文科省問題で、霞が関の官僚について色々言われている。官僚とは、内閣府や大臣に統制された国の行政のトップを担う人たちである。官僚の仕事は「法律」に則り、粛々と国の業務を執行することである。逆に、官僚は立法府の仕事は本来するべきではない。法律を作ったり、国の大枠を決めたりする事は、三権分立という考え方が正しければ越権行為に当たる筈である。ただ国会議員やその子分たち(秘書など)が余りにも無能な上に資源を持たないため、本来であれば行政府に特化するべき官僚たちが立法府を手助けする仕事をやらざるを得ないという懐事情に日本の悲劇があるのだと思う。この話は別の機会に深く追求したい。 私にも官僚の友人たちが少なからずいるし、仕事上、霞が関の官僚たちと話す機会は多い。で、思う事なのだが、マスコミで思い描かれているような優秀な人は五人に一人くらいで、五人に四人くらいは普通の人材である。まあ、五人に一人優秀な人がいれば凄いとも言える。そして極稀に、とてつもなく優秀で、官僚にしておくのは勿体ないような「切れる人材」に出くわす。私が考えるに、真相のところ、官僚の仕事に切れるような優秀さは必要ないと思うのだ。そういう人たちが民間に行き、日本の生産性に貢献してほしいなあと思う。 官僚にとって必要な能力は三つある。1)事務処理能力、2)コミュニケーション能力、そして3)現実認識能力である。キャリアの官僚は一種国家公務員試験をこなしているので、個人差はあれ、必要最低限の事務処理能力はほぼすべての人達が有しているといっても過言ではない。ただ、コミュニケーション能力に劣る人たちが多々見受けられる。官僚に求められるコミュニケーション能力というのは、プレゼン力などではなく、的確に質問等に答える必要があるという事だ。つまり、きっちりと宿題をし、的確な情報を的確に伝えるという事である。が、質問をする相手が、事情を知らない人たちであることも多々あるため、多種多様なシチュエーションに会ったコミュニケーション能力が求められる。勉強に集中し過ぎていたせいか、事務処理能力は高いが、コミュニケーション能力が極端に落ちる官僚というのを偶にではあるが、見かける。最後に、現実認識能力である。これが無いと、大変しんどい。色々な事情を想定するのだが、法律の裏の歴史背景や、議員同士の力関係、実際の社会の動きなど、一連のビッグピク...
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