ついに日本でもグーグルマップのストリートビュー機能が加えられた。ただこの時点では、シアトルでストリートビューサービスは始められていない。アメリカ国内でストリートビューがカバーされていない都市はメンフィスとDCくらいなもので、シアトルが除外されているのはライバルのマイクロソフトに対抗する意図的なものを感じる。
さて、非常に面白いと思ったのは、日本国内ではプライバシーに関する議論が過剰に沸き起こっているからである。確かにストリートビューを一目見ると、新しい技術に対する恐怖感のような物が湧き上がるのは事実だ。実家を見た時は、妙に嬉しい気分となったと同時に、不慣れが齎す複雑な気分も交錯した。しかし、それがプライバシーと直結するかどうかは別の問題である。犯罪に利用されるかも知れない、などという議論は見当違いも甚だしい。
情報化社会が目指すものは、最終的には社会活動のコスト削減並びに新たな富の創造に他ならない。特に、効率化が齎す社会コストの削減は、私たちの生活を大変豊かにしている。例えば、私は海外にいながらにして、サンスポと夕刊フジの記事を毎日チェックできる。これは、15年前くらいにはあり得なかったことだ。その他にも、情報化が齎した恩恵はそこら中に溢れている。私は、図書館に行く必要が無く、オフィスのコンピュータで大抵のデータや論文を手に入れることが出来るし、自宅にいながら自分が株を買おうとしている会社の最新のデータを閲覧できる。商店に行く前に価格を調査できるし、実際に商品を自宅から購入することすら出来る。最新の音楽をレコード屋に行くことなくダウンロードする。さらにアメリカでは、役所の書類の申し込みや税金の申請などもほとんどインターネット上で完結する。
これらは、コンピュータやインターネットのおかげで急に降って沸いたような事柄ではない。今まではアナログで行われていて、時間や金銭を浪費していたタスクを、情報技術を使ってユーザーのために簡便化しただけに過ぎない事柄なのだ。つまり簡便化できるものは全て簡便化してしまおう、それこそが情報化の一つの目的であるのだ。つまり、お金と時間を書ければ手に入るものは、全てネット上で公開してしまおうという事こそ、情報化社会が目指す正しい方向性なのである。
そういう意味で、ストリートビューは完全に正しい。切符を買って電車に揺られるか、ガソリンを燃やして車を運転して、手間隙かけて現地に行けば見える風景を、ただインターネット上で公開したに過ぎないからだ。ぜんりん等の地図などにも、かなりの情報が公開されているが、それらは余り問題にならない。公のものであり、全ての人が閲覧できるものであるにも関わらず、である。ストリートビューの試みは完全な意味での簡便性で、実際に存在する物は全てネット上に組み立てるべきで、自宅からアクセスできるようにしてもらっただけなのだ。
防犯の点が気になる人もいるだろう。しかし計画周到な泥棒は、今までも実際に現地に行って視察していた訳で、ストリートビューが新たな犯罪を誘発するかどうかは疑問である。勿論ストリートビューによって、犯罪を働く者の利便性も増すかも知れない。しかし、逆に、警察などが努力して情報技術を駆使し、例えばなんらかの形でグーグルなどの企業からアクセスをされた記録を辿れるようなシステムを作れば、事後ではあるが犯罪検挙に役立つ可能性もある。被害にあった家の付近にアクセスを繰り返していた人間を特定すればいいからである。それは、現在の警察のアナログな聞き込み調査における検挙率を遥かに超える可能性もある。
