私はシアトルに住むようになってから、珈琲に五月蝿くなってしまった。だからと言って、私は豆の種類について特別な知識を持ち合わせているわけでもないし、美味しい珈琲の淹れ方のコツを知っているわけでもない。ましてや、フラスコのサイフォンなんて持ってもいない。機会があればお気に入りの珈琲屋に行き、少しばかし息抜きをする。そんな程度である。幸福なことに、シアトル市内には雰囲気の良い珈琲屋が沢山あり、どこの店もまずまずの珈琲を出す。そういう意味で、この街は大変気に入っている。
さて話が逸れたが、今回は、京都という街と珈琲に纏わる話をしたい。あなたは京都で珈琲を飲んだことがあるだろうか?京都で飲む珈琲にはいつも驚かされる。何故かと言うと、物凄く「嫌味」な味がするからだ。少し詳しく話してみたい。
私は時折、京都に散歩に行く。京都は散歩するのにもってこいの街だ。京都には歴史が良い形で残っているし、それは賞賛に値する。歴史とともに緑や水が残っているところも良い。その古い町に住む人達は、非常に面白い独自性を持っている。負の部分から言えば、街が観光で生業を立てているにもかかわらず、そこに住む人々は余所の人達を見下す排他的な傾向があるという事だ。まあ、観光地に住む人達には良くあることだ。反対に、私が一番好きな京都人の性格は、回りくどい嫌味を言うことである。多くの京都の人達は、物凄く回りくどい。そして、嫌味を言うのだ。京都人のように嫌味を言いあえたら、日常生活で周りの人達とのコミュニケーションがどれほど楽しいものになるだろうか、と私は真剣に考えている。
散歩をすれば、喉が渇く。しかし、風情のある素晴らしい道を歩くと、少し高級な物が飲みたくなる。人間の悲しい性である。そんな時に、京都でふらっと立ち寄る珈琲屋は、素晴らしい。落ち着いた店構え。暖簾をくぐると、深く煎られた珈琲の匂いが香る。古くはあるものの、清潔な赤茶けたテーブル。木の温かみが感じられる。柱や梁も赤い木で作られており、風情を残す。天井に備え付けのアンティークな扇風機が心地良い風をゆったりと私に送る。そして、私はメニューを見て驚く。何故、珈琲一杯が1050円もするのか?私は、おばさんを呼びつけて注文する。私は正直に告げる。「珈琲、こんなにするんですね。」おばさんは言う。「うちはちゃんとした珈琲を出してますから。安い珈琲やったら、阪急電車乗って大阪行きはったら飲めますよ。」私はあっけに取られる。「これ、もらいます。」
そのうち、件の「ちゃんとした」珈琲が運ばれてくる。珈琲の器はアンティークなフランス風のしろものだった。風情がある。ゆっくりと口に近づけ、初めの一口を味わう。ん?酸っぱい。美味しいか不味いさえも解らない味だ。私は解釈に困る。酸っぱいという事はハッキリしてるのだが、それ以外解らないのだ。もしかすると、嫌味な事ばかり言っていると、酸っぱい珈琲が飲みたくなるのかも知れない。素晴らしい古都の散歩。そして、解釈が難しい酸っぱい珈琲。私は、こう結論付ける。京都の珈琲は嫌味な味だ、と。
私は何度も京都に足を運んでいる。そのたびに違う珈琲屋に行くのだが、どの店も例外なく、いわゆる嫌味な味の珈琲を出す。京都に行った際、私は懲りずに小さな雰囲気の良い珈琲屋を選んでは行き、そして嫌味な珈琲を楽しむ。それは私にとっての習慣にすらなってしまった。一度、私は京都に行った際、インチキをして、三条大橋の袂のスターバックスに入った。私でも理解できる珈琲を出してくれたし、そこに嫌味さは無かった。現在、三条大橋のスターバックスは、鴨川に床も出しているという。スーパーソニックスをハワード・シュルツ社長が売却して以来、私はスターバックスを一人でボイコットしているのだが、積極的に京都には投資してほしい。濃い世界標準のエスプレッソに慣れさせれば、あの京都人達もきっと嫌味を控えることだろう。
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