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投稿

3月, 2011の投稿を表示しています

理系VS文系、保守VS革新、政官財癒着のゴキブリ達

*この文章は地震が起こった日(3月10日西海岸時間)に書いており、発表が遅れました。ただ、この文章で述べた問題点が地震の後に白日の下に晒されている現状で、記事をお蔵入りにせずに、発表することになりました。 断っておくが、先の記事(人文学の話)は人文学系の人を差別しているのではなく、科学的な見地の無いくせに教養を前面に出す人文学系の人を批判しているのである。全ての人が教養を学ぶべきだ。しかし実証可能な科学的見地を学ばずに、教養だけを振りかざすことは、それはまるで、銃を持ってる人が大勢いる中に日本刀を持って戦いに挑んでいるようなものだと思う。少しだけ本を齧れば、教養があるように感じて、インテリのふりが出来る。その辺に大勢いる、他人の批判だけをして理想論だけを言う人のことである。或いは、社会を何も変える事ができない解釈論のみに固執する人である。そしてそういう人を教養がある人と看做す風潮がある。そういう社会だからこそ、マイケル・サンデルの講義番組が社会的に過大に評価されたりするのであろう(少人数で行われるという前提で、リベラルアーツ系の大学授業としては卓越している)。人文学者になってサンスクリッド語を学んで歴史の研究をするのであれば、ジャヴァ言語を学んで面白いアプリでも作ったほうが間違いなく世の為となろう。 さて今回は続きと言えば続きになるのだが、右と左について考えたいと思う。自分の言動を見つめ直すと、私は単なるリバタリアンなのかも知れない。それはどうでも良い。私が分析したいのは、いかに「右」と「左」がぼやけているのかということだ。日本ではそれらを代表する政党が無い。左右のぼやけがどのような負の外部性を生み出し、そして、それに対してどのような解決策がありえるのか、という事だ。 日本の大衆の間では戦後一貫、「左」は社会主義や共産主義者、「右」は暴力団の隠れ蓑である右翼団体、そしてその他は「中道」として捉えられていたと思う。あまりにもいい加減な定義であるが、玉石混交の自由民主党が反共産主義という名目だけを繰り返して、政権を長々と担ってきたことからも、私が言っている事は理解してもらえると思う。自民政権の中でも、中道左派と右派が混在しているように報じられている。いわゆる「鳩」対「鷹」である。所謂「左」対「右」という考え方は、ソ連が崩壊して、中国が拝金主義化し始めた20年前に死んだ。...

神戸の地震と比較する愚かさ

今回の地震について、中長期的には日本経済にとって良いなどとする論調を良く見る。特に海外の経済番組でそのような発言を多く聞く。その人達は今回の地震を阪神大震災と比べているのである。今回の東北大地震と神戸の地震を比べるのには無理があると思っている。 まず地震そのものの規模であるが、阪神大震災と呼ばれる1996年に起きた地震の被害は至極限定的な物であった。武庫川を越えたあたりから須磨や垂水まで。加えて淡路島の北端。最も大きな被害は兵庫県の南、海沿いを中心に15~20kmの範囲内で起こっていた。豊中などの大阪府北部でも死者が出た為に(兵庫圏外の死者数は36名のみ)、神戸大震災ではなく阪神大震災と呼ばれたわけだ。大阪の町は殆どノーダメージであった訳だし、京都も何の問題もなかった。阪急電車も数日後には梅田から西宮北口駅まで運転が再開したし、JRや阪神も西宮界隈まで運転を再開した。西宮まで電車で行ってしまえば、深刻な被害にあった西宮市や神戸市灘区、中央区や兵庫区には徒歩で行こうと思えば行けるわけである。阪神高速、東海道新幹線、神戸市内の私鉄やJRの復旧には数ヶ月を要したとは言うものの、国道二号線は混んでいるとは言えども、使えたわけである。神戸港は機能不全となったが、大阪や京都から物品が消える事は無かった。阪神高速はだめでも、中国道は問題なく走れたのである。神戸の町がズタズタになったというものの、サプライチェーンはしっかりと維持されていたのだ。神戸の地震では、家屋倒壊や人的被害は大きかったというものの、工場施設や物流、農業やエネルギーといった我々の生活を直接支えるものに対する被害は今考えると限定的であった。それは、地震そのものが起こった場所は悪かったが、規模そのものは比較的小さかったためであろう。そして、どのような形で何を中心として復興させれば良いかの政治判断が比較的簡単に出来た。 神戸市中央区、灘区、芦屋や西宮などは日本有数の裕福な地域であり、住民の懐は深い。それらの地域で被災した多くの人達は、家が多少壊れても自分達でさっさと立て替えた。大阪などを中心に工務店などの業務は全くと言っていい程ダメージを受けていなかったので、再建は比較的早く進んだ。1997年には橋本内閣下で消費税増税が行われる事が解っていたので、3%のうちに家を建て替えようと考えた人も多く1996年の住宅着工数は異様...

