9/29/2008

海外で成功する日本人、失敗する日本人

米国の金融界がかなりきな臭くなってきた。ヘリコプターからお金をばら撒いて金融パニックを起こさないようにするはずのバーナンキ博士の目論見が、民主党を中心とする政治屋の思惑で潰れかけそうになっている。昨年の夏以降書き続けている事ではあるが、金融界の外にさえも悪材料が拡がり始めている。グローバルレベルでデフレプレッシャーがかかりだすと、かなり不味い事になって来る。ポールソンのベイルアウトプランを早急に通すべきだ。

懐の心配をしたいところだが、マーケットのスペキュレーションが私の理解を超えだし、モメンタムさえも掴めない。ボラティリティーが高すぎるこの状況は、現金保有の静観が正解だ。

さて前回のコラムで、城島氏がマリナーズの捕手としては使い物になっていない旨を示唆した。イチロー選手と城島氏は、共にマリナーズで活躍する日本人として一括りで語られているが、この二人を見ていて思う事がある。イチロー氏が海外で成功する典型的なタイプの日本人であるのに対して、城島氏は海外で失敗する典型的なタイプの日本人であるのではないのか、と思うのだ。

私も海外生活が長くなってきて、色々なタイプの日本人と付き合いをしてきた。しかし海外で成功している日本人には、たったひとつの共通性を見ることが出来る。それは「自然な適応力」である。ただそれだけなのだ。勿論、適応力にも色々な種類があるし、人によって生きている状況が全然違う物だ。だが、総じて適応力の高い日本人の多くが海外で成功を収めているし、楽しく時を過ごしている。逆に、自然な適応力が無い人は、適応しようと無理な努力をしたり、不満をぶちまけたり、傷のなめあいをしたり、病気になったり、荷物を纏めて日本に帰ったりする。

日本のメディアで触れる海外に住む日本人といえば、殆どがスポーツ選手であろう。鈴木一朗氏や中田英寿氏が成功した日本人として高い評価を得ている。その他にも、アカデミア、音楽、芸能、ビジネスなど、様々な場所で活躍する日本人も多い。逆に、芸能界にせよ、スポーツ界にせよ、成功しなかった日本人も山の数ほどいる。

成功しないタイプの人は、海外で妙な「サムライ魂」のようなものを掲げる。「日本人である」という事実を必要以上に意識し、日本人である自分が頑張ればどうにかなる、などと言った甘い考え方を口にする。それ故に、海外の人間や文化などを変に気にして、自分のやらなければならない以外の事に労力を注ぐ。スポーツにせよ、勉学にせよ、ビジネスにせよ、音楽にせよ、「成功」という形というのは決まっているものであり、その成功の形に持っていくために、その土俵内で頑張るのが当然だ。だが、妙な「サムライ魂」を持った人は、「日本人」としての足枷のようなものに縛られ、無理やり「日本人」を演じようとする。成功の形にまで、「日本人」としての独自性を反映させようとする。それは完全な間違いだ。第一、殆どの人は百姓か町人の子孫であるにも関わらず、海外に来たら「侍」になるのも非常に可笑しな話である。

独自性とは個人由来のものであり、個人の独自性は育った環境に由来することが多い。勿論、日本人の多くが日本で育ったわけであり、独自性に日本的な要素が見え隠れする事は当然である。しかし、個人の独自性の中に、他者が客観的に見出すものこそが、日本人のアイデンティティである。日本人のアイデンティティというものは、個人が無理やり作り出す類のものでは決して無い。アイデンティティはあくまでも発見するものであるのだ。

イチローや中田や中村俊介は個性的ではあるが、無理矢理「日本人」を演じているようには思えない。彼らは現地のやり方に適応し、その中で結果を残す事だけに、たゆまぬ努力をしている(していた)。イチローや中田は日本人であり、一流のプレーの中に、我々は彼らの日本的な物を見ることが出来る。それは至極客観的な物なのだ。蛇足であるが、もしかすると、IQが高い人達は意外と簡単に何にでも「適応」できるのかも知れない。

