9/29/2008

海外で成功する日本人、失敗する日本人

米国の金融界がかなりきな臭くなってきた。ヘリコプターからお金をばら撒いて金融パニックを起こさないようにするはずのバーナンキ博士の目論見が、民主党を中心とする政治屋の思惑で潰れかけそうになっている。昨年の夏以降書き続けている事ではあるが、金融界の外にさえも悪材料が拡がり始めている。グローバルレベルでデフレプレッシャーがかかりだすと、かなり不味い事になって来る。ポールソンのベイルアウトプランを早急に通すべきだ。

懐の心配をしたいところだが、マーケットのスペキュレーションが私の理解を超えだし、モメンタムさえも掴めない。ボラティリティーが高すぎるこの状況は、現金保有の静観が正解だ。

さて前回のコラムで、城島氏がマリナーズの捕手としては使い物になっていない旨を示唆した。イチロー選手と城島氏は、共にマリナーズで活躍する日本人として一括りで語られているが、この二人を見ていて思う事がある。イチロー氏が海外で成功する典型的なタイプの日本人であるのに対して、城島氏は海外で失敗する典型的なタイプの日本人であるのではないのか、と思うのだ。

私も海外生活が長くなってきて、色々なタイプの日本人と付き合いをしてきた。しかし海外で成功している日本人には、たったひとつの共通性を見ることが出来る。それは「自然な適応力」である。ただそれだけなのだ。勿論、適応力にも色々な種類があるし、人によって生きている状況が全然違う物だ。だが、総じて適応力の高い日本人の多くが海外で成功を収めているし、楽しく時を過ごしている。逆に、自然な適応力が無い人は、適応しようと無理な努力をしたり、不満をぶちまけたり、傷のなめあいをしたり、病気になったり、荷物を纏めて日本に帰ったりする。

日本のメディアで触れる海外に住む日本人といえば、殆どがスポーツ選手であろう。鈴木一朗氏や中田英寿氏が成功した日本人として高い評価を得ている。その他にも、アカデミア、音楽、芸能、ビジネスなど、様々な場所で活躍する日本人も多い。逆に、芸能界にせよ、スポーツ界にせよ、成功しなかった日本人も山の数ほどいる。

成功しないタイプの人は、海外で妙な「サムライ魂」のようなものを掲げる。「日本人である」という事実を必要以上に意識し、日本人である自分が頑張ればどうにかなる、などと言った甘い考え方を口にする。それ故に、海外の人間や文化などを変に気にして、自分のやらなければならない以外の事に労力を注ぐ。スポーツにせよ、勉学にせよ、ビジネスにせよ、音楽にせよ、「成功」という形というのは決まっているものであり、その成功の形に持っていくために、その土俵内で頑張るのが当然だ。だが、妙な「サムライ魂」を持った人は、「日本人」としての足枷のようなものに縛られ、無理やり「日本人」を演じようとする。成功の形にまで、「日本人」としての独自性を反映させようとする。それは完全な間違いだ。第一、殆どの人は百姓か町人の子孫であるにも関わらず、海外に来たら「侍」になるのも非常に可笑しな話である。

独自性とは個人由来のものであり、個人の独自性は育った環境に由来することが多い。勿論、日本人の多くが日本で育ったわけであり、独自性に日本的な要素が見え隠れする事は当然である。しかし、個人の独自性の中に、他者が客観的に見出すものこそが、日本人のアイデンティティである。日本人のアイデンティティというものは、個人が無理やり作り出す類のものでは決して無い。アイデンティティはあくまでも発見するものであるのだ。

イチローや中田や中村俊介は個性的ではあるが、無理矢理「日本人」を演じているようには思えない。彼らは現地のやり方に適応し、その中で結果を残す事だけに、たゆまぬ努力をしている(していた)。イチローや中田は日本人であり、一流のプレーの中に、我々は彼らの日本的な物を見ることが出来る。それは至極客観的な物なのだ。蛇足であるが、もしかすると、IQが高い人達は意外と簡単に何にでも「適応」できるのかも知れない。

城島氏が繰り返す「日本の野球を遂行する」という考え方は完全なる愚か者の意見だ。イチローが良く言う。アメリカの野球が一番だと考えている馬鹿が多くいる、と。城島氏の言っていることは、イチローが馬鹿にしているアメリカ野球にどっぷりと浸かっている選手たちと、どう違いがあろうか?ナショナリティを間違って主張する人は、やがて疲れ、矛盾を感じ、祖国に戻る。どこの国の出身であろうと、そういったタイプにはなりたくない。一流は、そんな負け犬の理論に固執せず、自分の仕事を全うするものだ。

特に海外で生活をしたことが無い人に、「日本人として海外に住むと大変でしょ」などと同意を求められる事が多々ある。それは半分当たっているし、半分間違っている。真実は、日本人が海外で生活すると得をするのだ。多くの場合で優しくして貰える。しかし、その国の人達との本気の競争になると、見えない壁が出てきて、「調整」を余儀なくされる。城島氏やイチロー氏を報じる日本の報道を読んでいて、上記に述べた理由で、いらいらさせられる事がとても多い。

第一、国境が昔ほどに意味を持つのだろうか?国境など、好き嫌い以外の何物でもないような気がするのだが。

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