イマネ・ヘリフ(アルジェリア)がパリオリンピックのボクシングの女子66キロ級で金メダルを獲った。中華台北(笑)の林郁婷も順調に勝ち星を進めている。
当ニュースが出てきた初めの頃は、トランスジェンダー問題のような報道がなされていた。私はトランスジェンダーの元男性が女性の競技に出ることには強く反対している。スポーツ競技では薬物でのホルモン剤ドーピングが禁止されている。同じ理由で、過去に男性ホルモンの影響があった人が女性の競技に出るべきではない。ドーピング違反の考え方の原理原則に基づくと、当たり前の話である。
ただ当ボクシングのケースは、性判定というものが、思っているよりも難しいという知られざる事実に触れる事となる。染色体上での遺伝子形質が、必ずしも表現型に反映されるわけではないという事は、知識としては解っていた。こういうケースも意外とあるのだな、という感想だ。私たち人間は、遺伝子を突然変異させながら進化していく動物なのだから、そりゃそうだよ、と言えばその通りだ。が、社会学的な一面に現を抜かしていると、こういった生物学的な観察眼を失ってしまう。
女性枠にどういった人を招聘するべきかどうかというのは、主催者が透明性のあるルールを事前に用意すれば良いだけの話である。世の中には白黒つきがたいケースがある以上、誰かがはっきりと線引きすれば良い。線が公平かどうかの議論は、二の次である。透明なルールに基づく線さえあれば、線の右か左かがはっきりする。腐敗にまみれたIBAが、この辺りを適当に扱い、解釈を変えたような動きをしたこと自体が、そもそもの失敗である。IBAの跋扈を許したIOC(あるいはIBAとの癒着を断とうと奔走しているIOC)に非があると思う。現状のルールに則っている以上、ヘリフや林に出場資格があるのは火を見るより明らかであり、当該選手達を貶めるような発言には憤慨する。
女性競技の公平性を唱える人たちがいるが、この議論が意味不明である。女性競技はそもそもが公平ではない。そもそも公平性を言うのであれば、男女すべてを競技に招聘し、そこで優劣をつけるのが一番の公平と言える。しかしながら、女性の社会進出という社会的な意義として、女性の競技も男性と同格に扱い、女性の権限を高めスポーツを振興をさせようという意思の元、女性に下駄を履かせるように女性競技を作ってきた(女性の方が活躍できる競技もあるのだろうが、ほとんどで男子の競技の方が成績が良い)。この本音の区別をしている部分は、十分に理解するべきである。男性のメダルの色と、女性のメダルの色が同じこと自体が、そもそも不公平なのではないか、というそもそもの理論も成り立つだろう。
そもそも女性競技のメダル数を見ると、欧米と北東アジアが席巻している。金銭的に余裕があり、女性がスポーツに打ち込める環境にあるかどうかが優劣を決めており、それこそが不公平であるという議論も十分に成り立つと思う。
スポーツ競技の本当の意味での優劣は、練習以上に、選手の持って生まれた体格や形質が重要になる。スポーツのメダルは、遺伝子的な優劣を選別している。ポリティカルコレクトネスの世界では触れられないこの事実も、皆が目を伏せる部位ではないかと思う。
しかし、オリンピックに全く興味がわかない。ニュースを見ていてもオリンピックの話が始まると、他の作業をしてしまう。娯楽が溢れる21世紀の世の中で、マイナースポーツのオワコン祭典を熱く応援している人って、まだ存在しているんでしょうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