グーグルマップの本当の強さは、余り日本のメディアでは触れられていないが、APIだ。Application Programming Interfaceを利用し、私たち個人や企業が、グーグルマップを自由に利用できる。この事で一気に実用性の可能性が広がるはずである。つまり、情報化社会が持つもうひとつの側面、価値の創造を齎す可能性があるのだ。価値の創造をグーグルは自ら行わず、他人に任せている。オープンソースであるが故に、皆がその可能性にチャレンジ出来るのだ。コストの削減は勿論のこと、価値の創造の可能性も見え隠れするグーグルマップストリートビューに、プライバシーなどの難癖をつけるのは、社会全体の成長に抗うという観点から、非常に不快な動きと言わざるを得ない。個人がどのような感想を持とうが、情報化社会が折れるわけはないし、下手な規制をかけて日本社会の競争力を削ぐ様な方向にだけは持っていって欲しくない。
ただストリートビューで関西地域を見ていると、一部の地域を意図的に避けたのか、あるいは後から削除を要請されたのか、大きなクラスター状の空白域が目立つ。理由も推して図るべく、あからさまである。大阪市内や京都近辺で特に顕著であるこのような不公平な措置は、理由がどうであれ今すぐに止めるべきだ。公平な全域のストリートビューの公開を切に希望する。
最後に、プライバシーなどとオブラートに包んだ表現で我々の知る権利を阻害し、規制を強化させ、効率性を落とす愚挙が罷り通っている。プライバシーの法律があろうと無かろうと、犯罪組織は跋扈しているし、現代社会に住む我々にプライバシーなど存在していない。金銭を払い、手間隙かければ誰もが情報にアクセスできる。規制強化の悪法は、犯罪組織の活動を助長し、政府や公組織のサボタージュを支援し、既存勢力の利権を確保するものに他ならない。守らなければいけないプライバシーが存在することは否定しない。ただ、必要の無い負担を民間にかけ、日本全体の競争力低下を招きかけないようなプライバシー重視の風潮は明らかに馬鹿げているし、プライバシー重視を唄う利権集団の主張になびく国民性をも危惧せざるを得ない。
雨が降り続くシアトルに住むブログ主が、カプチーノを飲みながら、時事・経済・政治・食・スポーツ等について社会科学的見地から騙ります。広告のクリックをする事、宜しくお願いします!
8/29/2008
8/23/2008
歪な街ローマに見え隠れする関西との共通点
関西地域が停滞して久しい事は何度もこのブログで書いている。関西地域には競争力が全く無い。というのも、関西全域が魅力が無い都市圏と化してしまったからだろう。大阪に本社機能を構えていた企業は挙って首都圏に移転してしまった。周りを見ていると優秀な人材から順に関西を離れていった。私もたまに大阪に里帰りするのだが、廃れ行く自分が育った土地を見ると、かなり鬱になってしまうのだ。私は関西の風土や文化が好きではあるが、正直言って関西に戻りたいとは到底思えない。
関西の地方自治体の政治を見ていると、様々な疑問が浮かび上がる。小学生が考えてもおかしな事に自治体は税金を注ぎ、努力をしている人間に対しては非常に冷たい政策を執っている。ごねた人間が得をする、正義のかけらもない社会を地方自治体は必死で作り出し、それを平等と呼ばせる。問題は確実に存在し、多くの人(少なくとも関西人)はそれを理解している。それらの問題に真摯に取り組み、企業活動や社会の効率化を図れば、関西はまだ捨てたものでは無いはずだ。しかしそれらの処々の問題は、「言ってはいけない」問題として取り扱われ、決して公に晒される事はない。タブーや禁断を21世紀の情報化社会でも必死に守ろうとし、そしてタブーがゆえに政治のサボタージュが起こる。はっきりと存在するものを「無い」と言い張り、その根本的な問題を無視し、表層のどうでも良い物だけをいじくる政治。勿論、何かを変えれば、そこにまた蟻は群がる。そして、努力した人たちはやる気をなくし、ますます地域全体がどす黒く染まる。存在しないはずのもを必死に残したい勢力が存在し、それら負の遺産とともに社会が真綿で首を締め付けるがごとく凋落していく様子。こんな街に誰が住みたいのだろうか?
