東京電力、自民党政権、保安院そして福島知事というゴキブリの話をしたくて仕方がないのだが、今回は全体主義の話をしたい。世の中には個人の自由を束縛したい連中が沢山いるようだ。前の記事のフレームワークに従うなら、全体主義者(共産党・旧社会党・公明党)と右翼思想家(立ち上がれ日本・国民新党など)が個人自由を認めたくない連中となる。当たり前であるが、民主党や自民党の中にもそれらの思想に近い人が大勢いる。地震以降こういった勢力が躍動しており、余り深く考えていない人達が追随する風潮があり、警鐘を鳴らしておきたい。
震災以降「頑張ろう日本」なる標語を多くの人が使うようになり、被災していない人までもが「喪に服す」ような状態となっている。ハリウッドじみた映像がテレビに映し出されたのだから、理解はできる。しかし、被災地でもないのに無用な萎縮モードを実施してみたり、地震を言い訳に(電力や品不足に関係なく)仕事量が減っているような状態はどうも腑に落ちない。こんな事をしていると経済の炉心が溶融する事態になる。誤解を覚悟で言えば、愛国のつもりで「頑張ろう日本」などと唱えながら経済をメルトダウンさせているのだとすると、それこそが売国行為に他ならない。
買い溜めの象徴として、ボトルで売られている水の問題がある。官房長官を始め多くの政治家やマスコミが、首都圏に住む一般市民に罪を擦り付けている。一部のモラルの欠如した市民がボトル水を買い込むので品不足に陥っている、と。まさかこれを鵜呑みにしている首都圏の市民はいないだろうが、このような責任逃れの話を垂れ流しているマスメディアや政治家は糾弾されるべきだと思う。ボトル水は無くなるべくして無くなっている。まず、日本の流通業は在庫を極限に減らすビジネスモデルを構築してきた。例えばコンビニなら、在庫は一日から数日分しかないのである。近くの小学校で想定外の運動会でも開催されれば、ボトル水の在庫など瞬く間に無くなるものだ。つまり「モラルの欠如した人」が100本の水を買い込まなくても、多くの人がいつもの3倍ほどの商品を買うだけで在庫は尽き、サプライチェーンは許容量を超えてしまう。ブルウィップ(牛の鞭)効果があるので生産者は急な消費量の増加にはいちいち対処したくないし、工場の許容量を考えれば無茶な増産などそう簡単にはできない。だから慢性的に品が不足してしまう事態が生じる。
それでは消費者はなぜボトル水を買い込むのか?質問するまでもない当たり前のリスク回避行動だ。未曾有の地震が東北を襲い、停電や液状化などの被害が実際に都心で起こっている。都心は間違いなく被災地なのだ。気象庁は余震に警戒せよと言っているし、油断していて備えがなかった人も多くいたであろう。そういった人達を含めて、3000万人の人が理性的なリスク回避の行動を行えば、ボトル水が店頭から消えるのは当たり前なのだ。理性的に考えれば危ないと感じるし、将来のリスクを考慮して、量の差こそあれ、ボトル水を少しだけ大目に買っているのだ。それをこの期に及んで、大臣ポストまでわざわざ作って政治パフォーマンスをしている民主党は常軌を逸脱している。
放射性物質が水道水に検出された事が事態の悪化に追い討ちをかけた。実際に放射性ヨウ素が水道水から検出されていると発表されているのに、ボトル水を買いにいかない人の気が知れない。乳幼児がいる家庭に優先させるべきだと言う議論は「~するべき論」としては卓越している。科学者や医者がメディアに出てきて、放射性ヨウ素があの程度の濃度であれば大人の健康には全く被害がないと繰り返してみる。それも科学的には解らなくもない。だが政府発表を鵜呑みにできるのか?教科書に載っている放射線による健康被害の数字は本当に実証されてたものなのか?発癌リスクの数字をどのように捉えればいいのか(アサンプションをもって統計技術を使った係数ではないのか)?放射性ヨウ素以外は本当に検出されなかったのか?検出する機器の精度はどの程度であったのか?第一、結果的に原子炉の状態は小康を保っているとは言うものの、あの時点で事態が悪化する可能性はあったはずである。これらの事を真剣に考えた上で、理性的に水道水を使おうとするのは個人の自由だ。ただ、このような不確定要素が多い状態にありながら、水道水を飲めとばかりに主張している人は、個人の自由を認めたくない狂気じみた人であると思う。多くの首都圏の人々は、ボトル水が手に入らないが故に、恐々と水道水を飲んでいるのだと思う。
蛇足だが、塩素や黴臭さ、或いは水道水中の重金属も健康にはただちに被害を与えるものではない。なのに、多くの人が濾過機を買ったり、ミネラルウォーターを飲むのは馬鹿げた行為なのだろうか?そういった質問にきっちりと答えられる人がいれば、堂々と意見を言って欲しい。水道水を濾過する事は科学的に馬鹿げているからやめるべきだ、と。濾過器はインチキだから買うな、と。
野菜にしてもそうだ。福島や北関東で作られた野菜の一部から放射性ヨウ素が検出された。官房長官は「洗えば問題ないのだが、念のために出荷を停止した。食べたところで(ただちに)害はないのだが、念のために市場には出さない」と言った。その後、パフォーマー達が福島産の野菜をカメラの前で食べたり、農家が可哀想だと言うことで福島産の野菜を買うイベントを主催したりしている。勿論そういった行為は個人の自由だ。しかし買わないことがモラルに反すると言うような報道には疑問を感じる。農家の人達は本当にかわいそうだと思う。ただし責任ゼロとまではいかない。何故なら、自分達もあの原発をリスク査定を無視して誘致した福島県知事を選んだのだから、民主主義社会下に於ける責任の一端は免れないからだ。
