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9月, 2006の投稿を表示しています

着飾ってリゾート地で朝食を食べる大罪

話を解りやすくするために、高級フランス料理店の例を使う。あなたがデートで高級フランスレストランに行くことになったとする。あなたは当然きちんとした身なりでレストランの門をくぐり、座席に通され、ウェイターにジョークを言いながらワインを注文するだろう。やがてソムリエが持って来たワインを手に取り、目を細めてラベルをチェックし、「2000年のボルドーのカペルネは最高なんですよね。これ頼みますよ。」などと言うかもしれない。あなたのパートナーはきっとその一言に感銘を受けるだろうし、ソムリエは、あなたが知ったかぶりをしているのも了解した上で、顔からは上品な笑みを消さず、慣れた手つきでナイフをボトルの口に入れ、瞬時にコルクを抜いてしまう。そして、情緒ある音を立てながらあなたのグラスにワインを注いでくれるだろう。サリュート。最高のディナーのスタートだ。しかし、ここで仮定の話だが、隣の人達が乞食のようなみすぼらしい格好で座席に座っていればどう思うか?高級フランス料理店には大概ドレスコードが敷かれている。それは、店の中では客も従業員もが高級感を醸し出す役割を演じることにより、店全体の雰囲気を高め、それにお金を払いたい人達を店におびき出すためだ。もし、あなたが六畳一間のアパートに住んでいたとしても、高級フランス料理店に出向く時は、ヒューゴ・ボスのスーツに身を包み、サルバトーレ・フェラガモの革靴を履かなければならないわけだ。ネクタイだけはフランスのブランド。誕生日プレゼントのルイ・ヴィトンだ。これこそがエティケーットである。その場に身嗜みの整っていない人がいたとすれば、あなたは憤慨するだろう。高いお金を払っているのに、雰囲気が台無しだ、と。 話は大きく変わり、ワイキキのリゾートホテルに飛んでいく。私はワイキキ界隈のホテルに泊まるのが大嫌いなのだが、先日訳があって、ハイアット・リージェンシーに泊まらざるを得なくなった。一番嫌なのは、ホテルの朝食ビュッフェの時だ。朝6時。空が段々と明るくなってきた頃、私はジョギングを終えてシャワーを浴び、ホテルのレストランに行く。外の空気を満喫できる外の座席に通されて、従業員と挨拶をする訳だ。そして朝食を取りに行く。グアヴァ・ジュースをコップに注ぎ、パパイアとハニーデューを皿に盛る。更に、肉抜きでオムレツを作ってもらう。座席に戻り、ゆっくりとリゾート気分に浸りなが...

京都で嫌味な味の珈琲を飲む

私はシアトルに住むようになってから、珈琲に五月蝿くなってしまった。だからと言って、私は豆の種類について特別な知識を持ち合わせているわけでもないし、美味しい珈琲の淹れ方のコツを知っているわけでもない。ましてや、フラスコのサイフォンなんて持ってもいない。機会があればお気に入りの珈琲屋に行き、少しばかし息抜きをする。そんな程度である。幸福なことに、シアトル市内には雰囲気の良い珈琲屋が沢山あり、どこの店もまずまずの珈琲を出す。そういう意味で、この街は大変気に入っている。 さて話が逸れたが、今回は、京都という街と珈琲に纏わる話をしたい。あなたは京都で珈琲を飲んだことがあるだろうか?京都で飲む珈琲にはいつも驚かされる。何故かと言うと、物凄く「嫌味」な味がするからだ。少し詳しく話してみたい。 私は時折、京都に散歩に行く。京都は散歩するのにもってこいの街だ。京都には歴史が良い形で残っているし、それは賞賛に値する。歴史とともに緑や水が残っているところも良い。その古い町に住む人達は、非常に面白い独自性を持っている。負の部分から言えば、街が観光で生業を立てているにもかかわらず、そこに住む人々は余所の人達を見下す排他的な傾向があるという事だ。まあ、観光地に住む人達には良くあることだ。反対に、私が一番好きな京都人の性格は、回りくどい嫌味を言うことである。多くの京都の人達は、物凄く回りくどい。そして、嫌味を言うのだ。京都人のように嫌味を言いあえたら、日常生活で周りの人達とのコミュニケーションがどれほど楽しいものになるだろうか、と私は真剣に考えている。 散歩をすれば、喉が渇く。しかし、風情のある素晴らしい道を歩くと、少し高級な物が飲みたくなる。人間の悲しい性である。そんな時に、京都でふらっと立ち寄る珈琲屋は、素晴らしい。落ち着いた店構え。暖簾をくぐると、深く煎られた珈琲の匂いが香る。古くはあるものの、清潔な赤茶けたテーブル。木の温かみが感じられる。柱や梁も赤い木で作られており、風情を残す。天井に備え付けのアンティークな扇風機が心地良い風をゆったりと私に送る。そして、私はメニューを見て驚く。何故、珈琲一杯が1050円もするのか?私は、おばさんを呼びつけて注文する。私は正直に告げる。「珈琲、こんなにするんですね。」おばさんは言う。「うちはちゃんとした珈琲を出してますから。安い珈琲やったら、阪急電車乗...