私はこの夏をローマで過ごしている。ローマの日常を見ていると、私は関西のどす黒い禁断の社会構造と比較せずにはいれなくなってしまう。ローマで生活すると、否が應にもヨーロッパ社会の負の遺産である階級社会を垣間見てしまう。貧しい人と、知的階級がはっきりと二分しており、その間を自由に行き来することは出来ない。貧民の子供は貧民であることを約束されており、EU統合以降にイタリアに入ってきた移民の連中が貧民たちに混じる。アメリカの格差社会はアメリカンドリームと呼ばれる一発逆転が可能だが、それとは全く違う生まれたときに既に豊かさ決まっている階級社会。これはまるで関西に存在する、あの存在しないはずの階級社会のようだ。古い町並みや、遺跡群。そして、観光産業で生業を建てる街、ローマ。階級社会が足枷になり古都を蝕む。もしや、この街は京都そのものではないか?ただ住んでいる人々は、京都人ではなく、泉州人のように見えるのだが。
生活のにおいがする筈の無い観光の街に、泥臭い生活臭がこみ上げる。人々の稼ぎは少ないものの、物価は観光地の値段である。朝の地下鉄、北部の優秀な人達がスーツに身を包んで役所に出勤する横で、アコーディオンを弾きおひねりを乞う人がいる。ローマの若者たちはマナーの欠片もなく大声で地下鉄ではしゃいでいる。その風景に違和感を覚える観光客たちが眉を顰める。競合力の全く無い街、ローマ。
ピラミデから西に行くと、テスタッチョと呼ばれる地区がある。元々、屠殺場があった場所と聞き、関西出身の私は少し緊張して街を歩いた。市場の近くのトラットリア(安物レストラン)の外の席に腰を掛ける。ペンネアル・アッラビアータをプリモに、そしてトリッパ・アラ・ロマーナと呼ばれる、臓物の煮込みをセコンドで注文する。そのような歴史のある街では、やはり臓物のようなものが出てくるのは古今東西一緒なのか?赤ワインをがぶがぶ一人で飲む。待てど暮らせど注文した物は出てこない。既に小一時間が経過している。ローマで効率を叫んでも仕方ない。通りを行きかう人々を目に、一人でレストランに来たことを後悔する。夏といえども、夜風は肌寒い。空腹と寂しさに嫌な感じにアルコールが回る。
やがて、アッラビアータが出てきた。ペンネは上手く湯掻かれていた。そして、それにしても辛い。非常に出来のいい仕上げだった。乾燥させた単純なペペロンチーノだけの辛さではない。恐らくは熟成させたペペロンチーノを使って深い味わいを出しているのだろう。非常に出来の良い一品だ。
プリモに続きセコンドのトリッパがやって来た。牛の胃袋は柔らか過ぎず、硬すぎる事もなく、歯ごたえを残した最高の出来だ。トマトソースの味に、妙にコクが残る。このコクはチーズか?かと言って、しつこくも無い。トマトソースの酸味と、たまねぎや香草の匂いが、臓物特有の匂いを完全に消している。これだけで十分に満足できる仕上げだった。
しかし、会計で30ユーロは高すぎる。だが、これがローマでは水準だ。隣席の人達は私よりも豪華な物を食べながら、私の半額も払っていないことも気になる。人々が歪な形で助け合い、価格を歪める。非効率と、一部市民のたかり体質が歪さに拍車をかける。この国が何故にG8に入れてもらっているのかは理解に苦しむ。私は思う。いくら美味しくとも、一人で食べるくらいなら、レストランに行かずに、アパートで自分で作ったほうがマシだった、と。そして考える。ローマに生まれるくらいなら、まだ大阪に生まれたほうが良かったのかも知れない、と。
関西の地方自治体の政治を見ていると、様々な疑問が浮かび上がる。小学生が考えてもおかしな事に自治体は税金を注ぎ、努力をしている人間に対しては非常に冷たい政策を執っている。ごねた人間が得をする、正義のかけらもない社会を地方自治体は必死で作り出し、それを平等と呼ばせる。問題は確実に存在し、多くの人(少なくとも関西人)はそれを理解している。それらの問題に真摯に取り組み、企業活動や社会の効率化を図れば、関西はまだ捨てたものでは無いはずだ。しかしそれらの処々の問題は、「言ってはいけない」問題として取り扱われ、決して公に晒される事はない。タブーや禁断を21世紀の情報化社会でも必死に守ろうとし、そしてタブーがゆえに政治のサボタージュが起こる。はっきりと存在するものを「無い」と言い張り、その根本的な問題を無視し、表層のどうでも良い物だけをいじくる政治。勿論、何かを変えれば、そこにまた蟻は群がる。そして、努力した人たちはやる気をなくし、ますます地域全体がどす黒く染まる。存在しないはずのもを必死に残したい勢力が存在し、それら負の遺産とともに社会が真綿で首を締め付けるがごとく凋落していく様子。こんな街に誰が住みたいのだろうか?