地震、津波、原発、そして東京の落日

地震、津波、原発のニュースをNHKで見ているのだが、他のことが手につかない。さらにアメリカでは、ナショナルとローカルにかかわらず津波と原発のニュースがトップ扱いになっており、英語での放送なのだが、映像を見ていて日本にいるのではないかという錯覚を覚えてしまう。多くの人が悲劇が好きなだけと言う事は良く理解しているつもりだが、日本の惨状が報道されているというのは非常に有り難い事である。私は社会科学を本職としているので、メガネを曇らせる虞がある「お涙頂戴の話題」はなるべく避けているのだが、被災者の報道には心を砕かれる。若かりし頃、神戸で自分の目で見た事と比べても、明らかに規模が違う。地震とそれに伴う津波で不幸にも命を落とされた方達にはご冥福を心から申し上げる。 しかしながら、いつまでもヒューマニタリアンの話をしていても仕方がない。不謹慎と言われるかも知れないが、これは三陸沖で起きた地震であり、比較的人口が薄い地域が被災したものであり、その地震が日本を殺す必要はない。原発の問題など、信じられないような事態も起きている。しかし心臓が機能不全になると、私達は傷口に血液を送れなくなる。人命が第一。そのステージは恐らく終わった。被災者の秩序だった行動に助けられた事は否定のしようがないが、政府の人命救助の対応にはAプラスをあげられると思う。食料や水、燃料が被災地に行き届くか?日本には食料も水も十分にあるので、ロジスティックの問題が解決されれば心配する必要がないだろう。被災地があまりにも広大である為に、実際問題として解決には時間がかかると思う。自衛隊にイニシアティブを取らせてロジスティックを一元化している事も評価できる。 地震の直接の被害は16-25兆円ということであり、これはすぐに復興できる。今回は原発に端を発する三次災害の問題を語りたい。既に多くの専門家が指摘されているように、チェルノブイリのような事態になる事は恐らく無いだろう(この時点においても、今後絶対に安全であるとは保証できないが)。ただ原発問題から派生した災害は長期で日本経済を苦しめると思う。私の結論を言うと、原発に端を発する社会問題は金銭的にもかなり深刻であり、東京の国際競争力を大きく落とすことになろうと推測する。 まず原発自身の問題については、冷却をすれば良いと言う事である。という事は、今後も冷却する必要があるという事だ...

討論と喧嘩の違い。時代遅れの「人文学」という名の教養

「少し左巻き」であると自称する人に経済の討論をふっかけられたのだが、全く無意味な話を二時間ほどして、気分が悪くなった。家のソファーで寝転がってビールでも飲みながらリアリティーショーでも見ている方が余程時間を有意義に過ごせたと思う。経済の話ゆえに、経済効果を最大化させる事が社会の役割であるという前提の下で喋っていたのだが、相手の人はその前提を共有していなかった。それどころか、経済活動や競争そのもを否定しておられたように思う。「愛すべきマリナーズ」ファンの私が、「憎きレッドソックス」ファンの親友と、サミュエルアダムスを飲みながら野球論議で喧嘩に近いコミュニケーションを楽しんでいる訳ではないのだ。 私は「規範的な話」には乗りたくない。つまり「~するべき」論である。何故ならモラルは人によって違うので、その手の話は絶対に結論が出ないからだ。二人の人間が規範的な討論を始めれば「喧嘩」になる。「討論」とは一定のゴールに至る解決方法を探すために行われる行為であると考える。「喧嘩」とは自分の方が相手よりも優れていることを解らせる目的でなされる行為であると考える。討論だと思って始めたものが、規範的な話で帰結する喧嘩になると、相手との審美眼の距離を思い知らされて嫌な気持ちになるだけである。全く建設的でない。 主義主張やモラル感(宗教を含む)の軸で物事を測れば、意見の違いは決して収斂しない。何らかの客観的な軸で物事を測らない限り、事態の収束はあり得ない。太平洋戦争をどのように評価するか、などという議題に良く直面する。暇な大学生や専門の学者同士がするのならまだしも、60を越えた老人が必死にやっていたりする。或いは政治家が国会内でそういった議論の真似事をしたり、多国間の政治問題になっていたりさえする。やがては史実の解釈問題にさえなる。「史実」自体は直接は観察できないものであるが、既に「起こった」のだ。そして、起こった史実は絶対に変えられない。あなた達が何を思おうとも、起こった事実が変わる事はあり得ない。つまり、討論すること事態が無意味である。そんなものは討論しなければいいと思う。ごちゃごちゃ言う人がいれば窘めるくらいの大人の余裕が必要ではないか、と私は思う。或いは、簡単な問題であるから誰もが意見を持ちやすいだけなのかもしれない。別の例を持ち出すと、エジプトが民主主義になるべきか。答えが出るわけ...