城島氏が繰り返す「日本の野球を遂行する」という考え方は完全なる愚か者の意見だ。イチローが良く言う。アメリカの野球が一番だと考えている馬鹿が多くいる、と。城島氏の言っていることは、イチローが馬鹿にしているアメリカ野球にどっぷりと浸かっている選手たちと、どう違いがあろうか?ナショナリティを間違って主張する人は、やがて疲れ、矛盾を感じ、祖国に戻る。どこの国の出身であろうと、そういったタイプにはなりたくない。一流は、そんな負け犬の理論に固執せず、自分の仕事を全うするものだ。

特に海外で生活をしたことが無い人に、「日本人として海外に住むと大変でしょ」などと同意を求められる事が多々ある。それは半分当たっているし、半分間違っている。真実は、日本人が海外で生活すると得をするのだ。多くの場合で優しくして貰える。しかし、その国の人達との本気の競争になると、見えない壁が出てきて、「調整」を余儀なくされる。城島氏やイチロー氏を報じる日本の報道を読んでいて、上記に述べた理由で、いらいらさせられる事がとても多い。

第一、国境が昔ほどに意味を持つのだろうか?国境など、好き嫌い以外の何物でもないような気がするのだが。

9/28/2008

城島が自発的にダイエーホークスに帰ってくれることを期待して

私はローマという街とそこに住む人々に嫌悪感を抱いて仕方ない。大都会パリにぶらっと遊びに行って帰って来ると、ますますその兆候が酷くなった。そして、そろそろ、どんなに天気が悪かろうと、シアトルが恋しくなってきた。

しかしながら、シアトルに2008年の秋にいなくて良かったと思える理由が二つある。一つ目は、スーパーソニックスをオクラホマシティーに奪われてしまった今季の開幕時期に街にいる必要が無かった事。そしてもう一つは、100敗以上と低迷する我がマリナーズを見ずに済んでいる事だ。本日は2009年のマリナーズに向けて、苦言を少々言わせてもらう。

シアトルタイムズに、イチローが多くのチームメイトに嫌われており、暴行計画まで画されていた、というショッキングな記事が載った。イチローの態度の悪さ、というよりも、社交性のなさは今に始まった事ではない。多くのチームメイトやメディア関係者に嫌われているのは当然といえば当然だろう。スポーツをしたことが無い私なら、どんなにイチローが良い選手であれ、できればイチローとは一緒の職場では仕事したくない。しかし、プロの世界で社交性の無さ故に暴力を加えるなどというような考え方は、リグルマン監督が言う所の中学一年生のメンタリティーだ。まあ、Goeff Bakerも地方紙のスポーツ記者からの出世を画策して、色々と面白おかしい記事を供給する必要があるのだろう。

しかしながら、ベーカー記者はマリナーズ番として色々興味深い指摘をしており、日本のメディアでは取り上げられないマリナーズが直面する大きな問題についても深く追求している。

以前このブログでも書いたが、マリナーズの一番の問題はフロントとGMバベシの戦略無きチーム作りであった。そもそも、オーナーである任天堂の山内がスポーツとしての野球に興味がないので、このチームに明確な指針は無い。GMバベシは2008年のシーズン中盤にクビを飛ばされたが、フロントは任天堂出身のハワード・リンカーン及びチャック・アームストロングと変わる事はない。

だが、戦略や経営指針の無さの話は、一昼夜にして解決できない。ただ、直ぐにでも解決できる処方箋もある。つまり、チームメンバーの一新だ。フロントの責任ではあるが、明らかに力が劣る選手に対して長期契約の多額の賃金を支払っていたのは問題だった。セクソン、バティスタ、シルバ。枚挙に暇が無い。