私はこの夏をローマで過ごしている。ローマの日常を見ていると、私は関西のどす黒い禁断の社会構造と比較せずにはいれなくなってしまう。ローマで生活すると、否が應にもヨーロッパ社会の負の遺産である階級社会を垣間見てしまう。貧しい人と、知的階級がはっきりと二分しており、その間を自由に行き来することは出来ない。貧民の子供は貧民であることを約束されており、EU統合以降にイタリアに入ってきた移民の連中が貧民たちに混じる。アメリカの格差社会はアメリカンドリームと呼ばれる一発逆転が可能だが、それとは全く違う生まれたときに既に豊かさ決まっている階級社会。これはまるで関西に存在する、あの存在しないはずの階級社会のようだ。古い町並みや、遺跡群。そして、観光産業で生業を建てる街、ローマ。階級社会が足枷になり古都を蝕む。もしや、この街は京都そのものではないか?ただ住んでいる人々は、京都人ではなく、泉州人のように見えるのだが。
生活のにおいがする筈の無い観光の街に、泥臭い生活臭がこみ上げる。人々の稼ぎは少ないものの、物価は観光地の値段である。朝の地下鉄、北部の優秀な人達がスーツに身を包んで役所に出勤する横で、アコーディオンを弾きおひねりを乞う人がいる。ローマの若者たちはマナーの欠片もなく大声で地下鉄ではしゃいでいる。その風景に違和感を覚える観光客たちが眉を顰める。競合力の全く無い街、ローマ。
ピラミデから西に行くと、テスタッチョと呼ばれる地区がある。元々、屠殺場があった場所と聞き、関西出身の私は少し緊張して街を歩いた。市場の近くのトラットリア(安物レストラン)の外の席に腰を掛ける。ペンネアル・アッラビアータをプリモに、そしてトリッパ・アラ・ロマーナと呼ばれる、臓物の煮込みをセコンドで注文する。そのような歴史のある街では、やはり臓物のようなものが出てくるのは古今東西一緒なのか?赤ワインをがぶがぶ一人で飲む。待てど暮らせど注文した物は出てこない。既に小一時間が経過している。ローマで効率を叫んでも仕方ない。通りを行きかう人々を目に、一人でレストランに来たことを後悔する。夏といえども、夜風は肌寒い。空腹と寂しさに嫌な感じにアルコールが回る。
やがて、アッラビアータが出てきた。ペンネは上手く湯掻かれていた。そして、それにしても辛い。非常に出来のいい仕上げだった。乾燥させた単純なペペロンチーノだけの辛さではない。恐らくは熟成させたペペロンチーノを使って深い味わいを出しているのだろう。非常に出来の良い一品だ。
プリモに続きセコンドのトリッパがやって来た。牛の胃袋は柔らか過ぎず、硬すぎる事もなく、歯ごたえを残した最高の出来だ。トマトソースの味に、妙にコクが残る。このコクはチーズか?かと言って、しつこくも無い。トマトソースの酸味と、たまねぎや香草の匂いが、臓物特有の匂いを完全に消している。これだけで十分に満足できる仕上げだった。
しかし、会計で30ユーロは高すぎる。だが、これがローマでは水準だ。隣席の人達は私よりも豪華な物を食べながら、私の半額も払っていないことも気になる。人々が歪な形で助け合い、価格を歪める。非効率と、一部市民のたかり体質が歪さに拍車をかける。この国が何故にG8に入れてもらっているのかは理解に苦しむ。私は思う。いくら美味しくとも、一人で食べるくらいなら、レストランに行かずに、アパートで自分で作ったほうがマシだった、と。そして考える。ローマに生まれるくらいなら、まだ大阪に生まれたほうが良かったのかも知れない、と。
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