私は2001年の春にシアトルにやって来た。イチローもその年にシアトルに来た。それ以来、私はセーフコフィールドに頻繁に通った。マリナーズは良いシーズンが少し続いた後、とても弱いチームになり下がった。チームの好不調に関係なくイチローはヒットを量産し、外野の守備で魅せてくれた。捻くれ者の私は、メインストリームが嫌いなことが多いのだが、イチローはメインストリームであり、私の中のヒーローである。
イチローこそが私のシアトル生活であったといっても過言ではない。アメリカで生活をすると楽しいことも多いが、それなりに辛いことも多い。そういった時、イチローの活躍に私自身が何度救われた事か解らない。日本人のイチローがアメリカで頑張っているのだから、私も頑張れるぞ、と。地元のアメリカ人からリスペクトを受けるイチローを見て、私は日本人だという事を誇りとしてきた。
イチローがヤンキースに移籍を決めたとき、私は心を砕かれた。そして翌年の春、私自身にも転換の機会が訪れ、シアトルにこだわることを諦め、米国の南部に行くことにした。冗談抜きにして、イチローがシアトルを去ったという事が、私自身の意思決定に多大な影響を及ぼした。ラッキーにも、私は一年半ほどでシアトルに帰ってくることができた。鈴木一朗のいないシアトル。私はセーフコフィールドに行くことは殆どなくなり、マリナーズの試合を見ることもなくなった。そして、いまだに私の机の上には、イチローのバボヘッド人形が並んでいる。
NL東地区のフロリダマーリンズがシアトルにやってくるのは6年に一回だけである。セーフコでの三戦目、私は仕事を朝一ですべて終わらせてセーフコへ行った。イチローさんのデュアルバボヘッド人形を貰った。スタントンの代わりに9番ライトフィルダーで出場しているイチロー。エリア51はイチローのものに決まってるじゃないか。イチローは白髪が増えた。そしてマーリンズの服を着ている。しかし、立ち振る舞いやバッティングスイング。イチローはイチローだ。
ただ、バッティングを見る限り、往年の鋭さはない。スイングしてもボテボテ。ヒットになった当たりも、運が良かったとしか言いようがなかった。衰え。言いたくはないが、そんな言葉が私の脳裏に過ぎる。イチローもそろそろ潮時かも知れない。
試合はヘルナンデスもボルケスもピリッとせず、ダレダレのゲームになった。試合が完全にダレてしまって帰る人も多かったが、9回の最後の打席にイチローが立つ。もしかすると、セーフコでイチローを見るのは最後となるかもしれない。むしろ、私にとって最後に見るイチローの打席になるかもしれない。三振するかも知れないし、ボテボテのゴロを打つかも知れない。何が起ころうと、イチローの最後の打席を見納めよう。
いつも通り屈伸し、バットを一回転させて伸ばすイチロー。5点差の試合で、勝負はついていた。球場に残った人たちの目的は、イチローの最後の打席を見送ることだ。綺麗な当たりのヒットくらいは打って欲しいな、と。「イ・チ・ロー、イ・チ・ロー!」いつもながらの応援が聞こえる。球場が総立ちでイチローに声援を送る。
マーシャルが投げた一球目、イチローはフルスイングした。ライナー性のあたり。エリア51の方向に飛んで行く。そして打球はそのままスタンドに吸い込まれた。球場は大歓声に包まれた。私は目の前で起こったことを信じることができなかった。野球の神様というものは本当にいるのかも知れない。イチローはまさに千両役者である。こんな終わり方があるだろうか?
熱いものが込み上げてきた。私の頭の中には2001年以降の色々な思い出が一気に噴き出した。もうあれから17年も経つのか?楽しいことも辛いことも一杯あった。英語もわからない若かった自分がセーフコフィールドでプレーするイチローに支えられてきた。イチローも年を取り、私も若いとは言えない年になった。イチローを見続けてきた自分。イチローは現役を続けるとは言っているものの、あれがセーフコでは最後のホームランであった公算が高い。信じたくないが、セーフコでの最後の打席であったのだと思う。イチローがいるからこそ、シアトルなんだ。私は、イチローのいるシアトルが大好きだ。イチロー去りし後のシアトル。私は米国を去り、日本に帰ろうと真剣に考えた。
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