ツイッター上などで盛り上がっている話題について本ブログで思いを巡らせるのは嫌いなのだが、思う所があるので、自分自身のメモとしてこの記事を書いている。
乙武氏が銀座のトラットリア・ガンゾーというレストランで、エレベーターの止まらない二階まで運んでもらうのを拒否された云々という事件があった。はっきり言ってどうでも良い出来事である。その事件に対して、ツイッター上で人々が自分たちの意見をぶつけて、いわゆる炎上という事態になったという。
それに便乗しようとして、乙武事件がコラムなどで引用され、記事の「フック」として使われている。日経BOに載っていた慎氏の記事など、まさにそれである。慎氏の記事は、ユーモアが全くないうえ、論理展開が無茶苦茶なのと、浅はかな思い込みが鬱陶しいので、コラムは読むに値しないと考えているのだが、コメント欄が面白くて、興味深かった。慎氏は、日本人が不寛容なので障礙者に優しくない、などと面白いことを書いていた。この問題について少し考えてみたい。
私は今まで色々なところに住んできたのだが、特に欧米の先進国で、障礙者の人が公共交通機関を一人で使う事に出くわす。障礙者に手を差し伸べる人が多くて、かなり微笑ましい。助ける人も助け慣れているし、助けられる人も助けられ慣れている。そういう光景を見ると、こちらの気分も良くなる。アメリカでは、軍人系の筋骨隆々とした障礙者が多く、そういう人達にリスペクトを見せるという文化も定着しているし、車椅子を利用する人の割合が日本とは比べ物にならないくらい多い感がある。
老人が公共交通機関に乗って来る事も多い。欧米や台湾では、お年寄りが交通機関に乗ってくると、すすんで席を譲る。非常に気持ちの良い光景だ。だが、私の生まれ故郷、大阪でも人々は老人にすすんで席を譲る。日本であれ、老人には席は譲るものなのだ。
大阪人の私が東京に行くと、人々が冷たく見える。ニュースメディアに洗脳されてしまったのだろうが、東京ではベビーカー、妊婦や老人が来ようとも席を譲らない、らしい。そんな事はない。昼間の比較的空いている時間帯に電車に乗ると、結構みんな席を譲っている。ただ、通勤時間帯に席を譲ったりするのは不可能である。関西であれ、通勤時間帯に御堂筋線の梅田-難波間などで優先されるべき人達を優先することはできない。他にも、路線にもよるが、高齢化したわが国では、乗客がほぼ老人という場合もあり、老人が老人に席を譲る訳にはいかない。
シアトルで、レイクワシントンを越える州道520が課金されるようになってから、朝晩のバスが物凄く混むようになった。立っている人が大勢出て来たのだ。するとどうだろうか?老人がいようと、バスに乗った学生は寝たふりである。いつもは優しい人々が、混雑する公共交通機関内では冷たくなるのだ。パリでもロンドンでもニューヨークでも、電車が物凄く混雑した時に乗ってみればよい。「社会的弱者(この表現が嫌です)」を助けたくても助けられない場合があるのだ。
このコラムで何度も指摘しているが、東京首都圏は世界でぶち抜けた規模の都市圏である。公共交通機関の混雑具合は間違いなく世界一だ。住んだ事がある人なら知っていると思うが、ニューヨークやロンドンなどの交通機関の混み具合は、大阪圏と同等か、それ以下である。絶対的な混雑度が違う。自分が痴漢犯と間違われないように注意することに精一杯であり、あの環境下で人を助けろ、という方が無理である。
優しさとは、何か?品とは、何か?美学とは、何か?これらは文化毎に、そして人々の間でも大きく違う。アメリカに来て、日本とはずいぶん違う「マナー意識」があり、驚いている。まず一つ目に、食事中に何かを取ってもらいたい場合は、自分で取ってはならないというものだ。レストランであれば「給仕」に頼むべきである。欧米のレストランでは、給仕が執拗にテーブルに来て「ごちゃごちゃ」聞いてくるが、あれが欧米でのサービスなのだ。アジア人の感覚とすれば、食事中に鬱陶しい、となる。
家庭でも、塩や胡椒、ナプキンを腕を伸ばして自分で取ってはならない。絶対に、「Could you pass me the salt, please?」と言って、食事をしている相手を煩わせる必要があるのだ。日本人の感覚では、自分で出来る事は、人を煩わせず、自分でするのがマナーである、と考えるかもしれない。