しかし、根本的な問題としてベーカー記者が指摘しているように、キャッチャー城島健司の問題はマリナーズのネックとなっているようだ。城島にマリナーズの捕手をさせる限り、チームに将来は無い。私は個人としての城島という男が好きだ。シアトルの日本人コミュニティの中でもすこぶる評判は良いし、城島と付き合いがある人達も城島の男らしさを買っている。だが、チームに城島が必要かどうかは全くの別問題である。

城島の適応力の無さにはがっかりした。当初は日本的なやり方を大リーグに浸透させる、と日本のメディアで紹介されていたので、私は非常に期待を持って観ていた。しかし城島は自分の「独創的な」やり方を固執する余りに、先発投手を中心に総スカンを喰らっている。現に城島がミットを構えるときの投手のスタッツを見て貰えば良い。いかに城島がキャッチャーとして問題があるかが解る。守備率や盗塁の阻止率で城島の守備力スタッツは光っている様に見えるが、キャッチャーとして味方投手を助ける能力こそがキャッチャーの守備能力であり、残念ながら城島のキャッチャーとしての能力は著しく欠如していると言わざるを得ない

日本メディアでは言葉の差などで苦悩している城島の姿を美化しているようである。あたかも、マリナーズの投手陣のERAが低い原因が、投手が城島の指示に対してわがままを言っているから、のような偏った報道さえ目にする。酷い物では、日本人であるが故に差別的な対応を取られている、とさえ書かれている。しかし、私に言わせてもらうと、城島は日本人であるからという理由だけで逆に優遇されている。しかも、日本での経験を積んでおり、給料や契約面でも破格であるが故に、コーチやチームメイトからも一目置かれている。しかし実態は、城島はキャッチャーとして失格の烙印を押されてた融通の利かない選手である。

確かに、マリナーズの投手陣には能力的に劣る人間も多数混じっている。が、マリナーズを解雇された後、他チームで格好をつける投手が多いのも事実だ。城島相手に投げる多くの投手が、自己の本来のERAを下回っている。モイヤー、ワッシュバーン、ベダード、シルバ。城島に駄目押しをする投手は多い。勿論、若手を中心に城島との相性が良い選手がいる事も事実だ。城島の不必要に散らす指示は、若手ピッチャーの教育目的には意外と良い可能性もある。だが、城島のリードは球数を減らさなければいけない先発ピッチャーにとっては納得がいかない。それは日米文化の違い云々の問題ではない。郷に入れば郷に従って、結果を残してこそプロなのだ。日本のオールスターとしてMLBにやって来て、マスメディアにもかわいがられ、大きく勘違いしているだけだと考えられる。「 チームメイトが本来の働きをしていない」、などと他人に責任を擦り付けるような発言も目立つが、先発投手陣に本来の働きをさせていない諸悪の根源は城島である可能性が極めて高い。

城島はシーズン途中に山内の方針で3年契約をした。だが、マリナーズファンの私としては、城島にはキャッチャーとしてチームに残って欲しくない。クレメントを正捕手にするのは勿論、控えとしてでさえもベテランのジャーミー・バークと再契約して欲しい。百歩譲って、日本のメディアが指摘するように日米の違いに慣れていないが故に結果を残せていないとするならば、城島がタコマに行くのが筋だし、ウインターリーグに参加して、一軍のキャッチャーとして活躍できるレベルになってから帰って来るべきだ。恐らくそれは、プライドが許さないであろうから、あり得無いだろう。

キャッチャー以外のポジションであの打撃内容(四球が少なく、ダブルプレーが多い)では年棒に全く見合わないが、オルタナティブがいない状態であれば、一軍でDHや一塁を守らせてもいいかも知れない。ただ、それも、打撃コーチとしっかり相談してオフシーズン中の調整が必要になる。だが理想は、潔く自らダイエーホークスに帰って欲しい。

