコントロールそのものだと思う。
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