あとは挨拶。相手が忙しかろうとも、欧米人は平気で挨拶をする。忙しいから挨拶をしない、といった行動がマナー違反と考えられる場合もある。日本では、人が忙しい時は挨拶をしないのがマナーであると考えられる場合がある。最後に、欧米では車を運転しているときに、運転手が会話をする相手に目線を合わせてくるのだ。同乗者としては、運転に集中して欲しいのだが、喋っている相手の目を見ることがマナーであると考える欧米人が多いのだ。日本人なら、事故を起こさない事がマナーであると考える人の方が多い、と思うが。これは文化的な違いであろう。
日本では幼少の頃より、「自分で出来ることは自分でしなさい」と習う。「出しゃばるな!」という事も同時に習う。この教育が行き過ぎて、中学生にもなると、生徒たちはクラスで手を上げて質問することをしなくなる。出しゃばる事は悪い事であるからだ。欧米の高等教育に参加し始めた日本人が初めにビックリすることは、欧米人はクラスで出しゃばるのだ。
私は大阪に生まれ、大阪に育った。商売の都、大阪という地では、出しゃばる人間に優しい文化がある。出しゃばりはユニークであり、そういった生き方をリスペクトする文化がある。ユニークな人ほど成功するという考え方が結構浸透している。大阪では、人々は優しい。困っていれば優しく手を差し伸べてくれる人が大勢いる。つまり、お節介な人たちが一杯いるのだ。ただし、それに隠れて詐欺師のように振る舞う人間も大勢いる。つまり、人を信じるも馬鹿、信じないも馬鹿である。神戸の山の手や、京都の人達は、そういうお節介な大阪人気質を侮蔑する。他人に干渉しない事が「品」であるそうだ。神戸や京都の人は、人情味を理解しない冷温動物であるのだろう。
過去何十年にわたり、日本人は、品があり、他人にできるだけ干渉しないで済むような社会になろうと努力してきたのだと思う。結果的にお節介な人たちを排斥し、出る杭を打って来たのだ。「自己完結」が推奨され、「自己完結」な強い生き方に反する者たちは「弱い人間」と見做された。武士は食わねど、の世界である。東京というスマートな街は、そういった流れを加速させ、人々を集めることに成功した。ある意味においては、それは日本の大きな強みであった。私たちは、「東京」のそういった強みを決して否定してはならない。
義理人情に溢れると言われている大阪人の私が思う。人間はみんな弱い。そして、そういう弱い私たちは2種類に分別できる。強い振りが出来る人達と、弱いままの日和見主義的な人達。その2種類しかいないのだ、と。だからこそ「善意」で人々を助けてあげる必要があるし、助けた時に自分の気分が良ければ、それはそれで良いのだ、と。そして東京人のように、自分の事を棚に上げておいて、優しくしてあげない人に批判をするような嫌らしい人間にだけはなりたくないのだ、と。善意なのだから、出来るとき(電車が空いている)は人に優しくしてあげれば良いのだし、出来ない時(電車が混んでる)は仕方ない。
人々が社会的「弱者」を助けるように社会を仕向けようとしたり、社会的弱者に冷たい態度をとる人を吊し上げることが健全な社会だとは思わない。身体障礙者が街に出て来やすいような社会基盤を整えた街を作る事が社会の役目であり、後は人々の善意に期待するしかないのである。障礙者に優しい社会を目指すことは必要である。しかし、そういった街づくりにはコストもかかる。必ずしも東京という世界一大きくて「効率的」な街が障礙者に一番優しい街である必要はない。小さな町こそ、その優位性を生かし、障礙者に優しいことを強みにすれば良い。「日本」=「殺人的に混雑している東京」という馬鹿げた一元論には辟易としている。東京と差別化出来得る可能性がこんなにも簡単に落ちているのだから、小さな自治体がそれを生かさない手はない。多様性とは何かをもう一度真剣に考えてほしい。そして、何よりも障礙者自身が、障礙者でない人達に翻弄されて、冷たい殺人的に混雑した東京という街で、社会の実験台に使われる必要が無いではないか?障礙を持っている人たちや老人たちを、社会的な「弱者」として上から視線で扱い、他人の行動や考え方にまで干渉しようとする人達がおかしいのである。人にはそれぞれ、出来る事と、出来ない事があるのだ。東京にも優しい人たちが一杯いる。ただ、出来ない事は出来ないし、東京には東京の美学があし、他人の目が気になる人も大勢いるのだろう。
大阪はかなり大きな町である。しかし、多くの人々は余り他人の目を気にせず、垢ぬけてお節介である。優しくされたい障礙者や老人には、是非とも大阪に来てほしいと思う。私たちの善意の範疇で、優しくしてあげます。ただ、優しくしてもらったスキに、財布が抜かれていないかにも注意してください。