アメリカ合衆国憲法の権利章典の修正第二条には、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。」と規定されている。これを根拠に市民が銃器を持つ事には違和感を覚えるが(規律ある民兵として不適格な人間に銃器が行き届いており、国家の安全を逆に脅かしている)、背景にある思想こそがアメリカの良さであると信じている。
アメリカ人の多くは、「政府」は市民から権利を預託されているに過ぎず、万が一政府が市民に刃を向けるような暴走をした際には、武器を用いて政府に対峙しなければならないと考えている。背景には、大英帝国から自由を勝ち取ったアメリカの歴史がある。アメリカ人に「政府を信頼しているかどうか」を問うと、多くの人は「ある程度までは信頼できる」と答える。中にはティーパーティーの連中のように、政府を全く信用していないと答える人達もいるだろうが、政府に全面的に従うと答える人は殆どいない。従って、政府の意思決定に参加し、政府を統御することは市民の義務であり、だからこそ多くの市民が政治にのめり込む。選挙前になるとキャンペーンで盛り上がり、何かあればあちこちでデモが起こり、NGOなどの活動がやたらと盛んであるわけだ。
翻って日本やアジアの儒教思想が強い国では、政府が決めたことに従う事こそが国民の勤めであるとする考え方の人が殆どである。政府の決めたことに文句を言う人は、反抗期か何かであり、人格的に問題があるとすら考えられる。そういった状況では、国民は政府を全く信用せず、命令だけする面倒くさいものであると考えるようになる。政治に参加して自ら政策決定に関わろうと考える人は西洋被れた人だけになる。しかも、永田町や霞ガ関の連中は、それを解ってか解らずにか、自分たちが巧く国民をリードしようと、歪んだエリート思考を持つこととなる。国民総じて「お上」から降りてくるものには従え、といったムードが漂う。
大阪市長に当選した橋下徹が市幹部6人を更迭したというニュースが伝えられた。公務員の立場で政治活動に関わったからだと言う。民主主義国家では、「民意」とは選挙を経て多数決をとった意見であり、少数意見を持つ人間は勝った人間のお尻の穴を舐める必要がある。少数意見は尊重はせよ、採用はされてはならないのだ。そして、市民から権利を預託されている立場の大阪市役所職員が、自分たちがキングメーカーのように振舞う事こそが民主主義社会を根本から貶めている。
マスコミ、批評家、政治家の中には、ファシズムをもじって「ハシズム」などと揶揄する論調も目立つ。少数意見を抵抗勢力として切り捨てるのが駄目、などと面白いことを言う人が大勢いる。そのような人達は民主主義を理解しているのかどうかを問いたい。多分、革命、共産主義や独裁政治などに憧れがあり、まともな民主主義を見ると過剰に反応しているのだろう。こういう事を言う人達は、心の底で選挙自体がポピュリズムだとか言い放ち、選挙民を愚弄しているのだ。或いは、自分が賢くて、自分の意見以外はファシズムだと考えているファシズムの人かもしれない。百歩譲って、儒教思想に晒され続け、反抗することを道徳的に良しとしないと考えているのかも知れない。
いずれにせよ、結果が最終的にどうなろうと、橋下徹の方向性は正しいし、私は諸手を挙げて賛同する。もしあなたは橋下が嫌であれば、次の大阪市長選で落せばいいのだ。それが民主主義である。そのときまで大阪市が存在していたならば。
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