個人的なわがままで申し訳ないが、現時点で私は東日本で生産された農作物が店頭に並んでいたとすれば絶対に買いたくない。汚い話だが、お皿を汚物の残る便所の水につけた後、洗剤で綺麗に洗うとする。そのお皿は生化学的には100%綺麗である。しかし私はそれでご飯は食べたくない。同様の理由で私は個人的にそれらの野菜は食べたくない。モラルを盾に、無理矢理それらの野菜や農作物を首都圏の人間に食べさせるつもりなのだろうか?「風評被害」などといった単純な型にはめて、モラルのみを昂揚させる政治やメディアのあり方に疑問を持つ。風評被害とは言われ無き被害であるが、今回は放射性物質が付着しているわけであり、風評では無い。選ぶのは消費者であり、消費者に情報を隠蔽する行為はあってはならない。
モラルといったものが前面に立つときは注意する必要がある。全体主義的な流れの中で、個人の自由は完全に蔑ろにされる。こういった流れが出てくること自体が社会的なパニックなのだと思うし、外国にいるが故に私はこのような無責任で傲慢な記事を書けるのだと思う。首都圏は被災地である。そしてそこに住む人達は完全な被災者である。政府は3000万人以上が被災しているという事実を矮小化するために頑張っているのかもしれない。そして被災者である首都圏の人々には選択権も無く、このような議論は解っていたとしても、ただ我慢するしか方法が無いのかもしれない。政府も報道機関も三次被災地の中心にあり、冷静な判断など出来ないのかも知れない。
批判だけしても仕方ないので解決策も提唱したい。私は「安全税」を導入するべきだと思う。要するにミネラルウォーターの値段などを政府主導で4倍くらいにする。そして東京以西で栽培された野菜は5割くらい値段を上げるのだ。値段を上げれば需要は減るし、相対的に安ければ需要は上がる。放射線はただちに影響がないので、老人などは先が短いので放射線に汚染された野菜を食べても問題がないはずだし、安いので家計も助かると思う。安けりゃ買いたいという人は一杯いる筈だ。私のように放射物質が付着している可能性があるものは絶対に口にしたくないと言う人間からは、きちんと税金を取ればいい。アイディア自体は簡単だが、実際に施行は難しいかもしれない。野菜や魚は卸市場やJAといった流通経路でコントロールすると言うのも手であろう。店頭でそれらの農林水産品が混じることがないのかどうかも疑問であるが、個人の自由を尊重するのであればこのくらいしか出来ないと思う。さもなくば、福島などで作った野菜は完全に破棄されるか(保証するとすれば莫大な税金が投入される)、内緒で市場に収められて有耶無耶になるか(日本の農産物自体の風評被害が発生)、或いは無理矢理モラルで押し切って食べさせられるか(日本のソビエト化)。現時点では、政府はこっそりと放射能安全基準を変えようとしている。
政府が無策のまま今の状態を続けていけば、最悪の結末が待っている。この問題は短期間で解決する問題では無い。10年どころかそれ以上続く可能性もある。本当に政府は農家を保証できるとでも考えているのだろうか?補償するのは農家だけにとどまるものではない(例えば漁師や観光など)ので、その前に日本経済も国債もメルトダウンするのは避けられそうにない。日本の先行きは赤信号が点っている。政府が全てを補償しようとするのは、すぐにでも止めさせるべきである。たとえそれが東北を切る事態になろうとも、日本の経済をメルトダウンさせる訳にはいかない。何が一番大切なのか、一歩高い位置から考えて頂きたい。それこそが政府(行政)の役目だと思う。
うどんの出汁に髪の毛が落ちていたら食べるのか?ゴキブリが出る中華料理屋は安全か?ただちに影響はないし、全く何の問題も無いと思う。ただ、それを食べるか食べないかは、個人が自分の意思で判断すればいい。今回の放射能の危険性は、主観抜きできっちりと不確実性まで考慮して説明できる人は、恐らく皆無だと思う(何度も言うが確率論的には安全とされている)。食べても大丈夫、食べると危険、食べるべき。外野がパニクって乏しい知識でごちゃごちゃ言わぬことだ。個人が与えられた情報と与えられた情況を考慮しつつ、個人的な美学も鑑みて適切に判断すればそれでいいのだと思うし、その判断に他人や社会がケチをつけるべきではない。科学を齧った人が、グーグルや教科書の知識で、消費者の行動も理解せずに数字だけを見て、やれ水道水を飲め、やれ汚染野菜を食べろ、やれ魚を食べろ、などという社会は異様だ。全体主義的な風潮が蔓延っているのは、都心の人間を中心に、パニクっているからだろう。少なくとも西日本に住んでいる人や海外にいる人は、少し冷静になるべきではないか?そして被災地の都心でパニクっている連中を叱咤する事は、外野が出来る数少ない貢献の一つだと思う。外野の人間が中心になって、被災地東京にいるパニクった連中の頬をしっかりと叩き、冷静になれと嗜めるべきだと思う。
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