城島さえいなければ、来期はローランド-スミス、モロー、フェルナンデス、そして怪我から復帰できるであろうベダードで先発陣がしっかりする筈だ。打撃の上手いリーダーシップのあるベテランを一人入れて、どうにかイバニエスを保留させ、不動の一番バッターイチローを中心に、徹底的に繋げる野球を目指せばマリナーズが浮上する可能性も出てくるだろう。しかし、何よりも守備の要であるキャッチャーをどうにかしなければマリナーズの再建は難しい。

9/09/2008

汚い罵り言葉のボキャブラリーが乏しい日本の同世代

外国生活も長くなり、外国人との交流での新鮮さを長い間忘れていたのだが、ローマで外国人同士で酒を飲む機会が多く、英会話学校に通っていたときのような新鮮さを覚えたので、このコラムを書く。

酒を飲んで酔っ払ってきた時、外国出身者同士の話題として持ち上がるのが、自分の国の汚い言葉についてである。私は世界各国の汚い罵り言葉をずいぶん教えてもらった。性的な表現、神を冒涜する言葉、特定の外国人を罵る言葉。世界各国、直訳するとかなり汚らしい言葉を日常的に使っているものだと感心する。相手は私に教えた見返りとして、日本語の汚い言葉を私から教えてもらう事を期待するのだが、この時点で私は非常に困ってしまう。

殆どの外国人は、日本人との交流を既に持っており、私に自分たちの知る汚い言葉を疲労する。その殆どが、「あほ」や「ばか」、或いは「くそ」である。しかし、これらは汚い言葉でもなんでもない。英語にすると、StupidやShitでは、酒を飲んでいる時にお互いに交換するほど汚くもなんともない。私は、そのような何の変哲もない言葉を、何も知らない外国人に汚い罵り言葉であるとして教えたそれらの日本人のセンスや価値観を卑下してやまない。

「糞喰らえ」や「阿婆擦れ」などといった言葉も考えられよう。Eat shitそしてBitchに相当する言葉であり、第一弾の罵り言葉としては有効だろうが、文学作品や漫画では目にする事が多いものの日本人が侮蔑の言葉として日常茶飯事に使っているとは思えない。また、とてつもなくひどい言葉を教えてもらっているので、対等な程汚い言葉だとも思えない。女性器を指す言葉を教えてもいいのだろうが、それは方言バラエティーがあまりにも多く、性的な表現ではあるが卑下の表現としては一般化されているとも思えず、断念する。

私の友人の多くも、このような経験を持っている。友人たちの結論は、日本社会が紳士的であるため、そのような言葉が育まれなかったというものだ。しかし、私は全面的に肯定できない。何故なら、幼少の頃、近所の年寄りたちは私たちが使わなくなったような表現を悪ぶれる事もなく使っていたからだ。日本人が紳士的だというだけでなく、何らかの理由で言葉狩りが横行しており、近代世界から汚らしい罵りの表現が抹殺されていったものだと考える。いわゆる「差別用語」である。

そういった言葉狩りへの皮肉も込めて、私は汚い罵り言葉として「気違い」という表現を外国人に教える事にしている。これは短く、外国人にも覚えやすい。しかも、英語に直すと、ただのCrazyという非常に一般的な言葉である。昔は「気違い」などという表現は、差別用語でも何でもなく、ただのアホや馬鹿と同程度の言葉であった。しかし、精神病患者を「気違い」と俗称で呼ぶ事もあり、「気違い」はメディアから葬り去られる言葉となった。精神病患者を「神経病み」などという言葉で喩えて、侮蔑するのなら問題だろうが、「気違い」自体が特に精神病患者を指定したものではない。風変わりな人間や、常軌を逸脱した人を表現するのにもっとも的確な言葉だ。私が小学生だった90年代の前半には、国語の参考書では「気違いに刃物」という表現は健在であった。だが、この言葉は使ってはならない差別用語と化してしまったのだ。コンピュータの日本語入力IMEにおいても、ハクチやトサツ、シナなどと共に、キチガイは変換できない言葉として扱われている。修正主義としか思えない、これらの言葉狩りには断固として反対する。

