5/07/2017

社会主義の足音(2):教育の無償化

社会の長期的な成長を促進するものとして「教育」が大切であることは論を俟たない。しかし、ここでいうところの教育とは「学歴」ではない。労働者の生産性を高めるために施されるものである。

「大学を卒業した人の方が高卒の人よりも給料が良いので、全員が大学に行くべきだ」などという陳腐な意見を述べる識者を良く見かける。これは相対性の問題である。大学卒業した人が高卒の人に比べて良い仕事が貰えるのであるから、良い給料が与えられている、と考えるのが普通だろう。もし、全員が大学を卒業したとすると、大卒者同士の競争で、給料が高い人と低い人が出てくるのだと思う。社会のパイはある程度決まっているので、そのパイを取り合うときの手段として学歴が用いられているのだ。マクドナルドやコンビ二で働く人は絶対に必要なわけで、そういう人が無駄に学歴をつけている社会というのは、働くべき人が四年間非生産的な事をする社会である、という事になる。学歴はイノベーションを産むものではなく、むしろ社会の無駄な「官僚制」を助長することになる。

日本という国家のためには、人々のイノベーションを助長し、社会を革新的に変えていくような教育が必要である。こういった教育には、莫大な資源が必要となる。「学童」に知識だけでなく、経験などを積ませるような教育は、無茶苦茶高くつくのだ。また、キャパシティーが足りない人にこういった教育を施すことは資源の無駄になる可能性が高い。

教育に関しては、私たちは「質」の話をする必要がある。一年間に十数万円を子供に配って全員高校または大学を卒業させる。その程度のお金で受けられる教育など、たかが知れている。むしろ、そういった事で、伸びる要素があるにも関わらずほかの生徒と「平等」に無駄な授業を受けさせられる学童が可哀そうでならない。

教育こそが自由であるべきものであるし、教育を受けない自由もあってしかりだと思う。社会にはエリートも必要であるし、コンビニの店員も必要なのだ。問題の少ないサラリーマンを増やすために、教育の無償化として相続税を上げるなど、「共産主義か?」と問いたい。

社会には、高学歴だが使い物にならない人たちが溢れている。無駄に大学院を卒業し、社会も経験した事の無いような使い物にならない博士号取得者とかが一杯いる。まあ、大学教育を無償化すれば、こういう人たちの仕事は作れるかもしれない。

いづれにせよ、国家がやることは、教育には介入しないという事である。イノベーションを産むような教育を作るためには自由に競争させるしかないと思うのだ。文部科学省とか、無意味なので潰せばよい。国家が教育を全面的にコントロールする国。それは全体主義の国だと思う。日本はそういう方向に行こうとしているのだろうか?

そして何よりも残念でならないのは、橋下徹や小泉進次郎といったリバタリアンの匂いがした連中たちが、この問題ではこぞって国家主義的なゴール設定をしていることである。いったい私はどの政治家を信用すればよいのだろうか?