ロックンロールと同じ運命を辿る日本料理

私は日本料理というものに危機意識を感じている。日本料理は死滅への道を辿っているように思えてならないのだ。まず、初めに簡単な質問をしよう。あなたは、過去一年間で、板前のいる本格的な日本料理を出す店に何度訪れたか、と。平均的な日本人を語ること自体が、今日のような格差社会では無意味なのかもしれないが、あなたが日本料理を食べに行った回数など、極限られているのではないだろうか?人々の嗜好性は変化しており、多くの人は日本料理の愛し方を忘れてしまった。愛し方を忘れ去られたものはやがて死んでしまう。ちょうど90年代にロックンロールが死んでしまったように。 私は先日、ミナミの宗右衛門町に某日本料理店を訪れた。この店が出す料理はどれもこれも筋が通っており、私の舌を唸らせた。無花果の田楽や南瓜の冷たいスープなどの変化球はおもしろかった。直球である刺身は、新鮮であることは言うまでも無く、素晴らしい包丁が入っていた。メインのビーフカツは、日本料理とは呼べないかもしれないが、揚げ方や包丁の入れ方に日本料理店のこだわりを垣間見た。一人1万2000円というのも、料理の質を考えると大満足である。 料理には満足したものの、ひとつ気になったのが、店に来ていた人達の客層だ。私達以外の客は、いわゆる「同伴」であったのだ。中年のおっさんと、若くけばけばしい水商売のおねえちゃんの組み合わせ。月曜日の夜であれば、それでも許されるかもしれない。しかし、給料日明けの金曜日、店に来ているのが同伴の人たちだけだというのは、少し気にかかる。そんなに実力がある店にもかかわらず、空席も目立った。景気が本当に悪いのだろう。 ミナミの街には人達が溢れている。焼肉屋の前には列が出来ているし、イタリア料理やオムレツを出すフランチャイズ系の店は満員だ。日本料理は高価だから避けている、といった意見も聞かれるが、焼肉屋や居酒屋に行っても5千円以上使うことも珍しくない。焼いた脂の塊を甘辛い醤油につけてビールで胃に流しこむ作業に5千円は使えても、ゆっくりと落ち着いて本格的な日本料理を楽しむのに1万2千円を使うのは勿体ないということか。日本料理を楽しめる人達がいなければ、日本料理はやがて廃れる道を選ぶだろう。そう、ロックンロールのように。 大阪の景気は、はっきり言って「あきまへん」。東京の街と比べることすらナンセンスだと私は思う。私はミナミで食事...