私が「気違い」などと言う言葉を外国人に教えたとして、何度か他の日本人に糾弾された事がある。どんな場合であれ、差別的な表現を外国人に教えるのはどうか、という事である。しかし皮肉な事に、そのように差別用語にセンシティブな日本人ほど、権威主義や優越主義に支配されており、差別用語を用いない差別をする傾向がある。特定の外国人や低所得者、或いは自分より学歴の低いものを、差別表現を使うことなく意図的に貶めたりする。本当の差別主義者は、差別用語など使うことなく差別をするのだ。言葉狩りではそのような連中までをも修正することは出来ない。故に差別用語などといった言葉狩りをする必要性は全くない。差別的なコンテンツはあれども、一語一語はただの言葉であり、差別「用語」などというものが差別されてはならない。気違いじみた修正主義が一掃され、自由闊達に言葉が使える事を真に望む。叶わぬ事は承知しているが、差別用語を糾弾するような真の差別者がいなくなれば良いと切に望む。そして、ドイツでスイスでイタリアで韓国で、私の教えた「気違い」という言葉が日本の侮蔑の言葉として皆の記憶に残ってもらえれば、それは私のささやかな言葉狩りに対する反抗になろう。


しかし、Crazyという英語の文面をプロが日本語に翻訳する際、「気違い」という語を使わずに一体どのように翻訳しているのだろうか?「He is crazy!」は「彼は常軌を逸脱している」か「あいつはキチガイ!」のどちらが良い日本語か?「I am crazy about fishing!」は「私は狂おしいほど釣りに夢中です」か「俺は釣りキチ。」のどちらがより良い訳語であるか?読者に私の言わんとしていることがきっちりと伝わればよい。

9/08/2008

国の借金の話をするな!

一般の人達と国の経済対策について喋っていると、違和感を覚える事が多い。というのも、多くの人達が、日本は過度の借金漬けであり夕張市のごとく破産するのではないのか、という意見を持っている。輪転機を回せば紙幣などいくらでも発行できるので、理論上国が破綻する事はない。しかしながら、輪転機をフル回転させるような事態になると、円が相対的に安くなり、強烈なインフレのプレッシャーが生まれる事になる。だが、日銀や財務省が節度のある政策を執り続ける限り、ハイパーインフレに陥る事はまずないだろう。マクロ経済の観点からすると、デフレよりもインフレの方が健全なので、ある程度のインフレは歓迎するべきである。

プライマリーバランスが黒字化したほうがいいのか?と問われれば、そんな簡単な話ではない。もしロシアのように大きく黒字化すると、それはそれで問題になる。現時点では、日本が近い将来にそのような問題に直面する可能性が低いので、こんな事を討論しても意味がない。ただ、財政赤字が急激に大きく膨れ上がる事態は、「日本売り」の投機的なシグナルを発してしまい、日本の資産や円が投資家に売りたたかれる事態が起こりうる。多くの人は、このような事態を心配しているのではないか?

結論からいうと、プライマリーバランスの問題は、大きく動かさなければ問題ない。税収が減れば、それ相応の予算を組めばいいわけだ。ただ税収が減っている状態は、現在のような不景気と直結する場合が多く、その時に増税の話をする事は全くのナンセンスである。増税は景気が良い時にするもので、不景気下で実行して投資や消費を滞らせると大変な事になる。それこそ、対処のしようがない事態に陥る可能性すらある。金融危機を引き起こしたくなければ、景気浮揚を待ってから増税するしか方法はない。

