3/01/2011

討論と喧嘩の違い。時代遅れの「人文学」という名の教養

「少し左巻き」であると自称する人に経済の討論をふっかけられたのだが、全く無意味な話を二時間ほどして、気分が悪くなった。家のソファーで寝転がってビールでも飲みながらリアリティーショーでも見ている方が余程時間を有意義に過ごせたと思う。経済の話ゆえに、経済効果を最大化させる事が社会の役割であるという前提の下で喋っていたのだが、相手の人はその前提を共有していなかった。それどころか、経済活動や競争そのもを否定しておられたように思う。「愛すべきマリナーズ」ファンの私が、「憎きレッドソックス」ファンの親友と、サミュエルアダムスを飲みながら野球論議で喧嘩に近いコミュニケーションを楽しんでいる訳ではないのだ。

私は「規範的な話」には乗りたくない。つまり「~するべき」論である。何故ならモラルは人によって違うので、その手の話は絶対に結論が出ないからだ。二人の人間が規範的な討論を始めれば「喧嘩」になる。「討論」とは一定のゴールに至る解決方法を探すために行われる行為であると考える。「喧嘩」とは自分の方が相手よりも優れていることを解らせる目的でなされる行為であると考える。討論だと思って始めたものが、規範的な話で帰結する喧嘩になると、相手との審美眼の距離を思い知らされて嫌な気持ちになるだけである。全く建設的でない。

主義主張やモラル感(宗教を含む)の軸で物事を測れば、意見の違いは決して収斂しない。何らかの客観的な軸で物事を測らない限り、事態の収束はあり得ない。太平洋戦争をどのように評価するか、などという議題に良く直面する。暇な大学生や専門の学者同士がするのならまだしも、60を越えた老人が必死にやっていたりする。或いは政治家が国会内でそういった議論の真似事をしたり、多国間の政治問題になっていたりさえする。やがては史実の解釈問題にさえなる。「史実」自体は直接は観察できないものであるが、既に「起こった」のだ。そして、起こった史実は絶対に変えられない。あなた達が何を思おうとも、起こった事実が変わる事はあり得ない。つまり、討論すること事態が無意味である。そんなものは討論しなければいいと思う。ごちゃごちゃ言う人がいれば窘めるくらいの大人の余裕が必要ではないか、と私は思う。或いは、簡単な問題であるから誰もが意見を持ちやすいだけなのかもしれない。別の例を持ち出すと、エジプトが民主主義になるべきか。答えが出るわけが無いし、私は喧嘩に加わる気すらない。逆に、エジプトの今の状態が私のETFやオイルの値段や世界の成長率にどのような影響を与えるのか?イスラエルがエジプトの反応に対してどのように対応すると利益を最大に出来るのか?それらの目的を持って話し合う事は、討論するに値すると思う。

私のここまでの主張を自分で読み返すと、私は単にヒューマニティーズ(以下、人文学系と訳す)を否定していることになる。人文学系の科目(文学、神学、法、哲学、歴史、演劇、芸術など)が大学で他の社会科学、自然科学、形式科学や応用科学などと共に存在していること自体が意味不明であると個人的に考えている。人文学系の科目は科学的な実証が不可能で、解析を専門とする学閥である。過去の文献を読み漁って、それに自分の思い込みを付け加えて、「パラダイムシフトが起こった」、などと大それた事を言った人間が勝つ分野だ。曖昧な観点からしか判断できないがために、常に権威的なヒエラルキーが存在する。人文学に没頭する人は解析だけに終始するべきだと思うのだが、下手に自分の高尚な考えを披露するが故に、真に取った一部の一般人が惑わされることになる。新しい理論などをつまみ聞くと、歴史は何も変わっていない癖に、人間性の考え方が変化した、などと言った考えに至ってしまうのだ。そこまで来たらカルトである。

近世以前の欧州の大学はヒューマニティーズしか無かった訳である。その枠組みの中からルネサンスが興り「科学」という物の考え方が出来上がった訳だ。そして、科学こそが人類におけるパラダイムシフトであったわけである。その時点で科学を生み出した人文学は陳腐化されたわけだ。一方、ヨーロッパ的な科学的知見を取り入れたとは言うものの、アジア諸国の教育には儒学で培われていた徒弟制が採用されているため、科学的な実証性を大切にしにくい環境があり、未だに理系・文系共に人文学的な要素を孕む空気が充満している。

人文学系の教員が教養課程で人文学の講義を学生に教えるのは意味があると思う。学校とは色々な知見を学ぶところであるからだ。ただ、科学を学ばずに人文学だけを学んだ人間を世に放つと、社会は機能しない。何故なら実証を積む訓練が出来ていない人のコミュニケーションは危険であるからだ。人間は社会で生きている為に、人との調和を図りながら問題解決を行う。その問題解決の過程で、実証主義を無視して、人文学的な思い込みで物を騙りだすと、複数の人の嗜好が異なっている場合においては、行きつく先は喧嘩しかなくなるわけである。日本人同士の会話において、科学的な知見を学ぶ機会が少ない人が多い為に、議論が成り立たち憎いのだと思う。

虚栄心を満たすためか人文学の学者がメディアに露出して、自分たちの世界観や規範的な理論を騙っていることがある。ほとんどが聞いていて無意味であると感じるのだが、ああいうのを真に受けて真剣にイデオロギー論争に与する一般の人達が出てくるのだろう。世界観などは信じるか信じないかの二者択一の世界なので、誰が何を言ったところで仕方ない。それを教養などと言う言葉で片付けているのだから、社会には無駄な負の外部性が生まれ続ける。

希望を言うと、人文学系の人は出しゃばらないで欲しい。結論の無い討論は避けて欲しい。討論を始める前には、ゴールをきちんと確認してから始めて欲しい。喧嘩をしたいのなら、居酒屋で暇な人を見つけてやっていて欲しい。科学的知見がない人は法律の制定に関わらないで欲しい。寧ろ、科学的知見がない人(法学部出に多い)は政治をしないで欲しい。社会が科学的知見に基づいてもっと建設的になればいいと思う。

ビールを飲みながら、好みのチームのどちらが優れているのかを主張しあうのは喧嘩。共通の前提の下に、問題解決を図るのが討論である。菅総理が、「国会は議論の場に」という主張をしたが、「国会を討論の場」にして欲しいと願う。

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