*この文章は地震が起こった日(3月10日西海岸時間)に書いており、発表が遅れました。ただ、この文章で述べた問題点が地震の後に白日の下に晒されている現状で、記事をお蔵入りにせずに、発表することになりました。 断っておくが、先の記事(人文学の話)は人文学系の人を差別しているのではなく、科学的な見地の無いくせに教養を前面に出す人文学系の人を批判しているのである。全ての人が教養を学ぶべきだ。しかし実証可能な科学的見地を学ばずに、教養だけを振りかざすことは、それはまるで、銃を持ってる人が大勢いる中に日本刀を持って戦いに挑んでいるようなものだと思う。少しだけ本を齧れば、教養があるように感じて、インテリのふりが出来る。その辺に大勢いる、他人の批判だけをして理想論だけを言う人のことである。或いは、社会を何も変える事ができない解釈論のみに固執する人である。そしてそういう人を教養がある人と看做す風潮がある。そういう社会だからこそ、マイケル・サンデルの講義番組が社会的に過大に評価されたりするのであろう(少人数で行われるという前提で、リベラルアーツ系の大学授業としては卓越している)。人文学者になってサンスクリッド語を学んで歴史の研究をするのであれば、ジャヴァ言語を学んで面白いアプリでも作ったほうが間違いなく世の為となろう。 さて今回は続きと言えば続きになるのだが、右と左について考えたいと思う。自分の言動を見つめ直すと、私は単なるリバタリアンなのかも知れない。それはどうでも良い。私が分析したいのは、いかに「右」と「左」がぼやけているのかということだ。日本ではそれらを代表する政党が無い。左右のぼやけがどのような負の外部性を生み出し、そして、それに対してどのような解決策がありえるのか、という事だ。 日本の大衆の間では戦後一貫、「左」は社会主義や共産主義者、「右」は暴力団の隠れ蓑である右翼団体、そしてその他は「中道」として捉えられていたと思う。あまりにもいい加減な定義であるが、玉石混交の自由民主党が反共産主義という名目だけを繰り返して、政権を長々と担ってきたことからも、私が言っている事は理解してもらえると思う。自民政権の中でも、中道左派と右派が混在しているように報じられている。いわゆる「鳩」対「鷹」である。所謂「左」対「右」という考え方は、ソ連が崩壊して、中国が拝金主義化し始めた20年前に死んだ。...
雨が降り続くシアトルに住むブログ主が、カプチーノを飲みながら、時事・経済・政治・食・スポーツ等について社会科学的見地から騙ります。広告のクリックをする事、宜しくお願いします!