不景気下では、通常お金をばら撒くものである。消費を増やすと、短期的にGDPが膨らみ、その後の政策次第で、経済が過度に停滞するリスクを防げる場合がある。ただ日本国では、個人消費が完全に滞っているので、どのように消費を増やすようにばら撒くかが問題だ。ばら撒かれたお金が貯蓄に回されると、ばら撒く意味は全くない。公明党が以前イニシアティブをとって実施したギフト券も殆ど意味がなかった。もう一つの問題が利権団体の存在だ。予算を組んで、利権団体に無駄に吸われることなく、消費者にどのようにすればお金を回せるのか?この答えを持っている人は今すぐにでも執政者になって欲しい。

そんなわけで、日本に横たわる問題は、予算配分の柔軟さが殆どないということだ。つまり、予算を削減したくても削減できない。何故か?それは、以前のコラムにも書いたように、利権団体や黒い団体の影響下で、税金を蜜源とするとんでもない構造が出来上がってしまっているからだ。だから税金の収入が減っている時点では、そのような団体を排除して、予算を削減せざるを得ない。政治家にとってもっとも重要な事項は、予算を削るのが先か、利権団体を蹴散らすのが先か、という問題だ。それは、リーダーシップの問題である。いずれにせよ、相当の気概がなければ日本の首相は務まらない。喧嘩できない人には経済対策は不可能なのだ。

麻生氏はばら撒くといっている。恐らくそれは正しいが、上記の問題をクリアーした上でどのようにばら撒くのかを明確にする必要がある。予算をじゃぶじゃぶ使っても、お金が消費に回らなければ、中長期の景気浮揚はあり得ない。ケインジアンがいう机上の空論は、日本の権力構造上が原因であろうか、実証的に通用していない。与謝野氏が唱える増税は、現時点では口にもするべきではない。或いは与謝野氏はあて馬なのか?上げ潮派の言っている事は全くもって正しいが、どうやって「上げ」るのか?今は明らかに下がっている段階だ。

何れにせよ、我々は直接自民党総裁を選べないので、高見の見物しか仕方ない。ただ、個人として不確定要素が多すぎる。我々が自分たちの資産を守る見地から、インフレ下とデフレ下では異なった活動をしなければならず、政策がぶれる事で不確実性が生まれ、我々個人の未来を不透明にしている。このような状況下では投資しにくいし、安心して消費も行えない。

実はタイムフレームを除外すると、経済政策上、誰の言っている事も決して間違っていない。リーダーシップさえ発揮できる人が首相になれば、政策の枝葉末節は恐らく関係ない。そして、新しい総理大臣が不公平性の元凶である黒い癌を排除できるかどうかが全てであろう。癌を取り除かない限り日本に未来はない。どうせ誰がやっても同じの経済政策を議論するよりも、癌の取り除き方をしっかりと議論してもらいたい。ただ、このような事は、戦略上伏せておいたほうが賢明なのだろうが。

しかし、このような匿名のブログでさえも、気兼ねして癌の実態を事細かく描写する事が出来ない。日本が患っている病みは非常に深刻である。

9/06/2008

清和会政権が終わりを向かえ、ゴキブリたちが微笑む

福田首相が辞任した。既に福田政権はレイムダックと化していたので、社会に与える影響は極めて少ないのだろうが、内閣が何かの操り人形に過ぎないことが明確となって、日本国内に諦めにも似た雰囲気が蔓延してしまう。

私は小泉内閣を大きく評価している。勿論、個々の政策に対しての批判はある。しかし批判が全くおこらないような完全な内閣などありえない。個々の不完全な政策については、それを順次是正すれば良いだけの事だ。私が評価している理由は、小泉内閣が目指した方向性は完全に正しいし、堤に開けた穴は余りにも大きい、という事だ。最近では小泉政権が格差を拡げたなどといった罵詈雑言が罷り通っているが、この評価は余りにも針小棒大に過ぎる。