世界一の中国料理はNYにあり

私は中国料理が好きである。中国料理といっても、四川料理(川菜)、山東料理(魯菜)、広東料理を代表とする粤菜など、八大菜系を中心に多様性に富んでいる。大陸以外でも、台湾や香港、シンガポールに行くと、それぞれ違うスタイルの中国料理に巡りあえるだろう。日本でも、ラーメンや餃子のような中華料理を食べることが出来る。そのようなややこしい話は別の機会においておいて、私は一般論として、中国料理を愛している。 さて、「世界で一番美味しい中国料理はどこで食べられるのか?」という討論は非常に興味深いところだ。先程も述べたように、大陸中国は広いし、華僑は世界中に拡がり中国料理を伝えている。私は、偏見は承知の上で、世界一美味しい中国料理は、ニューヨークで食べられると答えよう。この意見の裏には、大陸中国の中国料理が不味いという批判と、香港や台湾の料理が一番美味しいと思ってる香港人や台湾人の鼻をへし折ってやろうという意地悪な思いが交錯しているのだ。 単品だけではあるが、世界一美味しい中国料理を出す店。その名前は、「鹿鳴春」。英語で、「ジョーズ・上海」とも呼ばれている。ニューヨーク内に数店舗あるのだが、チャイナタウンの本店かフラッシングの店に行くことをお奨めする。基本的に、この店で美味しい物は「蟹粉小籠包(シェフォンシャオロンバオ)」である。他の料理については、及第点ではあるが特筆するようなものでもない。しかし、蟹粉小籠包には正直驚いた。蒸篭に入って運ばれてくる小籠包。そんなに薄くは無い皮だが、破かないように、恐る恐ると箸で摘み、蓮華の中に巧く収める。黒酢を少しつけ、生姜を載せる。熱々の小籠包を齧ると、中からスープがじわっと染み出る。そのスープは、豚肉から出る濃い味と蟹味噌の味が見事に織り交ぜられている。熱々の脂っぽい濃いスープは、強烈なパンチであなたを歓迎する。その味は怪しくもあなたを虜にし、深い思い出として、永遠と友人達に語り継がれることになる。小籠包は、前菜の位置づけなのだが、あなたはきっと服務員を呼びつけ、もう一籠、いや二籠注文せずにはいられない。 小籠包のレストランといえば、「鼎泰豊(ディンタイフォン)」であると仰る人も大勢いると思う。台北の新義路にある鼎泰豊の小籠包は、ニューヨークのものとは大きく異なっている。薄い皮の中には、熱々の非常に洗練された上品なスープが潜んでいる。私は、ニュ...

究極の「不味い物」

私は食べ歩くのが好きである。多くの食べ歩きを好む人達と同様、私も美味しいと言われている物を試してみて、それについて批評することに喜びを憶えている。「美味しい店を紹介してくれないか?」と尋ねられれば、場所にもよるが、そう困ることはない。私は、「美味しい物」に絶対性はないと考える。食べる人の育った環境、気分、体質、体調などの内生的要因と気候や雰囲気などの外部的要因によって、「美味しい物」は常に移ろうものである。要するに、アネクドートを伴わない「美味しい物」など存在しない。食について騙る時は、常にアネクドートを用意するべきである、と私は信じている。 今回私は、「美味しい物」のアンチテーゼについて考えてみた。つまり、「不味い物」である。これまで、多くの人から、その人が経験した不味い物についての話を聞いてきた。しかし、私は未だに、満足し得る「不味い物」についての話に巡り合えた事はない。人々が騙る「不味い物」にはパターンがあり、大概は以下の3通りの理由とその組み合わせに帰結する。1)辛過ぎる、甘過ぎる、塩気が無いなど、調味料の配分に問題がある。2)硬過ぎる、軟らか過ぎるなど、食感に問題がある。3)チーズなど異国の発酵食品を食べた際に良くあるのだが、慣れていないので味が理解できない。これらの理由のみで騙れるほど、「不味い物」というテーマは浅くは無い筈だ。「不味い物」には、それを作った人の努力が凝縮されているべきであるし、それを作る背景としての文化も見逃してはならない。究極の「不味い物」とは、ただの料理の失敗作ではなく、究極の「美味しい物」の相反に位置するべきなのだ。本当にそんなものがあれば、の話ではあるが。そういう理由から、私は「不味い物」に偶然出くわせば、小躍りさえしたくなるのだ。 納得し得る「不味い物」を久しぶりに食べた。ハワイ、ワイキキビーチのクヒオ通りにある「ぺリーズ・スモーギー」。二昔前まで、ハワイは不味い店で溢れていた。しかし、大陸や日本の資本がハワイにどんどん流れ込むようになってからは、そのような不味い物を出す店が姿を消してしまった。現在、ワイキキビーチに林立するフランチャイズ系の店に入れば、平凡な味のハンバーガーやステーキ、チーズケーキが食べられる訳だ。しかし、「ぺリーズ・スモーギー」は古き良きハワイの味を頑張って残している。この店は食べ放題なのだが、ディナーで1...