何故小泉政権が評価されるべきか?それは小泉氏が多くの守旧派を蹴散らしたからに他ならない。日本の政治がいかに利権団体に蝕まれているかは、国民の皆が知るところである。しかし、マスメディアに露出していることなど、氷山の一角に過ぎない。詳しくは書けないが、気心の知れた官僚の友人たちと酒を飲みながら聞く話から察すると、黒い利権団体の圧力は「恐ろしい」の一言に尽きる。政治家や政権担当者が、傀儡のごとくそれらの団体を代表して、飴や鞭を利用して政策に影響を与えているのだ。

逆に、官僚に対する批判はマスメディアで大きく紹介される。官僚は文句を言うこともほとんど無いので批判しやすい。法律を犯して大きくしくじらない限り損を被る事も無いので、官僚も黙っている。いくら恐ろしい圧力を受けていたとしても、それを黙って甘んじて受け入れている官僚の姿ほど情けないものは無い。しかしその後ろで糸を引いている連中の事を我々がメディア等を通して認識できるチャンは殆ど無い。

個人的に利権政治自体は問題としない。何故なら政治の目的は分配であり、政治家の仕事は誰にどれだけ分配するかを決めることに他ならないからだ。が、全体の国益を損なう利権団体は排除するべきだと思うし、政権が交代しないわが国において利権政治が行き着く果ては受け入れがたい現実だ。一部の暴力団まがいの利権組織が膨張する。膨張する過程で権力をつけ、政権工作に奔走する。膨張し権力をつけた利権団体は、民業を圧迫し、新規参入者を阻害し、競合の少なさにより消費者に負担を掛ける。利権は自民党が存続する限りある程度保障される事が前提なので、利権で貯めたお金が新たな価値を作り出すために使われることはほとんどない。お金は利権を守ることと、貯蓄することのみに使用される。権力のせいか、利権団体がマスメディアで大々的に扱われることも殆ど無い。

一般的な民主主義国家では、政権が変わる度に甘い汁を吸える利権団体も一掃されるため、ダイナミックな経済の流動が起こる事が多い。だが何故だかは解らないが、日本では政権交代自体が起きない。民主党と自民党の二大政党制になって、愈々政権交代が実施されるのではないのか?、という淡い期待がおきているとは言うものの、民主党自体が旧田中派の片割れのような状態で、もしや小沢は自民党のスパイではないのか?、などと懐疑的になる事すらある。二大政党だといっているが、イデオロギーや政策をわざと似せて、政策論争を有名無実化させ、民主党は政権交代を阻害しようとしているとしか思えない。いずれにしても、日本では政権交代が起こると不味いと考えている人達が巧みに政権交代を阻止しているのではないだろうか、と勘ぐらずにはいられない。自由民主党があるのに、自由党と民主党が存在したのがジョークで無いとすれば何だったのか?自民党と民主党との差は、津島派(経世会)と町村派(清和会)との差よりも短い。

小泉政権が満期終了し、待ってましたとばかりに、利権を追われた人達はマスメディアを利用して、利権構造を潰そうとした小泉政権に負のレッテルを張り、アンチテーゼとして利権構造を復権させようと東奔西走している。「小泉が作り出した格差社会」ほどの便利なレッテルはなかった。統計を見れば明らかなように、日本で格差は広がっていない。何故なら、例外を除いて、金持ちと呼ばれている人達の資産すらが目減りしているからだ。ただ、格差社会は、平均以下の生活を強いられる人達と、正規雇用で職をもつ中流階級に属する人達との間の格差があまりにも大きくクローズアップされている。しかし本質的な問題は、日本全体が相対的に貧しくなっている事にあり、日本の景気が良くなればいわゆる「格差問題」は解消する。格差社会のアンチテーゼは、民主党にも公明党にも共産党にも社民党にも、そして何よりも自民党内の利権の代弁者にとっても都合がいい言葉である。

長くだらだらと書いたが、新しい自民党総裁、そして日本の首相には、国の富を蝕む利権構造を支配する連中を一掃出来るような人にお願いしたい。